Magazine60:「みにくいアヒルの定理」の授業ー浦商の授業づくり
浦商の教育課程づくりと授業づくりに学ぶべき点は何だろう。
一つは、「現状の青年像」と「未来の青年像」の検討からつけるべき力を構想していることだろう。率直に
言えば、科学主義の教科教育論者はそこを軽視する。自分が科学だと信じた内容を教えていれば間違いないと
思っている。そこに、「青年」はいない。居るのは、自分と信じているドグマかもしれない。浦商は、それと
は違う観点を打ち出している。生徒に育てたい力の検討から入り、それぞれの教科などでその力の何を担当で
きるのかを明らかにし、それを教育課程としていっている。「学校は青年に対して、彼らが変わることのでき
る場を用意すべきである」という。(153頁)
二つには、八つの力の中でも「自分を表現する力」を先頭に挙げていることは注目される。この自分を表現
する力とは、単に芸術教科のことではない。自分の認識や感情、意志を外に的確に表せる力のこととされてい
る。表現する力を育て、その表現を受け止めながら教育活動を組み立てて行こうとしているかのようである。
他の7つを以下に記すが、何よりこれを先頭に挙げていることには格別の意味があるように思われる。
2 他者認識と自己認識ができる力
3 主権者として活動できる力
4 労働をするための主体者像を確立できる力
5 生活主体者としての力
6 文化を享受できる力
7 「世界」を読みとる力
8 真理を探究する力
単に不登校体験者が生徒の多数派だったというだけではないだろう。教科教育でも自治活動でも受容に傾斜
しがちな教育の反対をいっている。教科書絶対派や科学主義者の軽視する生徒の表現力を育てようとしている
とも読める。そうした見地の教育論の場合、誤った認識をただすものとして教育活動を位置づける。しかし、
浦商の場合は、そうではなく、生徒の表現を育てることを根底においた上で、彼らと真剣に真理の探究を追求
しようとしているとも読める。そうした教育活動は、結果として、生徒たちに今ある自分を肯定することを学
びとらせていってるように思われる。
三つには、生徒相互の行事・自治活動、教師・保護者・卒業生などとの諸活動がやはり根底にある。
見出しの「みにくいアヒルの定理」の授業は面白いと思う。
白鳥、ひよこ、ミサイルを示し、仲間わけをさせる授業である。
どんな基準線を引くかで見えの世界が変わり、自分なりの基準線を引こうとするようになるという。少なく
ともそういう基準線を引いていいことを教えることができるという。これは、大学でもいつかやってみよう。
いろんな学年でできそう。この記事を読まれた方は、いくつ基準線を引くことができたでしょう?私は、5つ
ほど考えた。(2004.7.18)
Magazine59:二つの卒業式
一つは、『日の丸・君が代処分』高文研という卒業式をめぐる東京都の強制・人権侵害に抵抗し、抗議する
教師や保護者の声を集めた本である。事柄についてはすでに知っていたつもりではあったが、こうしてまとめ
て読んで見ると、改めて事態の深刻さに気づかされる。特に、注目した発言は、音楽教員だという池田さんの
文章である。
「ピアノ伴奏は『外部的行為』だという無理な理屈をつけて、伴奏の強制が内心の自由の侵害にならない、
という東京地裁の判決が昨年一二月にだされました。・・・中略・・・、この理屈は『嘘』です。音楽は、手
からだけではなく、心の深いところから発するものです」14〜15頁
ここに注目したのは、この問題についての関心ということもあるが、行為・行動と思想・信条の関係につい
て見直しを迫る指摘だなと読んだからである。行為・行動の一致は、思想・信条の侵犯となる場合があるとい
う点についてよりセンシティブにならねばならないし、行為・行動の優位という原則について捉え直しが必要
というべきだと直感したのである。いつか別の機会にさらに検討したいと思う。
こうした人権侵害に立ち向かう動きも紹介されている。
もう一つは、浦和商業高校四者協議会編『この学校がオレを変えた』ふきのとう書房である。こちらは、同
じく卒業式の話題が大きな部分を占めているが、生徒自身が卒業式を意味あるものにつくっていく過程を描い
ていて感動的だ。映像付きのCDがおまけについていて、説得力がある。不登校体験者であった生徒たちが、
学校の主人公として変わっていく姿が描かれている。
東京都と浦商のどちらに教育があるかは明白で、強制ではなく、自由と自治を励ますことこそ力となること
を示している。
浦商実践の内容的分析・検討はまた後日。ともかく今日は二つを一気に読んだ。(2004.7.17)
Magazine58:久方のライブ
ほんとうに何年ぶりかのライブに行きました。私は初めて聴く方で、吉田よし子さん。ギター一本で、10
曲以上歌ったでしょうか。ほぼ同じくらいの年齢の方のようです。30人足らずの喫茶店でのライブです。
こんな感じの舞台です。
背景は伊藤さんというイラストレーターの作品で、他にもTシャツや絵はがきなどが展示されてました。集
まった人も、30代後半から50代の人たち。
何曲かの反戦の歌と共に、軽快さの中に行く末を見つめたいという雰囲気の曲。あるいは力まずに希望を歌
うというそんな感じの曲。吉田さんは、斉藤哲夫・水越けいこといった人たちと仕事を始めた方だとプロフィ
ールに書いてありました。私世代でないと知らない人たちです。
昼間のストレスをちょっと和らげることができたかも知れません。大きなホールではなくて、個人的に聞きに
行ったということでいうと、京都でのシャンソン・ライブ以来のような気がします。(2004.7.17)
Magazine57:俳句
走るたびに走りながら、俳句をつくろうとしている。今日できたのが次の句である。
家並の 陰を探して 走る朝
セミ登り 羽根ざわついて 雀飛ぶ
相変わらず、駄作。そのままというのか見たままで、気づきがない。一つは、早朝でも暑いので日影を探し
て走っているということだけだし、他方は、走っているときに、雀が蝉を捕まえて飛び立とうとしていたとい
うそれだけのこと。もう少し印影のある句を作ってみたい。
走りながらつくっていると、家に戻って休憩している間にほとんどは忘れてしまう。(2004.7.16)
Magazine56:講義の参観者
本日 、私の講義に参観者がありました。
山田隆幸さんという日生連の中心メンバーです。私の講義を覗いて学生のイメージをつくりたかったので
しょう。私にとっては、何度目かの飛び込み参観。以下、講義の様子を記しておきます。
前回まで、単元づくりをしていて、その発表が終わらなかった1グループの構想発表から始まります。臓
器移植とは何か、生と死について移植に賛成する考え方と反対する考え方を説明して、関連団体を調査学習
するという構想です。これに私が、最初の問題提起が、説明になっていて、インパクトが弱くなっているこ
と、具体的事例を最初に示した方がよいことをコメント。次に、前回までの他のグループについてのコメン
トをいくつか指摘して、単元づくりのポイントを短くまとめて本日のメインへ。
まず、啓林館5年の算数の円の面積の指導過程と、渡辺恵津子実践の円の面積の指導過程を記したプリン
トを配布。二つの大きな違いは、啓林館がおよその面積を出し、次に方眼紙を使った面積のはかり方を問い、
次に扇形に切って組み合わせて長方形にして面積を出し、それから公式という風に、順番に小さく問う中で
教えていく方式。他方、渡辺実践は、いろんな円の面積の求め方を考えてと問い、いろんなやり方を吟味し
ていく方式だということを話しました。
この二つの違いのメリット、デメリットをグループを作って議論して、そのキーワードを短冊に書いて黒
板に張ってもらいます。グループの話し合いは、およそ20分足らず。
啓林館の方式については、「考えさせなさそう」「わかりやすそう」「教師は楽そう」などという短冊。
渡辺実践には、「興味が持てそう」「考えさせてる」というのもあれば「そんなにいろんな考えが子どもか
らでなかったらどうしよう」「教師の力量が問われそう」などという短冊。
短冊の概要を確認し、意味の不明なものを説明してもらい、質問を受けます。次に、「啓林館的な順に授
業を組むと、ある程度答えは引き出せるが、どうして円の公式でいいのかはわからないままとなる可能性の
あること」「操作はできるけどなぜかはわからないままとなり、塾などで習っている子にとっては改めて考
えるほどのこともない時間となること」。
渡辺実践の順にした理由は、「公式だけではなく、その意味がわかるように、それを人に説明できるよう
にしようとしたこと」「具体的イメージとつなげながらいろんな子どもが参加できる授業をつくろうとして
いること」を説明。
教師の力量が問われて大変そうという見方が表明されていましたが、そうではなくて、そうした子どもの
認識の違いが明らかになることは授業にとって有利な条件なのだとか、ちがいが表明されることこそ大切と
いう点を強調して、感想文を書いてもらって終了。(2004.7.14)
以上の内容を参観した山田さんに送ったところ、その返信が届きました。そのポイントは、課題を聞いて
いるようで聞いていない学生がいたり、それを教える学生がいたりしておもしろかったという点が一つ。
学生同士の関係それなりにできているなあという見方があると同時に、多分三点目とも関わっているのだ
ろうと思われる指摘です。
二つには、「『多様な考えが出る』『教師の力量が問われる』ということをメリットと考えるのか、デメ
リットと考えるのかの判断基準が、考えることを忘れさせられている現場の教師と学生とあまり変わらない
ということをどう受け止めたらいいのか」という点。
効率よく最後は知識を覚え込ませたいという教師と、そうすることが得点アップという子ども体験を通過
した学生の一致する見方なのではないかと思われます。しかし、それこそ問題であったのではないかと考え
てます。
三つには、「開放的な雰囲気の中で、頭が回りやすくなり、自分の意見をみんなが出せるという講義の雰
囲気に共感しつつも、小学校の授業に慣れすぎた者にとって、あの私語と手遊びを子安先生みたいに平然?
と取り込みながら話を進めるのは大変なストレスになりそうで・・・・・・。どうしましょう?」。
私の講義は、全員がシーンとして聴いているとか、騒がしくて授業になっていないというわけではありま
せん。グループ討論の間や私の説明の合間に電池の扇風機の貸し借りが行われたり、そのための会話が間に
入ってたりするわけです。山田さんはこれが気になるらしいのです。私は、まったく気にならない。ゆっく
り時間が過ぎていくので、途中からでも話題に参加できるから、それでいいと考えているわけです。あるい
は、それは自己の暮らし方についての選択なのだと見ているわけです。
さて、この違いは、小学生と大学生という年齢の違いではない気がしているのですが、どうでしょうか。
(2004.7.15)
Magazine55:市民の形成へ
選挙結果は、市民の教育が大切なことを示した。
一応自民党が敗北し、民主党が前進した。しかし、参議院の与野党逆転までには至らなかった。これが結
果である。
それでも民意と議席はずれている。民意を担うべき政党と投票行動はずれている。つまり、民意は年金問
題における自公の政策=負担の拡大と保障の削減に反対であった。民主の場合も消費税の増税による負担の
拡大と保障の削減という点では同じ政策を基本にしている。だから、民主党は拡大したが、民意を担ってい
るわけではない。投票行動としてはズレている。
イラクへの自衛隊派遣問題についても同様だ。現在民主党は、反対を表明しているが、戦争国家をつくる
方向を保持した小沢などが政党の中核にいる。
獲得得票数と議席配分で見ると選挙権所有者の4分の1あまりで政権を担う仕組みとなっている。
この点は得票数が確定した段階でないと明言できないが、およそ間違いない。
そうだとすれば、ねじれが日本の政治システムにはあるということだ。こうしたねじれの存在は、例えば
山口二郎などの指摘する所でもある(『戦後政治の崩壊』)。こうしたねじれをただし、ねじれにもかかわ
らず、それぞれの自立的判断に基づいて、政治に多様に参加していく市民の教育こそ教育関係者にはとりわ
け期待される課題というべきである。
その証拠に、ある学校が政党名を伏せて政策だけを示して投票を実施した。たったそれだけだが、今回の
選挙結果とは大きく異なったという。このことは、政党イメージと政策と遂行する政治とは一致しないこと
を示し、政策だけで選択すると異なった結果が生まれることを示している。そうだとすれば、そして、選挙
が政策によって競われるものだとすれば、政策の善し悪しを中心において自立的に判断する市民の存在こそ、
未来だということになる。まして不平等な議席配分システムを糺していく必要もある。
そうであれば、自立的な市民への教育こそ教育関係者の課題ということになる。
市民への教育は、今まだ提唱されて間もないし、巨大な規模で実践され始めているわけではなく、新旧ナ
ショナリズムと新旧能力主義、各種の保守主義の中で始まっている試みである。
だから、今こそ市民の教育に向けて歩み出す時なのである。(2004.7.12)
Magazine54:ほんとう
無人島で暮らすロビンソン・クルーソーはどんな性格か?という問いは成立しない。そういう文章を先日
読んだ。つい先日のことなのに出典を忘れてしまった。
人の間で生きている場合にだけ、「性格」があるのであって、他者なしに「性格」は存在しないと書いて
あったはずだ。他に人間がいるから他者と異なる自分の振るまいが生まれて、それを「性格」と呼んだりし
ているというわけである。
同様に、「本当の自分」というものも、本当は存在しない。「本当の自分」がどこかにあるはずだと内側
を眺め続けようとする人がいるが、探し当てることはできない。そんなものは最初からないから無理なので
ある。自分自身が自分をどのように見ているか、その見方は正確か不正確かという違いがあるだけである。
あるいは、他人がどう見ているか、その見方は正確か不正確かというそういう違いがあるだけなのである。
その自己についての理解の仕方は、他者との関係の仕方によって決まる。その関係の仕方を変えると人は
変わるということである。他者との関係の仕方にその人らしさが現れる。しかし、その人らしさそのものも
関係の仕方を変えることによって変わる。ここが難しくかつ面白い。
その難しさは、今までと違った関係をどうしたらつくれるのか、それがよくわかっていないからである。
いやいくつかわかっているが、主体の側の条件と周りの客観条件(社会・集団など)などの総合的性格を持
つので単純に断定できないし、まして簡単に変えることもできない。
だが、なぜかわからないが、いろんな関係を人はその意図を越えて人と取り結んでいる。そこがおもしろ
い。
去年、見に行った金森学級の再放送があった。この実践に何を学び取るのか、やはり、しまわれていた思
いを引き出し、同時に、他者への共感を広げていることにあるのだろうか。(2004.7.11)
Magazine52:指揮棒について
「指揮棒を預けよ」とロバート・チェンバースは言う。厳密には、「棒を渡す」と書いてある。その説明
は、文字どおり棒や指揮棒、ペンやチョークなどの表現の道具を渡すことであり、比喩的には権力と主導権
を譲渡することだと言う。(『参加型ワークショップ入門』明石書店、41頁)
タクトを振るのが教師という常識がある中で大変大胆な提案である。
しかし、本文を見ていくと、テーマの設定から始まるワークショップに限定しているようだ。また、それ
を完全に実行しているわけでもなさそうな表現が散見される。
そうではあっても、「棒を渡す」という表現は意義深い内容を持ちそうだ。主導権を本当に渡したのか、
それともより相互的な関係へと入っていったことが、旧来の関係を当然と見る側からすると主導権を譲渡し
たように見えるということだけなのかもしれない。
なお、本書に示されたアクティビティには面白そうなものもあるが、それは日本の教師が以前からやって
きたものもだいぶ含まれている。どっちが元祖でもいいけれど、レパートリーを広げてくれる本のひとつ。
(2004.7.10)
Magazine51:問い
いつもの唐突な問い。「斉藤純一の公共性は、ロールズか?」。
それで、斉藤とロールズを少し読み直して見る。斉藤は、公共性という言葉で複数性ということを打ち出
した。人間や社会について、そこに純粋性や本質性を見るのではなく、複数性を見ようとした。アイデンテ
ィティの複数性ー自己内部における複数の価値の対話を思考と呼んだアーレントを引用しているから、この
観点を斉藤が保持していたことは明白ーだけでなく、社会そのものの複数性を想定していたと解される。他
者を失うことが、応答可能性を失うというこれまたアーレントに依拠して述べていることから明白だと言え
よう。(『公共性』103頁)従って、斉藤は、自立した個人の存在を議論の前提とするリベラルの見地と
は明らかに異なる前提を保持していることになる。もっとも、リベラリストであるセンの場合、上記の指摘
はあてはまらない。個人の社会的性格を見ているからである。
さて、問題は、ロールズと同じ枠組みを有しているかどうかである。ロールズの場合、穏当な多元主義を
基本にしていたとされる。つまり、次の原則を設定していた。一定の権利や自由について内容的に定めてい
る。一連の自由に優先権がある。また、そうした自由を有効に活用する手段をすべての市民に保障すること
にあった、とされる。このロールズの議論は、例えば、自由をすべての市民に保障すると言うが、その人々
内部の争いが自然に糺されていくという構想などが現実には「ありえない」と批判されてきた。あるいはま
た、彼の場合、いつも、個人の自由、個人の能力を問題にして、社会との関連を捉えることができなかった
点にあるとされる。
その詳細な議論はおくとして、それでも、特定の価値観を前提にするロールズと、その複数性を念頭に置
く斉藤とは異なると見るのが正しいように思われる。上記の問いが生まれたのは、複数性という言葉と多元
性という言葉をどう理解するかという点にあったのではないか。
つまり、リベラリストの使う多元性は、論者によっては個人主義へと回帰するが、センに連なる人々の場
合、社会的性格を持つと共に、少数者の擁護へと向かうものとなっている。また、複数性はアイデンティテ
ィ論的性格が強いが社会の複数性論でもあり、それは、ロールズ的な個人の自由や能力論を越えていると思
われる。だから、斉藤とロールズは違うんじゃないだろうか。(2004.7.8)
Magazine49:大人の選挙
11日は、参議院選挙の投票日で、自民苦戦と伝えられています。報道などによれば、年金改悪法、イラ
ク派兵などの政策が批判されていることによるようです。しかしこれに代わる政党として名前の挙がる民主
党も年金問題では大差なく、また、憲法改悪という点は自民党と大差のない政策です。なにより、教育に関
わる政策では、教師を苦しめる教員評価を肯定してたり、教育基本法の改悪に賛成する議員もいる始末だし、
教育予算を減らす小さな政府論となっていますから期待できないことも明らかです。それでもどのような変
化が投票によって生まれるのか注目です。
ともあれ、選挙情報を今は新聞が流しております。しかし、本当はもっと多くのマスコミ・世論調査機関
が実施しております。例えば、NHK。発表していないだけです。過去に、調査結果の発表をめぐって圧力
をかけられたためですね。すでに、出口調査もしています。期日前投票の出口調査です。期日前投票の多数
は、創価学会員の動員によるものだということです。毎回のことなので、それぞれの創価学会員が他の政党
や候補者にどれほど入れているかで情勢を読むんだそうです。例えば、比例区に公明党を書いた人が、地方
区で誰に入れたかで、過去の実績と比較するわけです。その情報によると、学会員が必ずしも自民党に投票
しない比率が過去に比べて今回高い。やはり、年金問題で最悪の対応をしているからでしょう。こうした情
報は今は、報道されてませんが、当面は誰を取材するかに使われているようです。
知らないところでいろんなことがうごめくもののようです。
さて、今回の大人の選挙は、子どもにはどう映っているのでしょうか。大人は何を語るのでしょう。
中高校では模擬投票の試みがいくつかの学校で行われています。タイムリーな取り組みですが、ここでも
事前調査と学習が意味を持つかどうかの分かれ目のようです。
小学校では何を語ると政治教育となるでしょう。
さらに、20代は、選挙に行く人が30%あまりと低い状態が続いていますが、政治に関心を持つ層と持
たない層との危険な分離を意味しているのでしょうか?
マスコミ報道は、政治の娯楽化を進めようとしているようですが、娯楽化された政治は、ポピュリズムによ
るファシズムを生むように思われます。(2004.7.6)
Magazine48:カリキュラム学会終了
やっと カリキュラム学会が終わりました。参加者が当初の予想より、70人あまり多くなり、300人を
越えました。公開シンポジュウムは、満員となり、エアコンの能力を超えて暑い中での開催となりました。
上は、公開シンポで発言中の子安です。すぐ隣で頭だけ見えるのが佐藤学さん、隣が樋口修資さん、その
奧が長尾彰夫さんです。安彦忠彦さんは腕だけ写ってます。
樋口さんは、文部科学省の審議官で、現在の文科省の学力観となった「確かな学力」を急いで語りました。
それは、「履修主義」から「習得主義」への転換であり、必ず身につけさせるようにしながら他方で学習意
欲の向上をめざすのだと説明しました。樋口さんにかかると、すべては矛盾なく実現できるように語ります
が、本当は矛盾だらけです。そして、現在の少人数指導の施策について急いで語ってました。基礎学力徹底
論というよりはむしろ異なる方向を語りました。また習熟度別教育を強制するつもりはないということを語
っておりました。この言明は注目しておくと、学校現場で使えます。(もっとも、学習指導要領の一般編に
もそのように書いてあるわけですけど)シンポジスト内部での会話の中では、県の教育委員会の官僚体質が
問題であることが多いという趣旨の発言をしていた。県の官僚は、学校と直接向き合うことが少ないので、
単純に現場を誘導しようとして習熟度別だけを推奨するという批判なわけです。
佐藤さんは、学習指導要領の最低基準化に関わって、「公的基準」とはなにかを、日本の戦後すぐの学習
指導要領の場合と、58年の国家基準化、ならびにいくつかの国の基準の違いを語った。すなわち、学習指
導要領が「試案」だった時代、各地に学習指導要領がつくられることを期待していたという意味で国家的基
準ではなかったとし、それが58年版で国家基準化されたのだとした。しかし、行政の義務は、管理統制す
る義務ではなく、最低保障を国家が果たすという意味であって、それをミニマムスタンダードと呼ぶなら、
それは習得主義となるはずだとしました。その場合の行政の責任(公的基準を保障する)は、子どもの権利
保障のラインとなり、そこまでわかるようにするということだとした。それがフランスであって、それは国
家の責任となり、個別の学校や教師の責任ではないと述べました。この点は、教育基本法の行政の責務と関
わって重要な指摘と見ていいと思います。また、学習指導要領の最低基準なるものが、国家による統制基準
と見なすのであるなら、それはカリキュラムの公共的な基準ではないはずだとし、この二つの異なる考え方、
すなわち国家基準と公共的基準の二つを混同しているという話をしたようだ。そのご、途中から以前に何度
もした話し繰り返しながら、あっちこっちに話が飛んでしまいました。
私は、カリキュラム研究の課題として、現在の思考停止状態(最低基準化以後、何を何故教えるかを議論
しない傾向を指しています)から、教科内容分析をわかるとつなげた研究として再興すること、特に、教科
内容をプラグマチックに意味づけること、あるいは内容を学問の社会的意味との関係で意味づけ直すこと、
基準の基準たるゆえんをずらすことを事例で語りました。この内容は、長尾さんと柴田義松さんには理解さ
れなかったようです。カリキュラムを内容的に作りかえる関心はあまりなく、外枠を大文字言葉で考えてい
るのかなと思いました。
梅原さんや佐藤さんは別のコメントを私にしてましたが、本当はどう受け止められたのかよくわかりませ
ん。やはり思考停止状況は広がっている/たのかも知れません。
始まる前、「義務教育費の国庫負担問題で文科省には頑張ってもらわないと」という趣旨の発言を佐藤さ
んが樋口さんにしていて、その動向について若干のやりとりがありました。このことは、直接的ではありま
せんが、シンポの発言に微妙な陰影を与えていたと思います。
そうしてシンポの議論は相手の主張に踏み込まないスタンスとなっていました。他のこともプラスされて
「そうなんだなあ。配慮と言えなくもないが、古い体質。」と思いました。(中身をはっきり書く方がよい
だろうと思い追加します。)
樋口さんは、文科省の審議官で行政マン。他方で、教育研究者としての顔も持っているわけです。本人も
参会者もどうしても一人の研究者としてではなく、文科省を代表していると見るし、本人もそういう見地か
ら説明してしまう。そのために、今、国庫負担の問題で文科省に取り組んで欲しいために励ましたい人は、
「一個人としてここにいる」とことさらに発言することになっていたと推量されます。この辺が難しいのか
も知れませんが、古い体質だと思ったことの一つ。他にもありそうですが、それはパス。
ともあれ、数としては成功。残務整理がいくつかありますが、これで他の仕事に徐々にシフト。明るい未
来を地道に描きたい。アルバイトの学生には、助けられました。こんな時はなぜかまじめになってしまう。
懇親会用に用意した7年ものの焼酎が、懇親会の最中に行方不明となりましたが、味のわかる人が独占して
いて、翌日帰ってきました。いまは共同研の冷蔵庫に眠ってます。(2004.7.7)
Magazine48:実習事後指導 ー掃除の指導など
教育実習が終わって、その事後指導のための検討会を開いた。1200字程度のまず文書を書いてくるよ
うに指示しておきました。その文書を読んでもらいながら、質問を入れ、そこで問題化されていることをど
う読むか、理解するか、他にどうする可能性があったのかなどを言い合っていきます。私も当然コメントし
ます。みんなそれなりにはっきりしない表現や実際どうしたのかがわからない報告にはつっこみが入ります。
教師の話は基本的に聞いてくれない高校で、どうしたら子どもが乗ってきてくれるかを軽い表現に見えま
すが、本当は苦労したんだろうなと推測されるように結構熱心に語ります。「武士の絵を描いてもらって、
それをうまいといったのがよかった。最初渋ってたけど前に出てきてくれて書いた。それが他の生徒にうけ
てまんざらでもない顔した」とか、「生徒同士の関わりをなんかつくると教師の話は聞いてくれなくても、
そういうときは聞いてくれる」とかいい線いってる話も出てきます。
かなり論争的になったのが、掃除の指導。中学校でですが、本当にほとんどの子どもが掃除をやらない。
先生もあきらめているみたいだったといいます。この時、「注意した(強く叱ったという意味。ただし、こ
の学生はおっとりした話し方をするので、迫力があったとは思えません)けど、そのときは多少ちょっとや
ったけど、またすぐやらなくて、言ったことが伝わってなくて悲しかった」「叱った後、一人になって伝わ
ってなくて泣いた」「掃除は何故やるんだろうと考えたけど、やっぱ、人間だからではないか」と報告があ
りました。(ここで、「人間だからって意味わからん」と天敵の学生につっこまれて報告した学生涙ぐむ。)
細かなやりとりがありましたが、実習生がやってみせればいいという意見。そんなの通じないという意見。
などが自分の体験も含めて交わされました。
これについては、家本さんの本があるということを紹介しながら、従来は、学校のような掃除の仕方を今
は家ではしないから、一つ一つどうすると掃除なのかをまず示し、教える必要があると考えられてきたこと。
二つには、掃除は楽しい活動ではないので、「掃除は心を磨くこと」みたいな永遠に掃除が終わらないこと
を言わずに、何がどうなったら終わりということを決めて、できるだけ早く終わりにすることをめざすとい
うことが行われてきたことを説明しました。この説明にはかなり同意が得られました。
しかし、これが今そのまま通用するのかどうか、断定できないと思われます。どうなんでしょう。
また、指導することのイメージが、注意するとか、叱るというイメージになっていることも問題だなどと
かなり盛り上がった2時間あまりでした。これは、私のささやかな教育実践なんだけどな。
(2004.7.1修正)
Magazine47:富士大学不当解雇裁判
川島茂裕さんは、私の大学時代の同期生で、学生時代には子ども会を中心としたサークルの同じメンバー
でもありました。かれは、歴史経済学あるいは経済学史とでも言うのでしょうか、そういう領域の研究生活
へと入っていきました。
そして、富士大学の助教授として採用されました。しかし、理事長等と意見が合わないと見なされて、不
当解雇されて、現在その地位保全の裁判を起こしています。
今日は、その彼を支援する会からのニュースメールが届いていて、支援する意味でもここに記事として書
いておきたかったのです。大変まじめな人柄でした。顔が多分マンガの「ふくちゃん」に似ていた所からそ
ういうニックネームで学生時代は呼ばれていたのではなかったかと記憶します。間違っていたらすいません。
何故そういう事態になったのかは、上記リンクした所の記事で読んで頂きたいと思います。
ボスによって権利が侵害されたり、人の配置がそうしたことによって左右されてしまうことが私には一番
許せないと思う事柄です。私と同い年ですから研究者としてとても大切な時期に、本来なら没頭することの
できるだろう研究・教育活動以外のことに時間がとられること、何より安心して生活できないことが残念で
はないかと推察しております。
この裁判自体は、学問の自由や労働者としての権利を守る大切な裁判ではありますが、やはり、心おきな
く暮らせるように一日も早い完全勝利を祈りたいと思います。彼は、長いこと家永教科書裁判の裏方をやっ
てきたとききます。そうした中で、ねばり強さを身につけてきたとは思われますが、ニュース記事などを見
ると一層たくましくなってきているように思われますが、それでも本当に一日も早い勝利をと願わずにいら
れません。きっと彼は、裁判をしながらも研究活動は続けていると思います。
私のHPを尋ねて下さった方々にも、こんな事柄も社会にはあるということだけは、知っておいて欲しい
と思います。会のHPを覗いてみてくれること、それだけで支援となるように思います。時間のあるときに
覗いて頂ければ幸いです。(2004.6.29)
Magazine44:若者論によせて
おとなしい大学生論を読み(これは中身の紹介はしませんが、どこに私の意見があるかは何となく理解さ
れるでしょう)、『日本の科学者』7月号の鈴木論文に応えるために記しています。
鈴木さんは、元同僚で、やはり、映画の話しから始めていた。確かに、ワインと映画とイタリアが好きだ
ったなと思い起こしながら読んだ。
さて、鈴木論は、若者のコミュニケーション状況を指して、若者の自閉化と断定するのではなく、対人関
係摩擦回避あるいは対人的選別志向ではないかという把握の仕方を支持している。この見解に基本的には賛
成したい。大学生がおとなしいのも同じことがありはしないかと私は推測する。すなわち、よくわからない
相手には大人しく対応することで摩擦を回避するわけである。別の階層の若者は、騒ぐことでその空間から
逃れているのではないかと推測している。大人しいから悪いわけでも、騒がしいからたくましいわけでもな
いと私は見ている。
二つ目は、青年期の二極化という指摘である。戦後型青年期は、1)教育水準の上昇、2)学校から雇用
へのスムーズな移行、3)新規学卒採用、4)終身雇用制企業への帰属、5)性別分業と専業主婦保護とい
う5つの条件(乾と宮本)を満たすことで可能であったが、これらの条件が2番目以降、変化・崩壊し、二
極化された青年期(エリートとノンエリート)となって、中等教育も複線化してきているとする。
変化した中をエリートとしてあるいはノンエリートとして生きるように振り分けられていくことになるわ
けだが、どちらも競争的関係のもとに置かれる点で変わらない。競争的関係とは違った世界も描けるように
することこそ普通教育の課題ではないかと思う。とりわけ全体としては右肩下がり型給与へと移行すること
がねらわれているなかでは、これと対峙する知性が重要となるだろう。すなわち、競争に勝ち残ってよい就
職、幸せな家族の形成を奨励する教育から脱皮する必要がある。
ここは、教育内容構成に関わって重要な観点となる。教育内容が上記の条件を暗黙のうちに前提にしてい
たことも確かだからである。これらが変わったときに、教育内容には何が残されるのか、あるいは何を付け
加えるのか重大問題だからである。
さらに、青年期以後は、多様化と長期化の様相を強め、教育と職業と結婚のライフコースが多様化すると
共に個人の責任にそれらをゆだねるようになった。このポスト青年期から成人への移行研究の必要が語られ
る。ついで、親世代と子世代のズレ・変化に着目しながら、親子関係や家族問題における世代の問題が欠落
してきたが、今やこれを視野に研究をすべきと書いている。
世代という視点を導入することで、何が明らかとなるのかこの点をさらに明確にする必要がある。親を越
えることが目標たり得ない今(鈴木は親の方が高学歴という事例を出している)、何を通じて親を乗り越え
ていくのかが自立にとって重要ということだろうか。私はそのようにとりあえず読んだが、実践課題として
必ずしも鮮明ではないように思われる。ただ言えることは、現在の親世代にとって、かつて目標とされた事
柄を持って子ども世代に向かい合うことはナンセンスだということである。
鈴木はコミュニケーションの難しさを念頭に置いていると思われるが、世代論の前に、当該の人の声を聞
くこと、互いに訊く以上は応答責任を果たすことが重要なのではないかと私は思う。鈴木論は、大人世代が
果たすべき責任を示してはいないが、この点での究明をさらに期待したい。(2004.6.26)
Magazine44:戦争のつくりかた
韓国の人質の方は残念な結果であった。ここでも韓国政府の対応の冷たさとまずさが露呈してきている。
他方、韓国内では、派兵反対の世論が高まっていると報道されている。
同じように日本でも派兵反対の意見は強いが、「人質の自己責任」という議論に簡単に踊らされた日本と
比べて考えざるをえない。派兵に反対して、多くの人がデモに参加する状態に日本の場合なれたかなと軽い
疑問が横切る。そこまで日本はひどくはないことを期待したい。そういう市民的な動向が各地にある。あの
知的でないボスを抱える東京都でも狛江のようなこともあるからである。
こうした日本の今を映す絵本が、りぼんぷろじぇくとによってつくられた。戦争できる国にするためにど
んなことが起こるのかを端的に記してある。例えば、「学校では、いい国民はなにをしなければならないか、
をおそわります。どんな国やどんな人が悪者か、もおそわります。」というトーンでつづられていく。ある
いは、「いい国民ではないかもしれない人をつかまえます。」と。
これらは、過去のことではなく、現在の日本の法律に基づいてつくられている点が重要である。国民保護
法案などに基づいているのである。各記述がどんな法律に従ってつづられているのかを探ってみるのも良い
かもしれない。税込み300円。
ネット上で読むこともできるし、ダウンすることもできる。それを100部以下なら配布も自由と言って
いる。多くの人に読んで欲しいものである。(2004.6.25)
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