2004年10月31日 (日)
| Magazine106:スピーチ活動 |
東京の中妻さんが、小学校で長くこのスピーチ活動を行っている。毎日一人(といっても週に3回だそうだ)、朝に3分程度話しをし、このスピーチについての感想や質問等のやりとりをし、3分ほど時間をとって、それぞれがスピーチに対する感想を書いて渡す。最後に教師がコメントをし、子どもが一言感想を言って終わる。こういう流れだ。このスピーチを準備するために、子どもは、どんなテーマで話すのかを教師と相談し、原稿を書いて、それを覚えてきて、当日は原稿を見ないで話すことを原則にしている。 すぐに二つのことを思い起こす。この実践は昔からある「3分間スピーチ」という広く全国で行われてきた取り組みに似ている。また、他方、フレネ教育における自由作文の発表とも似ている。私は、前者に後者の仕組みをプラスした印象を持っている。 つまり、事前の準備は、やがて、調査・情報収集にもつながることが想定されているかも知れない。その意味でフレネの自由研究とリンクしていそうである。また、子ども相互の言葉のやりとりが重視され、単に感想でなく子ども相互の評価が意識的に組み込まれている。これらはフレネ技術と呼ばれるやり方とよく似ている。中妻さんは、フレネをよく知っているはずだから、それを取り入れたと考えられる。(発表順が決まっていそうなことなど、同じでないこともありそうだが、学校条件に応じて変えるのは当然。) 子ども相互の対話・コミュニケーションを組織し、子ども相互のものの見方を交流する機会として、多くの教師が取り組みやすい活動として有意義だろう。 この活動を具体的素材とした学校づくり、教師間対話へと広げているという。(詳しくは、一般入手可能な文献として、民主教育研究所年報第4号に報告がある。) (2004.10.30) |
| Magazine105:動物化するポストモダン |
「おたく」研究の続き。藤井さんに触発されて(『学校と教室のポリティクス』所収の藤井論文参照)、データベース型人間という議論にとって必要なのが、東浩紀の見出しの書、講談社現代新書、700円。 ここでは、オタク系のジャポネスク(日本主義)がアメリカからの支配と深く関わっていること、本物に見える偽物と見たことのない本物どちらを選ぶのかという二者択一的な世界観、本物とコピーの間のシュミラークルの連鎖の間にいる「オタク」という風に特徴づけられていきます。 本文を読んでいない人には上記の文章は意味不明でしょうが、かなり解説的な本なので、読めばさほど難解ではなく、すぐに了解されます。 ところで、動物化とは何か。それは、欲求を持ちそれを満たすことで満足するのが動物。他方人間は、欲望しこの欲望はつきることがなく、また、他者なしに存在し得ない。この違いがあるとされてきたが、「おたく」は他者なしの情報の消費を続けているので、つまり動物化しているというわけです。さらに、これは本当は、「おたく」だけのことではなく、そうした社会へと全体が移行してきているなかでそれへの一つの適応形態こそが「おたく」だったというわけです。しかし、それでは、人間性を意味あるものとしては回復することができないのではないかと結論されています。 では、いかに、回復しえるのか。それは東の場合も明示的ではない。人間的な共感ということに期待を寄せているように見えますが、共感さえ消費されてきていると見えなくもない状況にあって、消費される共感と、そうではないものとの峻別が必要なように思われます。 見たことのない作品で説明されるとわかりにくさが残るのは、致し方ないか。 (2004.10.27) |
| Magazine104:「おたく」の精神史 |
大塚英志『「おたく」の精神史1980年代論』講談社現代新書、950円。これも結構長い本で432ページある。 まず、第一部は、「おたく」と「新人類」の違いをその登場人物と相互への批評からよみ、そして彼/彼女らと関わりのあった大塚の同時代体験から批評するという書き方になっている。分析的な文章とその当事者としての印象からの文章とが混じり合っている。 「新人類」は、何者でもなく、発見されることを待ち、なにものでもないが故に消費文化による差異を魂としていたというように規定されていく。他方、「オタク」そうした消費文化における差異化に無頓着な層として把握されていく。全体として、消費文化、消費社会論、とりわけ記号化された文化の消費へと向かったことが記され、上野千鶴子のように消費社会論に期待してしまう動向もあったが、それは消費社会を土台で支えている側に飲み込まれていくに過ぎないものと見ているようだ。もちろん、文化の記号化そのものについて全面否定しているわけではない。 第二部・三部は、物語消費の実像が描かれているといっていいだろう。中西新太郎などは、まだ、サブカルチャーへの傾倒が、正統への抵抗となるのかどうかについて懐疑的でありながら、可能性について期待を残しているように記すが、大塚の場合、抵抗や革命という文脈で言えば、その可能性がないと見ているように思われた。その当事者としてサブカルチャーの現場を生きた大塚の見方に賛同したくなる。 第4部は、80年代が「主体」の喪失としてあったとした時、それは宮台的な意味で理解していいように思うが、90年代への引き継がれ方をしめし、それを批判するという内容だ。 一つは、失われた「主体」を決して成長することのない存在として諦念する道。二つには、失われた「主体」を心理的学トレーニングを通じて改造しようとする道。三つには、失われた「主体」を小林よしのり的ナショナリズムへと自己を同一化させる道。こうした道へと入り込むことへの批判があると読める。 それがすでに大塚がいっている戦後民主主義のリハビリテーションの道。つまり、戦後語られた「民主主義」「人権」などの言葉を現代に合わせて、右派や新興宗教がそれらを批判する方向とは違ってつくりかえることということなのだろう。私にいわせれば、「国民」もつくりかえて行くべき言葉としてあげておきたい。また、大塚の上野批判、「主体」の喪失論と同心円にありはしないかという批判と読めたが、いつか思い出したらいい指摘として記しておきたい。 (2004.10.24改訂) |
Magazine103:宮崎駿の「深み」へ |
| 村瀬学の平凡社新書。「風の谷のナウシカ」から「ハウル」までの作品を統一的に説明、解釈する視点を提出している。それは、「腐海」を菌類の作用としての死と再生の営み(腐らせる作用は死をイメージさせるが、そうではなくて、生の営みであり、多様な生の存在する場所として理解すべきだという)、あるいは無菌状態への脱出(天空の城ラピュタ)が「衛生的」世界の誕生ではなく死に向かっての歩みであること、だから、その腐海と共にあるとき生があること、こうしたモチーフで作品が読まれている。 物語と現実との出会いのアニメとしての「となりのトトロ」。この読みは、言霊をイメージさせられた。 魔法物語としての「魔女の宅急便」の場合は、魔女の暦と違って、社会の時間に慣れ親しむ中で魔法が使えなくなり、魔女という性的存在への目覚めと共にほうきで飛べるようになったのだという読み。 もののけ姫も千と千尋の神隠しも、上記の読みとつながりながら、読みかえられていく。村瀬の読み方でそれで良いなと思えることがたくさんある。文学者らしい言葉の広がりにおいて宮崎作品を読む読み方、手法がわかりやすい。それは時に飛躍だと思う点もあるが、だから面白い。ガリバー旅行記との対比もなるほどと思った点。すぐに読みおえてしまったが、作品との対応をさせてみたいと思った。 (2004.10.20) |
| Magazine102:公の言葉・会話の言葉 |
『高校生活指導』162号の久田論文が、教師の授業の言葉は公の言葉となっていて、会話の言葉を使う生徒と理解し合いにくいということを言っている。公の言葉は啓蒙的で、会話は親しくないと通じないという欠陥を持つのだと、この両者がであったら通じ合うわけがない。平田の主張に沿ったまとめである。 そこで、一つの価値観に向かって教育するのではなく、それぞれの価値観を付き合わせてみることを授業としたらいいんじゃないとまとめる。対話の奨めと言っていいだろう。 ではどうしたらいいのかというと、生徒の会話に含まれる価値観の違いを引き出す力量だという。 シンデレラ姫で言えば、それを読んだ時の生徒の感想から、「どうして美しいと王子様と結婚できるの?」「掃除に料理をするシンデレラは何故いいの?それをしない姉たちは誰にとってのダメ人間なの?」というような見方を引き出したり、他方で、「お姫様に憧れる人は多いけど、もっと広い世界には何故近づかないの?」というような問いかけを教師ができることかもしれない。 では、この問いかけは何故できたのか?私の場合、それは、96の若桑みどりの本を読んでいたからだが、それを知らなくても、教師というのはできるような気がしてならない。 (2004.10.17) |
| Magazine101:子どもと教師の苦悩と希望 |
見出しタイトルは、教師教育学会の紀要に載っていた久冨論文のタイトル。『日本教師教育学会年報』第13号。 今、評価国家になってきていて、子どもも教師も苦しんでいるという事態に対してわかりやすい対抗軸を出しているように思う。 特に、論文の中に示されている表がわかりやすいと思った。久冨は、「信頼」を確保する方式を三つに分けている。 Aは、専門家支配型 Bは、官僚統制型 Cは、規制緩和・目標・競争型 従来は、AとBでやってきたが、いまはCへと移行しているというわけである。従来のAとBでは、なれ合いや画一的という批判がだされ、Cへと移行しているが、その場合には専門家(教師)のやる気が失われているという。 Cがうまくいっているデータはないのにそれが支持されるのは、従来の閉じられたやり方とは違って、市民が開かれているところに期待しているからではないかという。 そこで、その期待の部分をすくい上げつつ、今進められている評価国家のように基準をつくらされてそれで競わされるのではない方向をだそうとしている。 それは、教師の仕事のレベルでその有効性が増したかどうかを検証することと、子どもや親たちと直接的な対話と交流が困難ではあっても進めていくことだ指摘している。つまり、評価国家のように、単に数値で比較し合うようなことではなく、直接的な対話の機会をつくることだという。 一つの批判方向だと思う。それは、学校評議会制度も評議員制度も、直接対話を抜きにすると評価国家と変わらないと思うからだ。ただ、それでも、教師と親たちとの権限との関係をどう構築するかは相変わらず課題だと思う。(2004.10.15) |
| Magazine100:石原慎太郎研究 |
『ポリティーク』8号(旬報社)の特集タイトル。石原自身の研究というより、あのような人物を何故支持する人たちが300万人以上生まれてしまったのか。そのこととその意識の研究を目的とした本である。 やはり座談会が一番読み応えがあるように思った。 渡辺治のトーンが基調となっているように思われた。それは、首尾一貫せず、論理的には矛盾だらけだし、批判されそうなところからは逃げ続ける石原。政策的にも保守なりの展望も何もない石原。そんな石原を登場させてしまうのは、以下の事情があったという。軍事大国化において当初、国際貢献論を唱えてアメリカに追随する議論であったが、それでは弱いと見なされた。そこで、国連のお墨付きがなくても荷担するイデオロギーとして「強い国家」を主張する石原が担ぎだされ、経済論としても企業に直接投資して競争力を付けるという主張が支持されるようになったのだと分析する。さらに、企業社会による統合の破綻に対応して治安国家と外国人差別などの主張が利用されるようになったというわけである。 上記3点の中、最後の点については、進藤発言が目を引いた。石原は女性差別発言を繰り返して来ているが、それは、女性を労働力として認めざるを得ず、さらに介護や福祉のニーズが高まっているとしても、労働力としては従属的に位置に置き、介護や福祉を公的には責任を負わないために重宝がられている議論なのだという指摘である。 この付近の指摘が重要かなと思われた。 教育については、乾論文があり、その政策の保守主義的性格とエリート養成という新自由主義的性格の混合としてあるということをなどを論じている。 渡辺憲正の「グローバル化とナショナリズム」は言葉の定義の吟味を中心にしており参照に値すると思われる。現代のグローバル化の中でのナショナリズムの発生の仕組みを枠組みとして示している点には、納得できる点も。ただ、この議論のトーンには、少なからぬ疑問がある。 ネーションを近代における経済的政治的共同体と定義しているのだが、そしてそれを「国民」としているのだが、この共同体は「国家」に置き換え可能な規定のように見える。そしてこの渡辺論文における対立軸は、やはり、国家とグローバル企業バーサス国民という構造なのである。具体的人間を想定しない時には成立するのかも知れない対立構造だが、渡辺も言うように国家は 国民なしに成立しない近代の産物である。よって、このあたりの説明は腑に落ちない。 (2004.10.13) |
Magazine99:問題からの工業学習 |
西三河の研究会での報告から考えたことをこちらにも改訂しながらアップ。 小学校の工業の学習について。 1は、教養主義やナショナリズムに汚染されている気配がある。 2あるいは3は、内容分析の側から引き出されたニュアンスが強く、現在的なリアリティを失っていないか。 以上を書いた後、対象は違うが、この主張と論理において同じ主張を先日見つけた。 そして、西三河の訪問者の方が少ないのでこちらにアップ。(2004.10.12) |
| Magazine98:帝国をめぐる | |
|
3ヶ月あまり読みかけだった本をやっと読み終わる。政治論としての<帝国>という発想については、私はそれがいかなる政治形態を提案しているのかについて具体像を読みとれないので、懐疑的である。 ただ、すでに渋谷のような議論に引き取られているように、これを、知的労働ならびに情動や感情に関わる論点から見ると大変興味深い。 それは、かつての労働論がおおむね資本主義の前半期の労働イメージから語られ、説明されているために、現在の労働の主要なもしくは主要となりつつある形態と合わないと思われるからである。 マルクスがそうであったように、綿織物、紡錘などに関連した過去の仕事を時間で計量することは一定の有効性を持ち得たかも知れない。また、現在も部分的には有効であろう。しかし、現在の知的労働、感情労働においては、それはあてはまらない。例えば、休日だから仕事のことを考 |
![]() |
えないということはできない。今日も、駅の本屋を覗いて仕事に関わる本をチェックし、数冊買って家に帰ってきた。しかし、今日は、制度的には休日である。それは、私のような職業に限らない。今やかなり多くの職種が、単純に勤務時間だけ働くということにはなりにくい。それは、未払いの残業とは根本的に異なるように思われる。 昔の労働論のままに今を解説する怠惰は、無力というべきだろう。感情に関わる問題はすでに論じたのでここでは省略。(2004.10.11) |
| Magazine97:前夜創刊号 | |
10月に右の雑誌が創刊された。全部を読んだわけではないが、いわゆる「文化」に力点の置かれた雑誌で、私が読める雑誌の中では類書は少ない気がする。 ブログに触れたように、ノーマ・フィールドの文章は、参考になる指摘があった。その中に紹介されているサイトの中に石山久男論文の英訳もあった。 http://www.japanfocus.org/ このサイトには、アメリカの原爆や戦争に反対する記事が集められている。 ピーター・バラカンの音楽を通じた反戦についての話しは私にはなじみの薄い分野で興味深かった。特に、「日本は音楽を娯楽としてしか認めていない」という指摘が特に新鮮であった。音楽をそもそも多数的に理解している文と受けとったわけである。 目を惹いたのが中野敏男の小熊批判の文章。後半は、細かすぎる話しだったが、出だしのモチーフである「愛国」へのプロセスに関する批判は記憶に留めておきたい。 次号以降も期待したい。(2004.10.7) |
![]() |
| Magazine96:お姫様とジェンダー |
若桑みどりの『お姫様とジェンダー』筑摩新書。 これは、若桑さんの講義録でもあるが、白雪姫、シンデレラ、眠り姫というプリンセスストーリーを読み解いた本である。 基本的には、悪い意味の「他力本願」の人生、女の子の「夢一杯の人生」とは地図のない危険一杯の人生であること、そうしたストーリーがジェンダーそのものであり、そうした社会を男達がつくってきたことを解き明かしている。 例えば、何故、グリム童話が明治の20年代に翻訳輸入されたのかを示しながら、民主主義と対抗する文化の一つとしてジェンダーが構築されたことを示している。 学校や図書館にある上記のプリンセスものを読む時には、若桑の分析は知っていて損はないだろう。こうした絵本を解毒する観点を持ちたいものだ。 アニメを見ながら崩壊する学生達の人生設計を前に、若桑さんは、「エバー・アフター」を共に見たという。この映画は、ある王国の王系に連なる老婦人がグリム兄弟を呼び出し、シンデレラの話は間違っていると言うところ始まるのだそうな。そもそも、ガラスの靴はスリッパみたいなもんで、誰だってはけたんだというらしい。姫に助けられ王子、何故王子がシンデレラに惚れたかの「真実」が明らかになっていく。こうしてシンデレラの話が如何に間違っているか等々異なるストーリーが展開していくという。 私はこの映画をまだ見てない。ぜひ、探してみてみようと思う。 探しました。今年の11月下旬にDVDとして発売になり、従来の半額で購入できるそうなので、予約注文をしました。(2004.10.5) |
| Magazine95:自分の言葉(二点間の距離の不等性) |
「自分の言葉で語るように!」としばしば指摘される。この言葉に、後から来た者は途方に暮れる。言葉はどうしても先にあり、すでに流通しているからである。これをどう変えろというのか。本当に困ってしまう。 「先に与えられているから、だから変えなさい」と追い打ちをかけられる。使い方を変えてみると、「それは間違った用法だし、意味を取り違えている」などと言われてしまうこともある。ますます、自分の言葉なんてどこにも探し当てられない。 それでも与えられた言葉=通常使用される言葉が、自分の述べたいこととずれていると思われることが時々(多々)ある。これがチャンスなのかも知れない。例えば、「ホームページ」という慣習化された言葉。自分のサイトにも何も考えずに使い始めたが、そこを「ホーム」だと思ったことが一度もない。当たり前だが生家なんかじゃないからだ。ふと気になった日があった。それで、各ページの下に書いてあった「ホームページに戻る」を「トップページに戻る」に変えたのである。しかし、トップのタイトルそのものはアイデアがないので慣習に従ったままとなっている。(情けないほどの想像力の欠如) あるいはまた、「複数性」という言葉。これも誤解を与えることを承知でとりあえず使用している。個体が二つ以上あるニュアンスには違和感がある。多様性とも違う。多様性ではそこに一貫しているニュアンスがあって私の主観と合わない。そんな言葉がいくつかある。 そこで、とりあえず、私は「与えられた言葉」に自分の主観をプラスする。主観をプラスして対話相手との距離を計り直してみる。対話の後に、「与えられた言葉」によって生まれるはずの距離と、主観をプラスした言葉によって生まれた相手との距離が違っていたら、「自分の言葉」なるものがそこに何ほどかあるのかも知れない。この場合難しいのは、自分から見た距離と相手から見た距離は同じ長さではないことだ。しかし、だから対話は続くのかも知れない。(以上も書評なのだが元の本の論旨とだいぶずれているので、本のタイトルは取り下げ) (2004.10.2) |
| Magazine94:花 |
| トップページに書いた秋の桜。 先日の台風で、花の数が激減してます。しかし、秋の桜も順番に咲くようですから、またしばらくすると花の数がいくらか増えることでしょう。秋から初冬にかけて咲く桜が名城公園には4・5本あるようですが、この木が例年一番たくさん花を付けます。 今公園は、花の端境期なのか、予算の問題なのか、種類も数も少ないようです。しかし、銀杏の実も落ちてますし、椎の実も少し落ち始めたようです。
|
| どう見てもショウガに見える植物の先に白い花が咲いているのを見つけたのですが、昔見た実家にあるショウガの花とは違う気がします。 多分、まったく違う種類に違いありません。 時に、走るだけでなく、見るつもりで歩くこともしたいと思いました。 |