2004年8月29日 (日)
| Magazine80:『こころの叫びが届く』キンキ本 |
正確には、小川嘉憲・福田敦志・松山裕・船越勝著『こころの叫びが届くーつくりませんか、こんな学びと学校』かもがわ出版。内容は、小川さんの中学校における総合学習を中心にした実践記録、それに松山さんの小学校の学校づくりというか教師集団づくりを中心にした実践記録。 ここでは、小川さんの記録について三つほど記しておきたい。 一つは、阪神淡路大震災の時、中学生たちが家族や地域の人たちと仕事をし、学校が避難所となりどんな格好で学校に来ても歓迎されていた時、「登校拒否」生徒も生き生きしていたが、学校が「正常化」すると共に学校に来られなくなったという。なかなか刺激的だ。生活や働くことと切り離された学びの悲惨さを示しているように思う。 二つには、小川さんはディベートを何度も行っているが、そのテーマについて当事者性を重視して行っている点が注目だ。一部の技術主義的ディベートとは異なる点が注目である。生徒の進路をめぐって議論できてしまう。当事者と保護者、クラス、教師との関係性などふまえないではそう簡単に導入できないかも知れないが、それができるように実践をつくって行っている。他のテーマの場合も、地域の中から課題を見つけ、それをディベートにして行っている。ここは、技術主義的ディベートや、郷土愛的総合学習を越えていくことを課題にしようと思うことができる人にとって実り多い実践世界。 三つには、トライアルウイークという手法を見習って勤労奉仕的精神を涵養しようとねらっている東京都の野心に警戒感を持つことができる人も、この実践には学ぶことが多いはずだ。(今年の夏、東京都の副知事は官立的放送局で一つの事例として持ち上げていた。)通常の体験主義を越えるための条件が三つ示されていた。一つは、事実を多面的に明らかに、二つには、事実から問いをたてて、三つには主張をつくるとまとめている。多面的というところが、旧来の枠を越えているかも知れないと思った。 松山さんの記録も、今日の困難な中でどう一致点をつくるのか問題提起的な報告。若い教師の側の視点から見ると面白そうな気がした。(2004.8.29) |
Magazine79:中学生の心と戦争
滝口正樹さんの『中学生の心と戦争』(地歴社)を読み終えました。一度、歴教協のMLで途中までの感想を書きました。それも一部採録しながら追加の感想を記します。滝口さんは、多分私と同じぐらいの年齢です。
これについて、私は、両者はくっついているような印象を持ちながら、滝口さんの記録に登場する中学生の文章を読みました。分析がそこに入り込んでいるように見ているからなんです。具体的には、38ページ前後に登場する中学生の感想です。これは原爆の被害を学んだ後の感想で、アメリカは何故原爆を投下したのかということを怒りを持ちながらも疑問を表明していると読んだからです。 三つ目の感想は、補論で自己の実践を批判的に捉え直そうとしている部分は大切だと思いました。滝口さんのように取り組んでもなお、185ページ以下の部分に記してあるように、授業批判があることです。生徒の滝口批判はタイプの異なるものが提出されていますが、どのような批判であれ、授業の最中にそうした批判が「学びの共有空間」に引き出されるようにするにはどうしていったらいいのかという点にあると思われます。卒業を控えた時期にそうした批判を生徒が書けるようにしている点では、優れた実践を構築してきた証明であります。しかし、授業の中でこそ、それらが言えるようにどうするのかは、滝口さん自身自覚されておられるように、確かに課題だと思われます。 この点で、意見の異なる者同士の対話を生むには、書いたものから討論への道がさらに検討されねばならないということでしょう。この点で、一つは今日の保守派の主張に連なるもの、あるいはそれ自身を検討するという視角があってもいいかなという気がします。それは、「どうしてそんなことが!」という怒りや批判の側から問いかけがいつも始まっている印象があるからです。すでに取り組んでいる3分間スピーチは、授業の中心的な部分ではありませんが、その可能性を中に持った取り組みのように思われました。 四つ目の感想は、考えるとか、意見交換するというとき、その仕方が、感想を書くということや話しをするということが多いように思います。それは基本として重要だと思いますが、学習活動をさらに多様にすることがあるとさらにいいなと。中学校で、受験もあって難しいだろうと思ってますが、やはりそう思うのです。 五つ目に記録の書き方の問題です。何が示され問いかけられたのかはわかるのですが、その後は中学生の感想が分類されて並んでいる印象が強い。授業がどういう雰囲気の中ので進んだのかをもう少し書いてくれると臨場感があってよかったかなと思いました。この疑問については、補論と補注を読んで概要はわかりました。しかし、私のように授業論に関心を持つものには、本文にあった方が実践が読みとりやすかったように思います。 本文に紹介してあったサイトも覗いてみました。こうして自分で判断し、行動していく人たちの登場を悦びを持って見ることができました。サイト荒らしにあわないことを願ってます。 以上の感想についての意見は、できればブログの「滝口本」にコメントしてください。 (2004.8.27) |
Magazine78:華氏911
内輪のメーリングリストなどにすでに触れたのですが、もう少し補足したいと思います。 映画は、ブッシュが、「テロリスト」と親交を持っていたこと、金儲けと絡んで戦争をしていること、戦争にかり出されているのはアメリカの貧困層で富裕層は戦争には行かないこと、うまいこといっているけどそれはマスコミも含めて抱き込んでいること、そんなことを描いていると言っていいと思います。 そこには、現在のブッシュ政権への批判が強く押し出されています。私にはほとんど納得のいく批判に見えました。映画の終わりに近い部分で、米兵となった子どもをイラクで亡くした母親が、「わかっているつもりだったのに、わかってなかった」というセリフは印象に残りました。自分の子どもが亡くなるまでは、テロとの戦争を支持していたことを後悔する発言でもあります。あるいは、情報操作のなかで、ビンラーディンがそもそもの原因なのか米国に本来責任があるのかをわかっていなかったとも聞こえる発言でした。 しかし、不満もいくらかのこりました。 一つは、民主党を支持するムーアですが、民主党も戦争に荷担していった事実がキチンと押さえられてはいない。あるいは、民主党もお金のために過去に戦争を行ってきたことを批判できていない。 二つには、表現の仕方に関わるのかも知れませんが、ムーアの描き方はブッシュの言った戦争の根拠がない、あるいはイラクから証拠が出てきていないといいます。その通りです。しかし、もし証拠が出てきたら戦争を肯定するのかという問いに対しては、どうも曖昧な気がしております。(2004.8.26) |
Magazine77:買わなくても
買うほどのことはなかったなと後悔しているのが、阿辻哲次『部首のはなし』中公新書。ひたすら部首を1画から17画まで解説した本である。NHKの教育番組の漢字の監修などもしている。暇なときに気分転換に読んでもいいかなと買ったのだが、確かに知らないことが色々書いてはあるが、どうも・・・・。例えば、漢字の分類を始めたのは、紀元100年の許慎の著した『説文解字』に始まる、とか。甘いは、口の中に一が入っているが、それは宇宙の摂理である道を意味しているとされるが、本当は口の中に何かが入っていれば「おいしい」ということに過ぎない、などと続く。 ある種の蘊蓄本。しかし、帯には「分解すると見えてくる」とあるが、だから何なのかは私には何も見えてこなかった。むしろ、この人の物事に対する思いこみぶりが、私には×。 同様に、ハンチントンの『文明の衝突と21世紀の日本』集英社も×。読んでおかないといかんかなと思って読んだが、世界をパワーポリティクスで考えるその考え方と、文明を固定的に捉える考え方にも違和感。この本を天まで高く持ち上げる解説文にも×。 明日は、もっと良い本を読みたい。やっぱり話題の滝口さんの『中学生の心と戦争』地歴社かな。原稿の合間に眺めよう。(2004.8.22) |
Magazine76:<私>の愛国心
香山リカの「<私>の愛国心」ちくま新書が発刊された。 香山は、保守派に向けて本当に憲法改正、教育基本法改正でいいのか考え直してほしいと願って書いた本だという。その願いを、保守派の思考方法、論理立ての問題点という観点から批判している本である。 そこでは、例えば、長崎の幼女殺人事件などを取り上げ、政治家も保守市民も簡単に少年を厳罰にすべしと叫び、さらに親も市中引き回しにすべしと声を荒げる思考方法が批判されている。個々の事例についての批判の仕方は本文を読んでもらいたいが、香山の批判の基本となっているのは、ー「自分にかかわりのある身近な問題への関心のみにもとづく実用主義」=ネオリアリズムと呼んでいるがーこの自己に関するネオリアリズムが台頭すればするほど、社会についての不安や恐怖に日常的には目をつぶるようになり、自己から遠いと考えられるイラク問題や憲法改正問題などは関心外となり、外の世界については現状肯定となるというのである。ところが一旦それが自己を不安に陥れそうになると、外に向かっては暴力をふるうようになるという話しをしている。 この見方はかなりあてはまるように思われる。過剰なまでの三菱自動車パッシングを思い起こして見れば、他者の失敗へのヒステリックなまでの不寛容の広がりを思い起こせば、納得することが多くはないだろうか。 身近な問題のみへの関心の集中は、今ここだけに反応し、理論や歴史を簡単にすっ飛ばしてしまう思考方法となり、自分自身の矛盾にさえ気づかなくなっているという事例を、小泉や保守派市民たちの発言で跡づけている。(「見たくないものは見ない」という思考方法は、いわゆる政治的保守にだけあてはまるわけではないことも付記しておく必要はある。) もう一つは、単純な二分法思考を批判している。特に、アメリカ合衆国のネオコンとその支持者(日本の論客を含めて)の発言を事例に、複雑骨折しない単純ぶりを示している。 教育関係者には、クレイマー問題についても論究しているので読んでほしいものだと思う。これについては、ブログで触れてみたい。(2004.8.19) |
Magazine75:教室はまちがうところだ
まずは絵本。蒔田晋治・作、長谷川知子・絵『教室はまちがうところだ』子どもの未来社。 これは教育実践の世界ではかなり有名な詩である。多分、私が学生時代にすでに一部では知られていたように思う。これが、絵本となった。 これは、もともと、黙りこくって発言しない中学生に向けて書かれた教師から子どもへのメッセージとして書かれたものだと綴じ込みの文書にある。その呼びかけの基本は、まちがうことを恐れるのではなく、間違いを笑うのでもなく、間違いも出し合って真理を探そうということが一つ。発言するのは勇気が要ることだという共感を教師が示し、その共感を示すことで間違いを笑ってしまう生徒に対して他者への想像力を広げるように呼びかけてもいる。 もう一つは、教師も「正しい答え」を言わせる授業ではなくて、いろんな意見が出て考えあう授業をしましょうという決意表明をしているわけである。 だから、この二つはセットとなっている。子どもにだけ勇気を求めていない点が重要なんだと思う。まちがうことを恐れるなと言いながら、正しい答えだけを求め続ける授業をしていたとしたら、この詩のような学級は生まれないことになる。 正しいとされる『基礎・基本』を覚えようという圧力の強まっている時期には、たまには読み返したい本である。絵本だから、時には考えあう授業もしたいという実践家の教室には備えておいてもいいかも知れない。 なお、絵本の言葉と原作の詩には違いがある。私は、原作の方がいいと思うのだが、どうだろうか。 また、この詩は、やはり、教師から子どもへの呼びかけというトーンとなっている。この詩をベースに、子どもが教師に呼びかける詩へとつくりかえる試みがあってもいいと思われる。子どもが呼びかけるとさらに深化(進化)する気がする。(2004.8.18) |
Magazine74:Magazinの当面の役割
当面、Magazinには書評を書くことにしたいと思う。それ以外の諸問題、意見交換できたらいいかも知れない話題、他愛のない話しなどは、ブログに書き込むという風に使い分けてみようかと思います。夏期休暇など出かけている場合には、ブログに投稿するようにしてみます。 ですから、時には、Magazinも開いてみて下さい。(2004.8.16) |
Magazine73:6・3制について
文科省が6・3制を市町村の判断で変えられるようにするという義務教育の改革案を正式に発表した。以下のサイトに文章がある。 http://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki/daijin/04081001.htm 上記文章によれば、義務教育は国の責任ということが強調されている。これは、直接には、義務教育費国庫負担制度の維持ねらいとしたもので、これを地方にゆだねるという小泉や財務省などの方向に反発してのものである。財源を地方にゆだねると大きな格差が生まれるなど教育の危機を生むという点で、その限りで賛同する。 しかし、この文章には重大な問題も隠されている。義務教育は「国の責任」という文章にある。義務がすなわち責任に置き換えられている。国すなわち行政と見なしている点も誤りだが、国の責任と言うことで、教育の権利主体たる親ならびに子どもの声に耳を傾けず、独占的に決定すると言っていることにある。形骸化しているとはいえ中央教育審議会をすっ飛ばして国会へ関連法案を提出したいと言っている中にも行政による横暴が見て取れる。 4つある柱の中の自分の専門に深くかかわる一つ目の問題についてコメントしておく。 「義務教育制度の弾力化 義務教育で子どもが身につけるべき資質・能力の最終到達目標を行政機関たる国家が、決定するという問題が基本問題だ。個別の教師が授業の目標を明確にすると言うのとはまったく異なるレベルの問題だ。その恐ろしさは、国家による教育内容の決定という点にあり、国家による人間像の策定という点にある。それは、人の精神・身体への一面的暴力といえるだろう。国家レベルの学習指導要領に大綱的性格のものをつくる必要はあるが、これを行政機関が一方的につくることは容認しがたい。また、それは、大綱的な性格のものにとどまらない危険をもつ。さらに日の君問題にすでに典型的なように、思想・信条の侵害が想定される。
この点は、教育の能力主義的な多様化を推進することになることは間違いない。地域や学校によっては、高校受験にシフトした学校階梯の区切りや教育の仕方となるだろう。例えば、小学校6年と中学校1・2年の歴史を合併して節約し、残った時間を受験に振り向けるという方策だ。 他方では、現在の基礎基本コースと補充問題コースの子ども用のカリキュラムもつくられることになるだろう。こうして効率と教育の差別化が大きく進行することになるだろう。 こうした問題を考えるとき、公共の問題としてそうしたレベルで考える必要がある。個々の子どもが多様だから教育を多様にというのは、思考の観点が公共のレベルにない。未完。 (2004.8.11) |
Magazine72:ブログ設置
勧められるままにブログを設置しました。作り方がこれまたわかってないので、どうも配置が変ですがしばらくは変えられません。ポイントは小さいし、横に広がるし。字は薄いし、いろいろ気に入りません。 休暇中は、ブログの方に書き込む可能性が高いでしょう。 アドレスは以下です。 http://blog.livedoor.jp/koyasujun/ Magazinとの関係について決めていないのでこちらと併用するかも知れませんし、やがて一本化するかも知れません。どうなるでしょう。(2004.8.10) |
Magazine71:休み
昨晩はものすごい雷。矢田川の花火大会は雷雨の中決行したようだ。 今日は、集中講義の評価をつけたり部屋の整理をしながら、ブログについて検索してみようと思う。どうなんだろう。作り方は?HPへの影響はー更新が早い分HPにはアクセスしなくなるような気がするが? 月曜日に大学で若干の仕事を終えると、ほぼ盆休暇に入る。と言っても、本読んだり、原稿のこと考えたりということからは解放されない。どうも休み方がうまくない。 やはり、先日の認定講習の評価を予定通り終了できなかった。(二人ほど私の講義をとっていた昔の学生がいた。以外に顔を覚えていた自分自信に高い評価を与えたい気がする。)でも日曜日だからまあいいか。(2004.8.8) |
Magazine70:ブーイングについて
ブーイングもいいんじゃないか、と思う。ものを投げたりは危険なのでこれはいけませんけど、スポーツ観戦において一方を応援するということは、他方へのブーイングと同じこと。 日本の保守派は、中国の愛国心教育が反日感情を煽り、ブーイングをもたらしているという。さらに、敵対心を露わにした中国の観客を非難し、間接的に中国政府の方針を批判しています。日本の大手ジャーナリズムもそれを支持する言説を流し、さらに、「スポーツに政治を持ち込むな」といって歩いています。しかし、これはまったく筋が通らない。 日本と日本政府は、アジア・太平洋戦争に関する決着を未だつけていない。また、現在も日本企業の経営方針が問題を抱えていることもまた事実です。逆に、無反省な教科書を容認し、愛国心教育を日本において推し進めてきたという事実もあります。日本における愛国心教育がもし成功することがあれば、同じことが起こり諸外国から批判されることになるが、小泉的(民主党を含めた)日本政府はそれを受け入れるだろうか。 さらに、日本及び日本政府は、スポーツに政治を持ち込み続けてきた。モスクワオリンピックの時のボイコット、心のノートへのスポーツ選手の利用、スポーツ開始時やメダル獲得時の日の丸・君が代の掲揚と演奏などなど。 日本国内で行われたバレーボールの試合における一方的応援風景と偏ったテレビ放送をみれば、ブーイングも当然だと思われる。「愛国心の表れを自然な感情の発露」などと言ってきたのではなかったか。 中国政府並びに警察が観客からポスターなどを取り上げたり、退去をさせている場面が映ったがこれもいただけない。それこそ言論の弾圧に見える。日本政府はこれにも荷担していることになりはしないか。ブーイングを非難する思想にこそブーイング。(2004.8.7) |
Magazine69:8月6日に
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今日は、やはり、6日だからそれに相応しい話題を。先日、教えられたのが「ねがい」プロジェクト。広島の大洲中学校の生徒たちが作詞したものに曲がついて、もともと4番までだった詞に5番をつくろうという呼びかけが広がっている。詳しくは以下のサイトを見て頂きたい。 http://www.jearn.jp/2003conference/negai/index_j.html
ちょっと前には、りぼんプロジェクトがあって、今では一般書店にその絵本が並んでいる。こうした取り組みが定式化されてきたように思う。訴え拝聴型ではなく、参加型のプロジェクトがネットを中心に広がる。気軽さと創造がそこにあるからかもしれないが、もう少し別の要素も考えられそうである。参加というよりも、応答と応答の環への参加を通じた「力動」を感じることによるのかも知れない。 今朝の段階で161番までできている。さらにいろんな可能性が開かれることを期待したい。 今日は原爆忌。(2004.8.6) |
Magazine68:阿蘇で学力を考える
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| 熊本県阿蘇の山並み宿泊した部屋から撮りました。 | 左の写真よりさらに東側を撮りましたがボケました。 |
研究会に参加するために阿蘇町に行きました。 私の参加した分野は、学力低下問題と学び問題の分科会でした。そこに参加した教師から聞いた情報によれば、学力問題は学力問題ではなく、テスト漬けの学校現場の実態を示すと共に、テスト結果による教師・学校間競争へと駆り立てる管理・統制システムとなっていることを示しました。 つまり、参加者の話しを総合しながら実状を示すと、国や地方自治体あるいは教育委員会単位によるテストが、実態調査の名の下に実施されるようになりました。これらの結果を学校名付きでは公表しないと言っている地域が多いのですが、実状としては学校が特定されるように公表されていたり、管理職を通じて順位などが示されるようです。 そこで、順位が低いと特に、これへの即効的な対策となるドリル、補習授業などが強要されることになったりするようです。そして、特定の教師を名指してその指導を問題視する傾向が生まれてもいるようです。 かつて、「テストあって教育なし」といわれたことが繰り返されるようになっている実態も報告されました。ある教師は、昨年度2日に一度のテストをしていたことになると語りました。これを加速しているのが習熟度別教育。各地で文科省の意図を汲み取りすぎて習熟度別教育を強要する傾向がありますが、ここでも、そのクラス分けに根拠を持たせるために、テストを数多く行い、教育そのものの時間が削られてしまっているのです。 本末転倒も甚だしい実態が多く語られました。 こうした諸問題に関する情報的文章を今月末に執筆予定です。もう少し詳しくは、そちらに記したいと思います。さらに情報のある方はお知らせ下さい。(2004.8.4) |
Magazine67:8月に
集中講義が終わり、明日からは熊本へ。飛行機は飛ぶだろうか?飛ばなかったら、担当している問題別分科会には間に合わない。まあ、なんとかなるか! 熊本では、興味深い実践に出会えることを期待したい。 7月も本日で終わり。勝田守一の教養論批判を8月には少し前進させよう。どうも直系や傍系はそれをしないようなので一部ながら検討してみたい。 著作権についての勉強もしてみたい。 そして、休暇には海を走り、いつものように草取りをして、いつものようにぼーっとしていたいもの。以上来月の目標。 次回は、8月4日に更新予定。 |
Magazine66:貢献と活躍
斉藤貴男の『安心のファッシズム』を読み終えました。その終わりの部分に、大リーグの松井の報道に際して、「チームに貢献しました」という表現が多用されるようになっているという指摘がありました。「活躍」ではないかというわけです。団体への奉仕・貢献度で人を見る志向がそこにあるというわけです。この指摘には共感できました。個人に焦点を当てず、団体に同化して評価する思想こそファッシズムという判断だと理解しました。 しかし、武者小路の講演を引いて、新自由主義のもとで新たな貧困層=新しい階級が生まれているという指摘には、まったく同意できませんでした。新しく生まれた被差別階級の誕生だというのです。これをいうなら、階級ではなく階層でしょう。また、貧困層が増加しているのは間違いないですが、層としての新しさがあるのかきわめて疑わしい。(2004.7.30) |
Magazine65:集中の一日
朝、豊田市駅のコンビニで弁当を買っていたら、スクールバスに行かれてしまいました。
今日は、現代思想8月号の対談を中心に読みました。斉藤貴男と森達也の対談が面白い。同じ意見でない所もあるのですが、現在のファッシズム状況を指摘しています。例えば、一方で、「感動した」というセリフが中身もなく多用されているかと思えば、他方では、一人称の語りがきわめて少ないということが取り上げられています。 感動する主体は、一人称の担い手たる個人のはずですが、言葉の中身は問わずに「感動」が一人歩きして、それがうけてしまっているというわけです。言葉の一人歩きの事例として、「日米同盟」という言葉がとりあげられています。アメリカにとって、日本は同盟ではないのにそのような言葉が使われるようになっているというわけです。 他方、「我々」「うちら」「国家」という共同体を主語にしてしまっていることが指摘されています。一人称たる私と「我々」は同一化できないにもかかわらず、安易に、同一視する思考様式が広がっているというわけです。 こうしたことがファッシズム状況だというのです。過去のそうした状況と現在が同じかどうかの議論はありそうです。この対談は、ある種のポピュリズムがファッシズムになる側面を重視して語られています。そういうこともあるでしょう。しかし、市民はいかにポピュリズムを越えていくことができるのかについて、展望を開く所まではまだまだかなという印象です。他の論文にも期待します。未完(2004.7.28) |
Magazine64:ソフト
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土曜の夜からできなくなっていたHPの更新ができるようになりました。業者に問い合わせた結果、コントリビュート2とドリームウィーバーMX2004をマックOS10.3でインストールしたり、バージョンアップをすると、起動しなくなる不具合があったんだそうです。修正ファイルをダウンしたら起動するようになって、更新できるようになりました。 どこがおかしいのかいろいろ試して3時間くらい費やし、なおかつ暗い気分が続いていたのですが、あっけなく解決して「よかった」と思いつつ、「なんとかならないもんなの!」という感じ。 今日からは集中講義で、これにも学生以外の人が受講したいと申し出てきています。前にも書きましたが140人近くを相手にどんな講義になるのか不安で一杯。50人から60人だったらなんとか目がいくんですけど、140人は私には無理だなあと弱気になってます。 ブログを勧められて、このMagazin部分をブログにして、それ全体をHPにリンクしていくと、確かにいつでも更新ができるという便利さがあるのだろうと気づきました。しかし、これまた技術が追いつかないかも。さて。 昨日は、現代思想8月号と斉藤貴男『安心のファシズム』岩波新書を購入。二冊は関連してます。高橋の本とあわせて豊田までの通勤の行き帰りに読み切りたい。(2004.7.27) |
Magazine63:今日の本
MXのマニュアル本を買いに行ったついでに、『唯物論と現代』33号、広田照幸『思考のフロンティア教育』、高橋哲哉『反・哲学入門』などを買った。33号の三つの論文だけ読んだ。だが、内容的にちと古い印象が否めない。鰺坂論文も、心のノート批判から心の哲学論史風に書いている。しかし、その基調は、心の社会性を強調することにあるが、現代における心の社会性を議論しておらず、マルクス以外を観念論と名指すばかりの論調で学べない。 有尾論文も尾関批判をしているわけだが、これも旧来の科学主義を擁護することが目的としかやはり読めなかった。坂野論文が心理学を専門にしていない私には参考になった。 高橋の『反・哲学入門』は、近日中に読みきろうと思う。氏は、ナショナリズム批判の本当はラディカル派に属する。だが、表向きは、国家必要論に見えるように書いている。しかし、注意深く読むと、国家は不要だが多岐に渡って深く浸透しているので、ひとつずつ剥がしていこうという文章になっている。例えば、『国家を、人々の多様性と差異を尊重するための装置に作り替えていく、まずはそれが現実的」などという(179頁)。だから、本来的に国家が幻想かどうかという議論については先伸ばししている。しかし、高橋は、「装置」とはいうが、それを国家とは断定しない。つまり、装置が国家である必要は必ずしもないのだが、そこは保留というか不一致点は棚上げということだろうか。こういう論じ方が得なのだろうが、論じ方については私の嗜好とはずれるかもしれない。 (2004.7.24) |
Magazine62:テーブル
研究室のテーブルを入れ替えました。この号は、HPソフトのテーブルの練習。ずっとコントリビュートの
マニュアルを読むのも半分ほどで止まったままだったのです。それを、一節だけ前進させてみました。細かい
ことがよくわかってませんが、とりあえず、以下に画像を入れてみました。
| テーブルということで、先月、研究室に入れ替えたテーブルを撮ってみました。新しい木のテーブルは転出された同僚の研究室にあった新しい中古。 HPソフトの方のテーブルを使うと画像の左右に文字を入れることができるようになることがわかりました。 今日も雑用と会議で一日が終わりましたが、これから集中講義の資料を整備していかなければなりません。140人近くの学生を相手にいつもの講義ができるのか不安です。いつもは、50人前後ですから、規模が違います。 |
サイズがうまく調節とれてないですね。機会を見て調節の仕方を読んでみます。内容のない記事となりまし
た。(2004.7.22)
マニュアルをみたらいくつか調整方法があるようです。試してみてます。(7.23)
Magazine61:夏休みの削減
夏休みを削減する動きがある。3週間ほどに削減して、授業を行うのだという。これによって、5日制によ
って減った授業日を回復し、学力アップをねらうのだという。
この暑い夏に耐え難い地域も多いに違いない。また、従来の夏休みに期待されていた諸行事への参加なども
難しくなるだろう。
もっとも、すでに、高校を中心に補習という学校がよいが通例化している所もある。小学校でも学校開放の
活動の一つに補習的な取り組みをしている地域もあると聞く。なにをそんなに集めて詰め込みたいのだろう。
目標管理の枠組みを解体しないと涼しい夏はこない。