Magazine43:外国籍の子どもの教育提言
岐阜の小学校。1年生の国語の授業を見た。このクラスには、3人の大人がいた。一人は学級担任。もう
一人は、TT加配の教師。そして、日本語を話せない子どものためのボランティア(この日はこの地域を研
究対象ともしている大学院生。他に市の職員の人もいて交代で学校にやってくるそうだ)。合計3人が教室
にいる。下記の写真で確認して下さい。いわゆる外国籍の子は、全部で二人。もう一人は、日本語での日常
会話はある程度できるそうです。

黒板に字を書いている人が担任。一番前の席の男の子の左に腰掛けている人がボランティアの院生。もう
一人写っていませんが、右にTTの先生がいます。
いろいろ書きたいことはあるのですが、大変興味深いことがここではおこっています。
ボランティアの方は、教師の発言や子どもたちの発言を、男の子にスペイン語に通訳しています。授業時
間は、国語という日本語の時間です。また、時々は、スペイン語で日本語のひらがなの字を教えています。
この日は、主語の下に動詞を付けるというねらいの日本語(国語)の授業です。
さて、通常の日本名を持つ、日本語をほとんど話せない日本生まれのこの男の子は、この時間に何を学ん
だのでしょうか?日本語でしょうか?それともスペイン語でしょうか?それとも・・・
学校での通訳は、単に通訳する以上の役割の明確化が求められるなと思いました。この点を聞いてみたか
っ たのですが仕事の都合で帰ってきてしまいました。今度また確かめたいと思います。
さて、帰りに市役所で調査報告書を買って帰ってきたのですが、その調査に基づく提言には、以下のモノ
がありました。
「外国人の子どもの教育の権利を明確化し、初等教育(日本の義務教育段階)の保障を制度的に確立。」
「外国人学校の法的位置づけの改善と日本の学校教育システムとの連携できる制度づくり」
「日本の学校に通う外国人の子ども達の多様性の尊重と学習保障の改善」
よくできた提言となっていると思う。視点は当然外国籍の子どもにありますが、その論理は日本の子ども
の多様性の尊重と学習保障の改善とも連動してくるに違いない。そう連なって欲しいと思ったことも書き加
えておきたい。また、1年以上もここに住み込んでボランティアと研究を続ける院生にエールを送りたいと
思いました。(2004.6.23)
Magazine42:雨漏り
台風によるよこなぐりの雨が続き、なんか音がすると思ったら、研究室の天井からピチャピチャ。
事務室から借りてきました夕方にはこんなに(写真は重くなるので削除)
21日は研究会も中止になりました。水に縁のある一日となりました。耐震補強と一緒に防水工事もお願
いしたいです。しかし、そんな中で唯一よかったことは、私の車が強い雨で多少きれいになったこと。
船が欠航だとニュースで流れていた所に勤務する彼は、出勤できたのだろうか。台風が来そうな時には、
前日に戻っているのだろうか。
今日は、可児に授業を見に行きます。外国籍児童と呼ばれる子たちを教えているクラスの予定です。道を
間違えずにいけるだろうかとても心配。(2004.6.22)
Magazine41:稲の中干し
台風が接近する雨のなか短く走った。雨ということで水の話題。
私の生まれた地域であれば、そろそろ「中干し」の季節である。今住んでいる愛知だともっと遅い時期が
それに当たる。「中干し」というのは、稲の水管理の一つで、茎の数がそろった後で幼穂ができる前の時期
に、田圃の水を落とすことを言う。これをしないと収穫量はだいぶ減る。
土中に酸素を供給し、無駄に茎の数を増やさないなどの効用があるとされてきた。
そのために、農業用水に水を流さないようにする時期が必要となる。そうしないと田圃の水を落とせない
からである。そうすると、稲の生育状況がある程度そろっていないと水の管理が難しい。こうして、早場米
地帯は早場米の品種を、そうでないところはそうでない品種をと決めざるを得ない。田圃で稲を作り続ける
限り、こうした制約に伴う合意を作り続けなければならない。稲と稲作りのサイクルに人間社会の行動が規
定される。
それにしても、梅雨の時期と完璧に重なる地域では、中干しのための水管理はなかなか大変。以上社会科
の教材研究情報です。(2004.6.21)
Magazine40:キャンドルナイト・キャンペーン
今日からキャンドルナイトだという。夏至を含む3日間、夜の8時から10時の間ロウソクを灯そうと呼
びかけている。新聞にもテレビにもラジオにも広告が載っている。あるNGOも環境省も企業も推進してい
る。
電気を消して節電、二酸化炭素排出量を減らす環境キャンペーンなのである。100万人の参加を呼びか
けている。サイトで登録も受け付けている。いろんな人が賛同していることがサイトを見るとわかる。
このキャンペーン、イベントとしてまったく無意味とは思わないが、環境省には参加して欲しくない。曲
がっているとはいえ、政府なんだから、他にやるべき仕事がある。京都会議で国際公約した二酸化炭素排出
量の削減するに向けた政策を実施に移す仕事の方が重要だ。現状では、日本の削減目標は達成されないこと
がわかっている。これを本気でやろうとしてこなかったことを反省し、「シャネルなどの企業もアリバイ的
に消灯するな」という方が先じゃないか。賛同することで企業は、協賛金以上の無料広告をしているのでは
ないかと思う。
善意で登録している人を非難するつもりはない。しかし、良いことそうなことが、悪そうなことを隠蔽す
ることはあるものだ。その一つかもしれない。
ロウソクの火はきれいな印象空間をつくる。しかし、この3日間はロウソクに火を入れにくくなってしま
った。(2004.6.19)
Magazine39:弟の戦争 他
ロバート・ウェストールの作品を読んだ。それが、『弟の戦争』徳間書店。湾岸戦争に題材をとっている。
イギリス人の子どもとイラクの子どもとが入れ替わって、入れ替わることによって湾岸戦争の視点も転換さ
せている。米英の視点を相対化させる。
これを読んだのは、演劇にもこの作品がなるというチラシを見たからである。見に行くことができない上
演日時だったので、原作だけでも読んでおこうと思ったのである。
後半は特に視点をひっくり返してくれる文章となっている。ただ、本の帯には、小学校中学年からと書い
てあったが、自分で読むには高学年以上じゃないだろうか。それでも端的な視点の転換を教えてくれる。入
れ替えてみるという作品は多いが、重要な手法。実際に入れ替えて具体化することは不可欠なんだと思う。
過去の記事にいくつか不正確な表現があって直した。読み直すたびにちょっと違うなというところを発見
する。今回は著作権についての「Mariのいろえんぴつ」さんのところ。著作権自体については比較的普
通。いや明確なコピーライト権者。そうだけれども、その表現がソフトだったからというのがより正確であ
る。打ち間違いも相変わらずある。文体も不統一で、常体だったり敬体だったりする。両方混じっているの
が一番いいのだという主張もあることを少し前に読んだ。
数教協の人が「打ち間違いは無視してアップを」と書いていた意味を実感中。
(2004.6.17・18)
Magazine38:観覧車

これは、刈谷の勤務先。人文棟の5階から図書館の方向を向いてとった写真です。わかるでしょうか。見
えてる屋根は図書館の屋根です。地平線の上に観覧車ができていました。その手前には池があります。碧海
台地の水不足対策としてつくられたものですが、このところ減ってきています。
学生に聞かれて調べたら、刈谷ハイウエィオアシスという施設が、12月に開業するんだそうです。年間
500万人を見込んで名鉄と近鉄が作っているらしい。第二東名となる伊勢湾岸自動車道からも入場できる
し、一般道からも入場できるらしい。
これが造られる経緯は、きっと面白い教材になる。この付近では、何たって、第二東名を通すために幼稚
園を移転させ、その謝罪の印に小さい図書館をつくったんだから。授業ネタがない人は、Magazin
26のような立場を参考に、詳細にデータを集めておくといいと思った今日このごろ。
(2004.6.15、16)
Magazine36:110円と140円、20円と2万円の間
110円と140円の違いは、クロネコメールと郵便の違いである。クロネコメールが安い。
しかし、郵便は転居先を登録しておくと転送してくれる。しかし、クロネコは、転送してくれない。だから、
クロネコに依頼する場合、転居届を出してくれる人が多数派の場合はさほど問題ない。しかし、引っ越しす
る可能性の高い人々に送る場合は、郵便の方が再送するなら結局得ということもある。不確実なメールを送
るときは、郵便に限る。先日、40通あまりもクロネコメールが返送されてきたのでびっくり。
20円と2万の違いは、イラクの人質の人が解放されるにあたって、今回の事件で市民が負担するとした
らいくらまでなら支払うかという雑談の際の数字である。一人あたり20円ならいいけど、2万円は払えな
いなどと学生が言うので、国家の問題を個人のレベルに置き直すと確かに限界はあるけど、・・・。
しかし、本質部分は、数字ではなくて、何故日本政府筋は自己責任論を持ち出したかということにある。
日本の政府・国家のやることだと思っていたことを、個人・市民が簡単に超えていったことが気に入らなか
ったのではないか。外交や軍事は国家が独占的に担当することだと信じている人には、これに個人が反対す
ることも、あるいは行政ルートと無関係に行動することも気に入らなかった。そこで、行政の責務も投げ出
して(国民の保護という責務)、自己責任といってしまった。思わず言った本音なのではないかと思う。
昨日のASAHIネットニュースには、日の君強制批判のPTA会長が辞任に追い込まれたという記事が
あった。記事の通りであったなら、おかしな事態が生まれている。自由な討論を圧殺する学校がそこにある。
もう少し普通の感覚を持ちたい。(2004.6.15)
Magazine35:成果主義でおどしちゃ仕事はできない
今、若手の教師にも、保護者の要求にいかに応えていけばいいのかを厳しく要求するようになってきた
というメールを読んだ。まわりの教師を常に意識し、それに追いついていけない自分を責める傾向がある
という。新採だから授業はうまくないけど、若さで子どもたちに人気があるとは見てくれなくなってきた
という。そういう学校も相当数に上ると確かに思われる。
昔から、「教師はどんなに若くても教師なんだから」と励ますつもりでおどす管理職はいた。しかし、
それが励ましでもなんでもなくなってきたということなんだろう。いわゆる成果主義を教育に持ち込んで
きているために生まれたゆとりのない発想からのものと考えられる。
教師というのは、いつも教師と「なろう」とするときに教師と「なる」のであって、決まったことを消
化できて教師となるのではない。あるいはまた、教師に向いた定まった性格があって一人前の教師となる
のではない。できること、教えられること、関われることを探そうとするときに教師となる。それはいか
にちっぽけに見えることであっても。
教え学ぶこと、関わるということはそういう小さな積み重ね以外にありえない。
では今、教師となるためには、何を、どうすると考えたらいいのだろう。
今世の中が暴力と競争だから、平和と共同につながる道を具体的に追求することじゃないかと思う。自
分と出会う人々すべての中に(だから自分の中にも)、二つのせめぎ合いを見つけ出し、自分にできるこ
とを探すことではないか。
上まで書いて不満な点があることを、走りながら気がついた。
若い教師が自己を責めるのは、自己への希望や期待や可能性を信じている裏返しでもあるからではない
かと。そして、自分を社会とつなげて自律的に判断したいと思っているからではないか。単に社会の責任
にしたのでは、自律的ではないと見ているからではないか。その希望を言葉に置き直し、ささやかな行動
に置き直すことなのかなと。(2004.6.14)
Magazine34:郡山さんの話
午後、本さんの憲法の意義を中心にした話しと、郡山総一郎さんの話しを聞いた。憲法は国家を統制す
るためにあるということを中心にした話しが本さん。
郡山さんは、イラクでの体験と日本に帰ってきてからのバッシングについて話した。ムジャヒデインは、
農民たちであり、アメリカに攻撃されたので戦っているだけ、日米政府のようにテロリストと簡単に呼べ
ないと言ってました。
印象に残った話し。
一つは、「ジャーナリストとしての使命感からイラクに行ったのではなく、見たいから行って、行った
ので伝えたかった。それが責任を果たすということ」という発言。ここには、通常の郡山さんの生活が語
られていたので、とりわけ興味深い。一度行くと1ヶ月30万ぐらい掛かるそうで、そこで取材したこと
を記事にしても赤字で、普段は道路工事で金を貯めてそれを全部もって出かけているということでした。
それでも出かけていってやりたいことをやっているということ、それが根底にあっての暮らし方や生き方
と「事なかれ主義」との違いを感じました。しかも、あらゆることに一生懸命などという根性主義でもな
く、あるいはキザとも違って、聞いていていい感じでした。
二つは、「イラクに行って、小さい声を聞いてきたい」(また行くと言ってました。)大新聞の記者と
比較しての発言であったと思います。フリーの良さを語った中でした。しかし、私はすこし別のことを考
えました。誰の声を聞くかという選択の問題として受け取りました。
三つには、読売や産経や新潮や文春(名指ししてましたが)とは違って、「(バッシングする人たちー
ジャーナリストを含めて、あるいは脅迫文を送ってくる人たちに対して)人の話を聞いて、見て、自分で
判断することが大切」ということでした。権力が個人を攻撃するという通常あり得ない言動をする小泉政
府や上に列挙したジャーナリズムの責任を厳しく問うものであったと同時に、判断する主体というものを
育てることがやっぱり大切だなと思いました。(2004.6.12)
Magazine32:怒らないのは何故かと
東京新聞6月6日付けは、見出しの問いをたて、高橋哲哉は「少数派の議論が封殺され、公共での批判
が成り立たない」からだと応え、宮台真司は国民の「事なかれ主義」なのだと応えている。
「高橋氏は『戦争ができる国造り』と危険視する。その一方で、宮台氏はこうした管理統制が本来的な
右翼思想とは別だと皮肉る。」このあたりは、二人で見方が異なるようだ。
しかし、「自分の世界にこもり、傷つくのが嫌だからと『ウソ』に固められた現実に目を覆う人々の姿
が浮かび上がる。」というあたりでは一致したような記事となっている。(宮台よりのまとめだと思われ
る)
公共での議論が封殺されている中で、事なかれ主義になっているとマスコミにいわれるのはいかがなも
のかと思うが、東京新聞ならまだ許せるというものだろうか。比較的少数意見とされる見地も他と比べれ
ばいくらかましと言われているからである。これを他の三大新聞,NHKや民放各局がいったら矛盾だ。
右へ倣えをしている団体だから。
教育の世界でも、公共での批判が成り立たないことはいくらもある。7月の学会では議論しない傾向を
批判したいと思う。学生の授業の感想を見ていたら、批判的ということ自体がマイナスイメージにされて
しまっていることが鮮明となった。誰がそんな間違ったイメージをつくってしまったのだろう(当然、教
育もそれに荷担していると見ているから持ち出しているわけだが)。競争主義の道徳にも反するイメージ
だから、新自由主義者の期待ではないはず。旧来の保守主義が一方にあり、これに加えて競争主義に対抗
して生まれた心性なのかもしれない。「和んでいたい」という香山の枠組みがあてはまるのかもしれない。
だが、自分の存在をそんなに肯定していいのだろうか?批判もしないが、批判もされたくないという意
味では、自己肯定感を持っているということでもあるが、そんなにいいとこばかりでないのが人だろう。
自己否定感の強さと自己肯定感の同居をここに見る。興味深い論理構造を持っている気がする。
(2004.6.9)
Magazine31: 著作権のメモ
フードマイレージという話しを書いていて、教育内容リンクを創ろうと思った。オリジナルと誰かの試
みを紹介する形で一つの頁にしてみたらどうかなと考えた。当面、このアドレスを知っている人は既知の
内容になるでしょう。これに関連して、著作権に違反しないように書くことはなかなか難しいと思った。
カエルの画像を消したのも、私のイメージに今ひとつということもあるが、著作権について考えるとこ
ろがあってのことである。こうした素材をつくっている人たちにも二通りあるらしい。著作権に比較的厳
格な人と緩やかな人。加工してもいいよといっている人と、一切変更してはいけないといっている人。リ
ンクも必ずはれといっている人と希望を述べている人。仕事にしている人と趣味という位置づけの人との
違いもあるのかもしれない。仕事にしているらしい人の場合は生活がかかっているから著作権は認めない
と生きていけないので尊重したい。しかし、ネットの精神は元々無料と対等な相互関係を前提にしていた
世界でもあるのでコピーレフト権でありたいとも思う。私のホームのGIFも、著作権の表現がいくらか
ソフトな人だったのでメールとホームを利用している。かなり感じ悪い表現の人もいる。気分を害する体
験をしたのだろう。しかし、今のネットの仕組みではコピーライト権は主張はできるが、完全実施は難し
い。コピーレフト権もまあその点では同じ。
私は、ネット上の著作権についてはコピーライト権とコピーレフト権の間ぐらいがいいかなと思ってい
るので、トップ頁の下段のような表記となっている。
コピーレフト権の場合、学生がしばしば行うようになったHPの丸写しレポートをどうするかという問
題がある。つまり、ダウンしてはいるが著作権を発生させてはいない。しかし、自分のレポートのように
扱うという問題である。コピーライト権の場合、丸写しレポートはそれだけですでに違法行為と認定され
るという違いがある。良識を期待するしかないだろうと当面考えることに。宿題の一つにしておきたい。
自分の原稿をここにアップしている場合についても厳密にいうと、著作権についてはいいと思うが版権
との関係はあるだろうと考える。そうしたことを考えて、版権に触れると言ってこない所の原稿、もしく
は最終稿と極一部異なるようにしている。それでクリアしているのかどうかよくわからないが、当面そう
しておく。この点は一般公開するまでに確かめておきたい。二つ目の宿題。これらについて情報をお持ち
の方には教えてほしいものです。
(2004.6.8)
Magazine30:渡辺恵津子
渡辺という教師のおもしろさは、教科内容研究を踏まえつつも、それに依存しないで授業をするところ
にあると思う。
教科内容研究に力点のある教師は、子どもに本当は付き合わない気がしてならない。付き合っているの
は自分とだけではないかと思う。そうとしか思えないことがなんどかあった。
逆に、教科内容研究に関心を向けない人が、子どもと付き合っているかというと、そうでもない。子ど
もの知りたがっていることに誘えてないからだ。発見がない授業になっている気がする。
この点で、渡辺は、子どもと発見し、子どもと納得をつくろうとしているように思われる。
例えば、わり算には、一あたりを求めるわり算、いくつ分を求めるわり算、倍を求めるわり算の三つが
ある、という数教協が定式化した区分をきちんと押さえている。しかし、これを単に順番に教えるという
のではない。42÷9という問題の解き方をたくさん考えてもらう。子どもの考えたそれぞれの解き方の
違いをゆっくりと納得が得られるように話し合っていく。(詳細は、『こどもといっしょにたのしくさん
すう小1〜3』一声社1350円+税金、109頁参照)
あるいは、髪の毛1本、ティッシュペーパー、ガス、発泡スチロール、石、教科書、綿、アルミ箔、パ
チンコ玉、地球を絵に描いたプリントを配って、「この中で重さがないと思うもの?」を考えてもらいま
すと問う。上記の半分を子どもたちは重さがないと思っていることを確認し、実際に、それぞれ重さがあ
ることを実験していきます。こんなことを授業にすることが面白いのではないだろうか。
そして、実際に重さ比べをする場合にも、比べる必然性のあるものを比べようとする。カバンを軽くす
るために、ペンケースなら比べたいだろうと、それを秤以外でいくつかの方法を発明するように促す。
こういう風に考えるところが面白いのだと思う。子どもと付き合うというのはこういうことを言うので
はないか。
付記1:M28のリンクについて
ウイキペデイアのリンクがうまく表示されないようでしたのではずしました。代わりに説明文を補足し
ておきました。
付記2:深田恭子
「農家の嫁になりたい」で深田恭子が畝をつくるときの鍬の持ち方がおかしい。指導されてあの持ち方
はあり得ない。気になるなあ。(2004.6.7)
Magazine29:フードマイレージ
農林水産政策研究所のデータ中にフードマイレージという食料自給率と環境負荷を同時に問題化する数
値についての説明がある。海外からの輸入食料の量と相手国までの距離を掛け合わせて数値化する。下の
式となる。これを、青森の中学校が総合学習の時間に、ある日の給食の原材料の生産地を調べて数値化し
たという記事を見た。式は以下である。
輸入食料に係るフード・マイレージ =輸入相手国別の食料輸入量 × 輸出国から我が国までの輸送距離
その日の給食は以下だったそうだ。
シーフードカレー・わかめサラダ・麦ご飯・牛乳。これを原材料で見ると次のようになる。
カレールー 小麦粉(カナダ)バナナ(エクアドル)カレーパウダー(インドネシア)合計87.040km
イカ(ペルー)25.000km
エビ(ベトナム)6.400km
ワカメ(中国)3.400km
タマネギ(北海道)272km
ホタテ(青森県)40km
キュウリ(千葉県)560km
ニンジン(愛知県)720km
麦(福井県)664km
米(青森県)0km
以上総計124.352km
2000 年における日本の食料輸入総量は約5,300 万トン。フード・マイレージは約5,000 億トン・キ
ロメートルとなる。韓国は約 1,500 億トン・キロメートル, 米国は約1,400 億トン・キロメートル。日
本のフード・マイレージは,韓 国の約 3.4 倍,米国の約 3.7 倍。
人口1人当たりのフード・マイレージは、日本が約4,000 トン・キロメ ートル。人口1人当たりの食
料輸入量は約420 キログラムで、平均輸送距離は1万キロメートル弱となる。これは、直線距離でほぼ
東京から米国のシカ ゴまでの距離。韓国は1人当たりフード・マイレージは約3,200 ト ン・キロメート
ルだが、日本の約8割の水準。米国は,人口1人当たりフード・マイレージは約 500 トン・キロメートル
で日本の1割強の水準に過ぎないという。(以上、上記研究所のデータの要約)
この数値は単純化があるとは言え、わかりやすい。食糧輸入国が環境にも大きな負荷を与えているこ
とが輸送コストという点からも見える。青森の学校は、輸送コストの計算はしていないようだから、そ
れを行い、さらに、これに対してどういう取り組みがあるかなどを検討すると、かなりな水準の総合学
習になるだろう。アイデアに困っている学校があったらやってみたらどうだろうと思った。
(2004.6.6)
Magazine26:Education for Citizenship
電源をつなぎ直したら、マックが起動しましたとさ。修理代が不要となりました。
大半は学会の作業と教務の作業だったのですが、2時間ほど今日は、イギリスの市民教育の本を翻訳し
てました。6つのキーテーマが挙げられています。
1)社会的、道徳的教育
2)コミュニティーの理解と参加
3)言葉のスキルとメディアリテラシー
4)民主的プロセスと政治的リテラシー
5)文化的差異とグローバルな市民性
6)人権と環境問題
それぞれのテーマに関する先行研究が少しレビューされていて、その各テーマに関する基本概念が提出
され、さらに、トピックが配置されているというものです。
例えば、「政治的活動:変化のためのキャンペーン」では、内外の法律を取り上げて、それらを変える
キャンペーンに多くの違ったやり方があることを生徒に理解させるという目的が書いてあります。
そして、道路を建設することに同意しない人たちのニュースを取り上げ、それぞれの立場のキャンペー
ンを示し、州長官と地方警官、地域住民、動物、抗議している人、道路建設者、近くの学校の教師と生徒、
運輸省と環境省、ニュースチームにクラスを分けて調査と討論をするプランが書いてあります。
このプランがいろいろ紹介されている本なのです。英文タイトルが本のタイトル。折りを見て訳してみ
ようと思います。(2004.6.3)
Magazine25:授業参観ーー聞くことと意図
大学のマックが壊れて今朝は起動しなかった。修理に出すことになった。
今日は、中1の総合学習を参観に行きました。以下、参観しながら注目した点です。
わかっていたことなのですが、課題は、「地域のよいとこさがし」というテーマ設定の困難が授業にも
現れていたように思います。生徒は、良いところとしてリサイクル施設、上水道施設、温水プール、神社、
出身小学校、アメの工場を挙げていました。授業は、それらがなぜよいところなのか、なぜそれを選んだ
のかを検討しようとするものでした。これは、今年度の計画がそれさえも検討せず、単にプレゼンテーシ
ョン技術を教えようとしていることに対する実践的批判であったわけです。しかし、「よいところ」とい
う課題意識において切実感のない設定は、やはり、思考の集中を生むには十分ではありませんでした。良さを
議論するというのでは、他を批判しなければならないという意識を生みにくかったようです。
教師は、この設定が問題含みだということを知っていましたから、なんとか、生徒がとりあえず「よさ」
と言っていることを吟味しようと努力しました。この点は、授業の中での指導言によく現れていました。
授業のまとめにおいても「誰にとっての良さかはっきりさせないといけないから、それを調べよう」と強
調しておりました。このあたりは、頑張りました。
教師の授業指導で気になったことがあります。一つは、生徒の声を聞くということです。上記写真にお
いて立ち上がって話している子は、別の場面ですが、リサイクル施設のことを知っていると小さく手を挙
げていました。しかし、教師は、「誰も知らないね。」と言ってしまいました。この時「私は知っている
んだけど見過ごされたか」という顔をしました。小さなドラマでしたし、それで関係が切れるというそう
いうことはまったく考えられない子だということは見ていてすぐわかりました。これが生徒の声を聞くと
いうことの一つの側面です。文字通り聞くということです。
もう一つの側面は、生徒の発言意図を汲み取るということです。自戒を込めて書いておきたいと思いま
すが、生徒が発言した時の意図をはずした応答があったということなのです。文脈に沿って意図を読むこ
とが十分ではなかったようです。例えば、「住民の学校への参加って何。意見を聞いてもらえること?」
という発言がありましたが、この参加論はかなり教育学的参加論を踏まえているかもしれないと思ったの
ですが、授業を見せてもらえるという意味の参加と区別のないものとなってしまいました。(まだ、1ヶ
月とちょっとですから、子どもの意図を読み込むのは難しい時期で、これからなんですけど。)子どもは
何を知りたがっているのか、言いたがっているのかを聞くことがもう少し必要そうでした。
二つには、各グループの発表の後に、「これはどうだろう?」と教師は問います。この意図は、本当は
「このグループがよいとしている基準の考え方はそれでよいだろうか?」という意味なのです。しかし、
生徒は、こう聞かれたとき何を応えていいのかわからないでいると私には思われました。
この項の2行目のように問い直されても、生徒にはまだ難しいように思われました。どんな風に疑問を
出したらいいのか具体的に提出される必要があると思われました。例えば、「リサイクルしている」と子
どもが言いましたが、「リサイクルしているとなぜいいのか?」などと、テンポよく聞き返してしまった
方がよかったと思うのです。こうして、各グループのつかみ方をはっきりさせながら、その見方の基準を
浮かび上がらせつつ、その基準の立て方を問い直すとよりよかったのではないかと思うのです。
問うときに、教師の意図をもっと鮮明に提出してもよい場合があると思うのです。今日のような時は、
そのときだったのではないでしょうか。教師の意図は隠されねばならないという原則があることは知って
いるのですが、それは、別の状況を指すのではないかと思ったのです。どうでしょうか。ご意見のある方
はメールをお寄せ下さい。
(2004.6.2)
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