Magazine93:性教育特集10月号

 来週は、学会でその場で発言が決まっている方が二人も執筆してるのが、『教育』国土社10月号。対談は、村瀬氏と教科研側から(どんな側なんだ!?)田中氏と中嶋氏。表の小見出しに沿った話題があるのだが、もう一つ、別の話題が裏に流れていると読んだ。

 性教協の枠組みは、性についての身体科学的アプローチを土台に、性に関する自立・権利の自覚と行使という方向をとってきたように思われる。そこには、ジェンダーの存在を認識しつつ、ジェンダーバイアスについての把握がかなり限定的なままに留まっていることへの懐疑が示されているように思われる。別な言い方をすると、「性教育」という枠組みでいいのですか?という問いが提出され、特に中嶋氏から提出されているように思う。つまり、「からだの科学と文化的な性はつながるか」という批判である。

 田中氏は、性教協の教育実践の前提としている枠組みがそれでいいのか検討課題だという観点から批判的意見を提出しているように思われる。例えば、性教協は「ふれあい」「快感」について自己肯定感を育てるという方向で捉えるが、田中氏は単純化がされていないかと批判的だ。

 浅井論文は、性の発達過程を整理し、それぞれの時期の課題、さらに性教育の研究課題を提出している。性的発達がそこに示されたように進行しているだろうことは、理解できる。しかし、ここでも、男性性や女性性が、もともとそれぞれに対応する性に存在していることが前提にあるように思われる。もちろん、同性愛の存在を肯定し、生物学的男女区分が絶対でないことも認知している。しかし、それぞれの存在が前提にされているという意味で多元主義的把握であるようにおもわれる。いわゆる、保守的な本質主義ではないことも明らかなのだが、この多元主義は、ナンシー・フレイザーだったらいくつか評価するだろう。しかし、ジュディス・バトラーような社会構築主義の見地とは距離があると思われる。

 吉田論文は、アンペイド・ワークという主張に触発されて執筆されたようだ。従来からの家族介護のような労働を念頭に、これを労働として位置づけ直すことを意図している。話しが大きくて、内容研究には寄与するだろうが、教育の世界とどこでリンクするのかを私は読みとれていない。(2004.9.30)


Magazine92:戦争と平和

 高遠直子さんの人質前後のことが書いてある本。講談社、本体1500円。

 ブログに別の文脈で、高遠さんのことを想像力があると記した。この本を読んでもそう思う。一つだけ例を挙げよう。ピースウオークへの参加者があまりに怒りに満ちていると危険だと推測している。理由は、怒りに満ちたピースウオークが衝突を呼ぶからだという。

 これは、推測ではなく、体験に基づいていると言えば言えるのだが、そのように読みとるところはまねができないなと思う。イラクでの流血事件も、当初、ピースウオークとして始まっているものがいくつか在るのだという。ちょっとしたきっかけで、大きな悲劇を呼ぶことになり、ピースフルなデモでなくなったことを紹介している。

 関係ないけど、すごくお酒が飲める人らしい。ブログに登場する人物がどんな人かも少しわかった。

 後は、人質となった9日間、その後のバッシングが如何に構築されたかを詳細に記している。本当はどうだったのかについて、積み上げていた疑問が解き明かされていく感じだ。政府と報道機関の恣意的対応が一層鮮明となる。(2004.9.28)


Magazine91:PISAを乗り越えて

 この本は、エリッヒ・ビットマンらの数学教育に関する論文の翻訳である。東洋館からこの夏に刊行された。

 ドイツでは、PISAショックと言われ、議論が起こっている。これは、日本の「学力低下論」とにている側面がある。つまり、PISAの成績が良くなかったので、その原因と対策をめぐり議論が政策担当者、教育学者、教師たちの間で沸騰したわけである。ドイツにとってショックだったのは、単純な計算力ばかりでなく、思考力などにおいても芳しくなかったからである。20位あたりであった。特に、ギムナジウムの成績が期待ほどに良くなく、移民の子どもの成績はさらに良くないものであった。

 そこで、日本の動向と同じように、テストを増やしたり知識をより多く教えようといった動向が生まれた。

 これに対して、本書は、統一的な学習指導要領の作成、教師教育の改善などの提案を全体としては行っている。ドイツと日本の教育システムは異なるので、上記題目だけ見ると日本の昨今の動向と同じに見えるが、実は異なる点も多い。ドイツには、国家としての統一的な学習指導要領は存在しない。各州単位であり、州によって内容も異なる。当然教科書も異なる。だから、その提案もそのまま日本に置き直すことは妥当でない。

 しかし、次の指摘は受け止めたいと思った。

 一つは、テスト漬け批判である。何でもかんでもテストで評価しようとすることはできないと指摘している。試験による社会的選別が一定水準を超えてはならないともいう。

 二つには。単に知識を教えるのではなく、学習する場の構成を重視すべきだとしている点である。

 三つには、教科を解体するのではなく(この解体の意味は、教科の統合化もしくは総合学習をさしていると理解してもらえばいいだろう。)、教科内容を社会的文脈において学ぶと指摘している点である。ただし、この「社会的文脈で学ぶ」とは何かという点になると、矮小化されていると思われる。

 他方、問題もあるように思われた。一つは統一的学習指導要領という議論である。統一されない良さが私にはあるようにも思われる。二つには、教師養成において教科専門科目の内容をどうするのかについて、もう少し議論が必要だと思われる。日本の教科専門科目の内容は個別学問そのものであることが多い。ドイツもそういう傾向を持っているらしい。これを、それぞれの学校階梯における教科内容研究に対応したものにするという提案なのであるが、日本の場合に置き直すと実際の内容はひどいものになる可能性がある。原理的には重要な観点なのだが、学習指導要領の解説という最悪の講義が誕生する危険が日本の場合にはあるからである。その実態がさらに詰められないとならないだろう。

(2004.9.25)


Magazine90:言論統制その2ー批判的意見

 佐藤卓己の『言論統制』は長くて、途中で飽きてしまいました。が、ちょっと引っかかる点があって、読み切った。

 この本は、戦中の言論統制の総元締めとして、極悪非道とだけ見られていた人間を、その生い立ち、軍内部への登用過程における行動と考え方を、鈴木の日記を元に配置換えした本である。確かに、極悪非道とだけ見るのは間違っており、統制された側が被害者とばかり言えない側面についての指摘は妥当性を持っていると思われた。また、鈴木をそのように描いてきた側の創作について、その嘘についての指摘は一部推測にすぎる点はあるものの、妥当性を持つと思われた。

 しかし、引っかかったのは、以下の点である。鈴木の言論統制そのもの、あるいは言論統制を進めたシステムというものは、中枢部にいたものとその周辺にいたものを巻き込んで、さらにその暴力性を加速させる性質を本来持っていたことを主張すべきではないかと思ったのである。この本では、そういうことよりも、鈴木の別の側面を描いてはいるが、言論統制そのものの問題性とその仕組みについて新たに浮き彫りにしたとはいえないように思われたのである。

 また、佐藤の叙述を見る限り、鈴木は戦後もその言論統制について無反省であったと読める。この点への批判的論述がないなど、評価の仕方について疑義が残った。

(2004.9.23)


Magazine89:若者たちに何が起こっているのか

 最初、ブログに書いたが、書評のような内容なので移動して書き換え。

 中西新太郎の『若者たちに何が起こっているか』花伝社(2400円+税)について極簡単に紹介しておきたい。

 90年代の子ども・若者が消費文化的世界に浸ることによって生まれている志向、行動、心情などを論じた本である。かつての基準で子ども・若者を捉えることを批判しているといってもいい。すぐに、「結局、人間は同じだ」などとどこに根拠があるのか示し得ないままに、自己の見方の内側に納めて、無意味に安心する。それこそが、藤田省三が指摘した「安心」「安全」の構造かもしれない。
 若者文化をかつての若者たちはしばしば、商業主義批判ですませてしまう。しかし、それでは若者を捉えることができないこと、社会制作の担い手として捉えていくことが不可欠なことを様々な若者文化を取りあげながら論じている。

 例えば、若者の状況に即しながら、これを社会へと水路づけることが課題だと指摘する。ただし、社会へと水路づけることを大人が仕組むことではない。それは、「うざい」だけとなる。この違いがいいところ。開拓が待たれる領域。

 こうした若者文化の分析について、もし、若いという自覚がある人はチャレンジしてほしいものである。(2004.9.20)


Magazine88:思想9月号

 リベラリズムの再定義を特集とする9月号では、井上達夫を中心に、リベラリズムの側にいると自認する人たちの論考がならぶ。

 井上の主張は、次の構図だ。リベラリズムが様々に批判されるが、それは、リベラリズムのダミーで、ダミーを批判しても無意味だという。確かに多様なリベラリズムがある。井上は、リベラリズムを多くの人々が批判する現状肯定の理論でもないし、社会的な公正を要求し、正義の支配に服させる企みであって、それがリベラリズムだという。

 これは、批判に耐えられないリベラリズムはリベラリズムではないと言っていることと同じに見える。この論法に該当する事柄もあるだろうが、こう言われてしまうと、では何がリベラリズムかと問いたくなる。しかし、それこそ、リベラリズムの論争点であったと言われてしまうと、それでは議論できないではないかと思われる。

 仮に、井上の方向を承認したとしても、何が社会的公正かをいかに定めるのか。

 また、現実には多くの場合、少数派は公正を要求する側に位置し、正義の支配に服していると信じる側は少数派を「正義の支配」に服させようとしてきたという歴史と現実がある。とすれば、これを許さない仕組みが考えられないと、井上リベラリズムの力について疑念を持たざるを得ない。

 また、谷口論文における、フェミニズムのいくつかへの批判には、観点として重要だと思われる指摘もある。例えば、「ずらしの戦略」では制度の再構築へとつながりにくい問題などが挙げられている。

 ただ、ここでもフェミニズムが「法」について、したがってまた制度についてずらしではなく「提案」をしていないかというとそうでもないという事実が無視されている。

 全体としてダミーを批判するなと言う論調なのだが、ダミーではない本物のリベラリズムがそれでは何かという問いに、必ずしも明示的回答が与えられていないと思われた。

 追加

 リベラリズムと多文化主義の関係に関する論考は、そもそも多文化主義はリベラリズムと親和的とすでに指摘されてきたことをなぞっているように思われた。それぞれの文化を自立的な一定範囲において理解する限り、リベラリズムと何ら矛盾しない。

 批判的多文化主義は、リベラリズムとそうたやすくは一致しない。そういう見地を検討対象に据えていなかった点が残念に思えた。

 しかし、それでも、一義的に見なされがちな思想をより幅のあるものとして解釈する道を示してくれている点では参考になった。(2004.9.17、19)


Magazine87:久々に良いニュース

 本当に久々に良いニュースだ。毎日新聞2004年9月14日22時03分によれば、「女性の高等教育:日本は最下位」だそうだ。最下位が良いニュースというのは奇妙かも知れないが、今回のOECD調査は、データとして有意味だ。
 日本は高等教育の卒業者に占める女性の割合が「学士39%(各国平均55%)、修士26%(同51%)、上級研究部門の博士23%(同40%)と、加盟国の中で最下位だった。」という。

 また、「国内総生産(GDP)に対する教育全体への公的財政支出の割合では、日本は3.5%と各国平均5.0%を下回り、GDPに対する私費負担を加えた教育支出の割合も初中等教育2.9%(各国平均3.8%)、高等教育1.1%(同1.4%)と低かった。」これも、予算増の根拠となる。これは、大学などにとって有意味なデータとなる。これは、調べる前からわかっていたことではあるが。

 小中学校の教師、組合にとって良い情報は、「学習環境の面でも、教員1人当たりの生徒数は、就学前18.1人(各国平均14.8人)、初等20.3人(同16.6人)、中学16.2人(同14.4人)、高校13.7人(同13.1人)と教員の負担が大きいことが分かった。」という報道部分だ。

 文科省のデータでは、一人程度しか差がなく、実感とあわない数値であった。しかし、今回、3人以上の差が出た。
 詳細なデータの刊行が待たれる。NHK報道ではもっと差のある数値を記していた。そちらは、一クラスの人数で比較していた。これだともっと差がある数値であった。

 とりあえず以下が毎日のアドレス。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20040915k0000m0401

20000c.html

見出しと関係ないが、「思想」のリベラリズム特集は、井上論文を読み終えたらコミットしたいと思った。

(2004.9.15)


Magazine86:「個性」を煽られる子どもたち

 土井隆義『「個性」を煽られる子どもたち』岩波ブックレット。

 私と同じようにスマップの「世界に一つだけの花」が問題含みの詞だと指摘している数少ない論者。浜崎あゆみの詞も自己の内側に生成する実感を歌っていると指摘している。そう、必死に歌い上げている感じなのに、私のような者には伝わってこない歌である理由の一つがわかるように思われる。

 個性が自分の内を見ても見えてこないこと、他者との比較や関係の中でしか自己を捉えることもできないことを前提にしている点では、その通りだ。重要な指摘だが、それだけでは独自性のある議論ではない。その限りで、この本の出だし部分に独自性はない。全生研などがだいぶ前に指摘してきた子ども論とかなり重なる。つまり、友達への過剰な配慮と、他者の不在という話である。

 その次以降のページに、徐々に主張が見えてくる。

 「個性」的であることを要求される社会があり、その中で、「個性的」であることを追求しなければならなくなって、自己の内側に向かって「個性」を自閉的に探すようになっているという論旨である。その志向が、親密圏と公共圏で現れ方が異なるというわけである。親密圏では、自己を装い、演技し、スムーズな人間関係を維持しようとし、自己を表現したいのにできないというきわめて重い関係となり、公共圏では、親密圏におけるような他者がいないこともあって自己を表出するというわけである。この二つが反対に表れるという二つを取りあげて関係を考察した部分は、多分独自性。不勉強なので、すでに存在するとご存じの方は教えて欲しい。

 個別の現象に関する土井分析は本を読んで頂くとして、社会や他者と切り離された純粋な人間関係、あるいは「個性」というものの不在を指摘している点には賛同。『こころのノート』がそうした人間観を持っていることを警告している点もその通りだと思う。私には本論でないところに引っかかる点もあったが、読んで損なし。

 できるならば、そうした「個性」重視の議論が何故登場したのか、社会論との関係での議論があると良かったかなと思い。また、だから、その転回の方向についてもう一言あってもよかったかなとも。(2004.9.12)


Magazine85:現代思想9月号の続き

 ついアップを忘れてしまいそうになっていたのが、見出しの本。

 先日の鶴田さんからのメールによれば、現代思想のインタビューは、わずか5日間での仕事だったとか。でも、具体的に性のことを家庭科では取りあげるなとか、ご飯とみそ汁は取りあげても米を食糧自給率などを含めて総合的に取りあげるなという規制・統制が学習指導要領や教科書検定にはあると指摘されていてわかりやすい。

 そうした規制・統制の根底に現在の「男女共同参画社会」論、新自由主義的諸政策があることも指摘している。

 もう一つ、関評論も有意義だ。私はロックやその時代のことにも疎いので読みとれていないことも多いが、なるほどと思うことがいくつもあった。

 冒頭、皇太子の「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったのも事実です」とたんなる夫としての発言があったことを取りあげている。天皇とその一族は、象徴天皇制のもとで、日本における家族モデルとしての役割を果たすことになっているわけだが、国家に統合された家族を期待する象徴天皇制と憲法24条との関係で矛盾をはらむものとなっていることを示している。そして、今回の発言は本人の自覚とは別に24条的な発言であったことを指摘している。

 さらに途中では、その24条的家族が中世キリスト教的家族モデルとして構築されたものに過ぎず、ヘーゲル的に戯画化された家族モデルに由来していることを指摘している。

 こうして象徴天皇制の賞味期限が切れているという。しかし、共和制的家族モデルが準備されているかというと懐疑的だとも。

 この論のおもしろさは、「婚姻は、両性の合意のみに基づいて×××」という現在のとらえ方自身が一つの家族論にすぎないことを示していることにあるだろう。倫理的な人格へのバージョンアップを志向する人(補足:戦前から戦中そして戦後にかけて、克己・自己の止揚、京都学派的覚醒、戦前的出世志向・企業戦士的純化、あるいはオタク的集中が、この分類に入ります。)あるいはロマンティック・ラブ信奉者には一読を奨めたいと思った。これ読んだ私は、その道から足を洗いつつあると本人的にはおもったり。

(2004.9.9、10) 


Magazine84:教育目的を国家が決めることについて

 今日は、『教育理念・目的の法定化をめぐる国際比較』つなん出版、1400+税金を取りあげる。これは、教育学関連15学会のシンポの記録の一つである。

 教育基本法を変えたい人たちの主張は、愛国心などの思想の統制と能力主義の教育の法的認知にあるが、その内容の是非を論じる前に問題となるのが、教育の目的を国家が定めることの是非にある。私は、変えたい人たちのその主張内容そのものにも否定的だが、仮にその内容が肯定できるものであったとしても反対。

 国家が目的を定めることは基本的に教育になじまない。現行の日本国憲法にも反すると考える。

 この私の見地とほとんど同じ主張が、アメリカ合衆国の公教育の原則(中央統治組織は個人を育成しない)から見ても容認できない議論であることを青木宏治氏が語る。荒牧重人氏は、国際教育法との関連で、変えたい派の人たちの主張が時代錯誤であることを論証している。

 他に、いわゆる先進国を中心に、教育の目的規定がどうなっているのかを紹介してもいる。韓国では、愛国心教育の規定がかつてはあったが今ははずされたこと。他方、平和と並んで郷土や宗教に関わる規定を持つ地域もあること(ドイツ。ただし、国家レベルではなく州レベル。)など、数カ国が並んでいるので参考になる。

 例えば、フランスのように、国民主権への愛着という表現はあっても、愛国心を記述する国は少ない。こうした動向から見ても、日本の自民党と公明党そして民主党(一部)のように愛国心を当然とする見方考え方は国際的動向ではないことが読みとれる。

(2004.9.6)


Magazine83:学会案内

 昨日、一昨日と学会の下準備をしていたのでついでにご案内。教育方法学会が和光大学で開催されます。

 日時は、10月9日(土)9時30分から11時30分。

 当日会場にお越しいただき、参加費さえ払えば参加できます。他にも色々分科会が開かれますが、今の状況ではこの課題研究が焦点だと思います。

○課題研究 教育課程・教育方法におけるジェンダー/セクシュアリティの政治 
  (10/9 9:30〜11:30)
 〈コーディネーター〉 子安 潤(愛知教育大学) 鶴田敦子(聖心女子大学)
 〈司会者〉 子安 潤(愛知教育大学) 船越 勝(和歌山大学)
 〈提案者〉 鶴田敦子(聖心女子大学) 浅井春夫(立教大学) 山田 綾(愛知教育大学)
 〈指定討論者〉 吉田和子(岐阜大学)
 〈設定趣旨〉
 学校は、特定のジェンダー/セクシュアリティを構築する場として機能してきた。それは、教育の目標や教科の内容として顕在化されている場合もあれば、ミクロポリティクスとして隠蔽されている場合もある。この機能の仕組みを、現在の性教育・家庭科・教育基本法の改訂をめぐる議論の動向に触れながら検討、解明したい。さらに、子ども・青年のジェンダー/セクシュアリティの自由な形成に資する教育課程・教育方法の改革方向を探りたい。

(2004.9.5)


Magazine82:ペットと家族

 現代思想9月号は、偏見の複数化に役立ちそうです。今日読んだ毛利論文の中に、国民生活白書の「ペットを家族の一員と考える人が全体で64%」いるというデータを使いながら、次のように指摘している。

 「交換可能な商品(動物)が家族の一員になりうるのと同時に、家族の一員までもが交換可能な存在になりうることを暗黙裡に示唆している。」(62頁)

 これを一面では危機と捉える人もいるだろうが、もう一面では好機だといっているところがさらにいい。危機と捉える人はまあ、保守派。好機と捉える人は、一部の虐げられてきた女性だといいます。これはそうだとうなずきます。保守派が危機と捉えるのは、虐げる対象から逆にその位置を剥奪されることを直感しているからでしょう。

 人間の一回性に注目すれば交換不可能な経験と言えなくもないが、もともと交換可能であったものを、交換不可能なものという意識がつくられてきた。しかし、それが交換可能な所へ移行しているということかも知れない。

 どちらであれ、ペットの飼えるマンションが増えているそうだが、それは、上記の現象を受けかつペットの家族化を一層推進するために生じている事態と理解されるのだろうか。

 ほかにも、鶴田インタビュー、関評論文など、興味深い論文が現代思想9月号にはありそうな気がします。(2004.9.2、3に修正追加)


Magazine81:怪しい『いい学校の選び方』

 吉田新一郎という聞いたことがない人の本(中公新書)なのですが、目次が今学校に立ちこめる暗雲の一つの典型のような予感がして読みました。

 やはり、暗雲の一つの形ですね。これは、新自由主義型で、コミュニティスクール派に属するタイプの本のようです。

 冒頭、この本は学校選択の是非を論じるものではないと言ってます。確かにその通り。是非のうちの是だけの観点から論じているわけです。間違いなく是は論じているが、非は論じていないので、是非は論じてない。これがこの本のトリックの一つ。

 いい学校のチェックリスとなるものを多様な観点から提出しています。この時、その良さを子どものニーズから考えることが基本だといいます。それならよさそうに見えます。そのニーズなるものも、相当常識的にみえるものを挙げていますので良さそうに見えます。しかし、そのニーズなるものは、子どもが積極的かどうかという類のもので、何故それがニーズなのか先を見通してのものではありません。

 三つ目のトリックは、目標設定の原則などは企業の目標設定の仕方と同じもので、目標を、明確か、実現可能か、結果志向かなどという基準で計ります。これはもう人間を見ていない。人間の育ちに関する目標をそのように設定することは間違いではないでしょうか。そんなに単純に割り切れる人間を育ててもいいのでしょうか。ソフトな物言いですが、企業戦士養成に関わりの深いところで生きてきた経歴とやはり切り離せない思考回路ができあがっているように見受けます。

 それでも、この本にあるようなチェックリストを借用する人は出てくるのではないかと危惧されます。

 ただし、この本には、賛同できる部分もあります。それは、授業あるいは学びに関する記述の部分。現在の学校の弱点ー正解主義的、効率主義的な学習という弱点を真っ当についている部分もありますし、文科省の教師研修の方針の間違いを指摘している部分については賛同できる点もあります。これは、いわゆるコミュニティスクールの実践、浜之郷小学校、フレネ教育の影響が読みとれます。しかし、学校評価論になるととたんに近代合理主義の発想が強く押し出されて来ているように思われます。(2004.8.31)


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