2004年12月2日 (木)
Magazine117:大人なんかこわくない |
赤川次郎『大人なんかこわくない』岩波書店、480円+税金。 この本は読みやすい上に、重要な指摘がいっぱいあると思えた。 例えば、作家は「坑道のカナリヤたれ」と指摘し、赤川自身もこんな時代だからこそそうありたいといっている。このカナリヤは、迫る危険を真っ先に警告する人という意味。その見地から、俵万智が政府のいくつかの審議会委員となっていることを批判している。作家たるものそんな委員を引き受けるべきでないと主張している。 また、死刑制度や人権問題において世界から尊敬されない日本が、3人の人質となった人たちのおかげで尊敬される可能性が生まれたことを指摘し、これに対して「自己責任」等と言ったために、再び尊敬されない国になっていると、強く批判している。 あるいはまた、東京都の日の丸君が代の強制を批判し、歌わない教師をチェックしにきたような人は時代が変わったとしたら、真っ先に日の丸君が代のない卒業式をしているかをチェックしにくるに違いないと、痛烈に批判している。 さらに、運河に柵がなくて人が落ちてなくなったとしても、そこに柵を作ってしまったらその危険がわからなくなるといい、生きていくということはそういう危険を引き受けることなのだとも指摘している。責任転嫁のための柵をではなく、そんな危険を引き受けているのが大人で、そんな大人をみてこそ子どもは育つのだという。 そして最後に、現状は変えられるという希望こそ大切だといって締めくくっている。 赤川次郎の生い立ちについては10年以上前に読んだことがある。単に売れっ子作家というイメージをそのとき変えさせられたが、社会的視野を持った作家であることが本書によっていっそう明確になった。(2004.11.30) |
Magazine116:正解主義と創造 |
重松清の『スポーツを読む』を立ち読みし、秋本治の『両さんと歩く下町』も立ち読みし、結局、『デモクラシーの冒険』とハーバーマスの『他者の受容』を買った。 そして今朝、淺野さんのHPを開くと見出しに関係のある共感することの多い文書が載っていた。 『デモクラシーの冒険』のモチーフは、同じテッサが対談しているので、無力感といかに闘うかというものだと思う。 この点で、正解主義は無力感に通じ、創造は効力感や存在感に通じると思う。正解主義は正解に至らないことが無力感を生み、より本源的には正解であったとしてもそこにあるのは自分自身を欠いた記号だからである。 正解主義は、権威主義だが、同時にそれは自己否定感の固まりでもある。自分なりの感じ方は信じられない取るに足りないものであり、権威あるとされる人の正解はそれが何であれ信仰できるのである。 これに対して、創造は、自らの認識と感情をそして意思をプラスした行為の結果である。それは、他にはないが、他者とつながった認識や被造物がある。 デモクラシーの冒険について書こうと思ったのに変わってしまった。 (2004.11.26) |
Magazine115:学校と地域がつながる |
|
生活指導の12月号の特集が、見出しのタイトルである。 三つの記録を読みながら、特集タイトルの「地域」という時、それは何を想定しているのか、どうもはっきりしないと思う。それぞれの執筆者が何を考えているのかは、だいたいわかる。しかし、それは地域なのか?という疑問が私に湧くという意味である。実は、ずっと昔から、「地域」という言葉はどうも曖昧で、それで何が捉えられているのかについて?を抱いてきた。昔、上原専禄が地方と地域を区別したのであるが(空間概念ではなく、社会的概念として定義した)、この定義は意外に重くて、私にはコミュニティとしてのあるまとまりがないと「地域」と考えにくいと思うようにさせられている。だから、単に人が生きているというのでは「地域」ではない。あるまとまりの共同体において、地域の人々が互いに意識化されている場合に「地域」なのではないかと考えてしまう。私は、そういうイメージをどこかに持っている。 この基準を当てはめると、村瀬さんの記録の赴任当事の状況の記述は「地域」という条件に合致する。しかし、それ以外は、どうも地域の話題ではあるが、地域なのかという疑問が湧いてくる。 現代では地域という言葉で捉えることがそもそも難しい時代なのかも知れない。記録に登場した人は紛れもなく地域の人なのだが、コミュニティ的な地域をどう創っているのかという問いに対する答えとして、その地域のその人の世界で止まってしまうようなそんな感じがどこかにするということなのである。地域とつながると言わなくても、例えば「大人とつながる」といっても教育実践としては成立しそうなのだ。そういうつながりだったとしても教育実践としては十分に有意義なのだが。 だとすると、上原的な単一的な地域が存在し得ないあるいは存在しにくいとすれば、上原的なものを変える必要もあるのかも知れない。いやそうではなく、地域教育実践を再構築する方向を追求する可能性もあるのかも知れない。まだ、断定はできない。しかし、この感じは書き留めておくに値すると思う。 このもう一つの可能性は、地方という意味でもなく、上原的な意味でもないものへと変えていく教育実践を追求することである。まだ、名づけもできない。こんなこと原稿には書けないけれどネットなら書いてもいいでしょう。(2004.11.23) |
| Magazine114:新しい近現代史研究へ |
総研大日本歴史研究専攻国立歴史民族博物館『歴史研究の最前線Vol.3September2004新しい近現代史研究へ』吉川弘文館、2004。長い編集主体と長い本のタイトルだ。 こんな本を読んでる場合ではないのだが、数日前に安田常雄論文を読もうと思って買ってしまった。今日が原稿締め切りで、来月締め切りのものもいくつかあるというのに。 買った理由は、民衆史研究をネグリとハートの『帝国』との関係で話したものが含まれていたからである。そこには、戦後の民衆史研究の動向というか弱点ー例えば、民衆を特権化したり、単一的に理解する傾向を批判的に受け止め、『帝国』の提起した多数的なものの多様性において捉え直そうという思考がそこに読みとれた。 特に、安田は、主体というものを捉え返そうという意思を持っていると読んだ。だから、このMagazineにも記したことのある大塚英二のおたくの研究などが取りあげられ、そこに示された主体の把握の仕方の戦後的変化を読みとろうとしているように思われる。 原稿書きに戻るために、短すぎだけれどもおしまい。(2004.11.20) |
| Magazine113:ネット王子とケータイ姫 |
|
この本は、香山リカと森健、中公新書、700円と税金。 はっきり言って、香山の書いた部分の文章はいい。森は、いまいちというかダメ。文章のうまさというのではない。内容的にである。森は、始まりは問題を提出していくのに、それをどう見るか、どうしていくのかというところに来ると、常識的なラインへと落ち込んでいく。 それは、最後の提言を二人がそれぞれ提出しているが、そこに明確な差となって表れている。 例えば、森は、「パソコンは家族の目が届く場所に設置する」などという。香山は、「子どもとネット、子どもとケータイについての専門家、企業、役所の発言は、まず疑ってかかれ。」という。どちらも第一番目にあげられている提言である。 どちらが重要な提起をしているかは明瞭だ。香山に決まっている。その他の提言でも、森は平凡というか保守的な要素を内蔵させている。香山の方が説得的。 巻末に各国のメディアリテラシーの現状が一覧表となっているので利用できることがあるかも知れない。 本のタイトルよりも、この本の前半の記述で同意しながら読んだのは、「ウソ」「デマ」も言った者勝ちという状況があるという指摘だ。それを「ゲーム脳」を例に指摘している。この提唱者森昭雄の主張がまったくでたらめであることが指摘され、その道の専門家は見向きもしないのに、世間には広まっているという指摘である。読者、視聴者のニーズにあった情報を提供するという見地からマスコミが情報を流すと、「ゲーム脳の恐怖」のようなことが起こってしまうというのである。見たいものだけを見せ、見たくないものは見ない、というわけである。ちなみに、以下にゲーム脳という議論がいかにインチキであるかを指摘した斉藤環の文章が収録されている。見出しのマスクに驚くことなく見てほしい。http://www.tv-game.com/ (2004.11.17) |
| Magazine112:外国人の定住と日本語教育 |
田尻英三・田中宏・吉野正・山西優二・山田泉『外国人の定住と日本語教育』ひつじ書房、2000円と税金。 最初の章は、ひたすら参考文献の紹介である。日本人と日本語についての文献、外国人定住問題、日本語教育関連文献が並ぶ。これは便利。 田中論文は、在日外国人の現状を提示してくれていてこれまた便利。登録外国人数などは知っていたのだが、外国人児童・生徒数については知らなかった。2003年度、文科省が掴んでいる小学校・中学校・高校における外国人は、76,349人。法務省の統計では、203,606人。年齢区分が同じでないために単純比較はできないが、それでも、3倍近くの差がある。不就学の子ども達が大量に存在することを示してる。 吉野論文は、外国籍の人たちの持つ権利について解説されている。その権利がいかに保障されていないかがわかる。日本も批准している国際人権規約を政府も国民も遵守していないことがわかる。例えば、それぞれの言語や宗教を尊重される権利など忘れられているといっても良いだろう。 山西論文と山田論文は直接教育に関わりを持っている。参加型学習、未来志向型教育、日本生まれの外国籍の子どもの言語習得の問題など、多文化教育についての現在的問題がわかりやすく示されている。パイクのグローバル教育にも論及されていて、一部は講義で取りあげようかなと思った。(2004.11.14) |
| Magazine111:憲法九条、いまこそ旬 |
岩波ブックレットNo.639、480円+税金。「九条の会」の集まりでの発言を本にしたもの。刊行されたと言うことは先日ブログに書いたが、そして、この本の中の一つのキーワードが希望ということだと思ったので、それに関連することを記していたのだが、直接本に関わって明示しておこうと思う。 大江健三郎は「希求する」という見出しを付けて、憲法に関わって発言している。澤地久枝は、「絶望するには早すぎる」と見出しを付け、鶴見俊輔は、本文の中に、自分の力はささやかだということを認めて、その上で何ができるかを考え、できることをと呼びかけている。そこに希望があると言っている。 こうした九条の会のメンバーの多くに共通するのは、希望を育てようという意思であるように思われる。そのように言わしめているのは、前にテッサの本に書いてあった人を無力感へと誘う力が強く働いているからだ。その際、別の動きも本当はあるというテッサの指示を参照すれば、マジョリティとなっているマスコミに載らない情報を探す力が必要ということになるだろう。 この本の中には、希望へと連なるものの見方、知見が短い文章ながら詰め込まれている。是非読んでほしいと思う。 ところで、大江が文体というものについて、「テクストを書いている人が、どういうときに書いているか、どういう気持ちで書いているか、そして、どういう読み手に向けて書いているか、その三点からくるもの」と記している(12頁)。大江の文脈は、憲法と教育基本法が、戦後で、平和と民主主義を願い、同じ気持ちを持つ人に向けて書かれたのだ、と連なるわけである。その文脈とは離れて、自分の文章や日本語教育論としてふと思うことがあったということも記しておきたい。 (2004.11.11) |
| Magazine110:親密圏のゆくえ |
のぞみの往復やJR各線の中で興味を引いた論文は読み終えた。(半分くらいの論文) 唯物論研究協会編『唯物論研究年誌第9号親密圏のゆくえ』青木書店。3500円と税金。 当然、特集に直接関連するものを見たわけだが、佐藤論文は、親密圏についてフェミニズムの側から暴力圏として批判されてきたことを承認し、しかし、だからといってその親密圏なしに人が生きられないのではないかという方向で議論する。そこでは、親密圏というものと家族というものをイコールで結ぶのではなく、家族なるものも多様な形があるように、それらとどこで区別されるかはともかく、多様な親密圏を新たに生み出すこと、そういう方向が探求される。 誰とどのような関係をとるかという関係域が存在し、その関係のあり方を脱構築しようと言うわけである。しかも、それら親密圏と公共圏とが切り離されるのではなく、接合するように構想しようというわけである。これは、フェミニズムからの批判があったとして、その親密圏を社会的問題に還元できないという観点からの提案だと思われる。 もう一つ面白かったのは、佐藤春吉の「ハンナ・アーレントはなぜ見直されているか」という論文。アーレントとマルクス主義の関係についての読み方が提出されている。現代の多くの唯物論研究者が認めるマルクスの弱点をアーレントがついていたことを承認しながら、他方でアーレントの労働蔑視などの問題点をアーレント論者に即して示し、最後に、佐藤論文批判を長く書いている。 汐見インタビューは、なじめなかった。 (2004.11.8) |
| Magazine109:世界の学校評価 |
教育関連本が少ないので、昨日今日で読んだ本を紹介し、教師評価や学校評価にムッときている人に参考文献としてあげておきたいと思った。 木岡・窪田編著『学校評価のしくみをどう創るか』学陽書房、2500円と税金。 念のために言えば、これは、本として優れているから買ったのではない。ニュージーランド、イギリス、アメリカ合衆国、ドイツ、フランス、それに日本の学校評価の紹介があるからというだけである。コンパクトな情報本といったところである。考察としては面白い部分は少ない。 前三つの英語圏の国と、独仏とには大きな開きがある。それらと日本にも距離がある。 英語圏はNPM理論の影響が強く、業績主義と外部評価による競争主義という色彩が強い。もっとも、紹介文によると、単純なNPM理論の適用を修正し始めているという。また、日本で始まっている微細な評価項目づくりとは違っている。さらに、教師の自律性が他方に存在していることも無視してはいけない。このことも確認しておきたい。素人の評価と専門家(日本のように単に管理職が評価するというのとは違う。それなりの学識とトレーニングを受けた人が担当する。)の評価がキチンと区別され、日本のように乱暴な評価(今のところそれをしようとしているのは、首長、素人の教育長、素人の教育委員、それに評価素人の校長。彼らを念頭に置いてここを書いている。特に東京都を想起して欲しい。)をしているわけではなさそうだ。先日は、文科大臣がひどい方針を打ち出したらしい。(「上司は思いつきでものを言う」の典型かも知れない。) 独仏は、教師の自律性あるいは支援体制をつくることを目的に学校評価を行っている。学校間競争や教師間競争を目的にしていない。この違いは大きそうだ。 一番後ろに国ごとの一覧表が上がっているのでちょっと便利。 (2004.11.6) |
Magazine108:シノプティコンと全体主義的個人主義 |
|
前に期待ほどには面白くないと書いた点は、撤回しなければならない。部分的には前に述べたとおりなのだが、3・5・7・8章は、私には面白かった。それとあとがきも。 テッサ・モーリス・スズキ『自由を耐え忍ぶ』岩波書店、2004年。2000円と税金。 フーコーによって取り出され有名となった一望監視システムとしてのパノプティコン。これは、少数者である看守が多数の犯罪者を絶えず監視することによって、監視の眼差しを犯罪者自身が内面化し、自己規律としていってしまうという話しであった。 これに対して、シノプティコンというのは、多数者が少数者を監視統制するという話しである。リアリティ番組(日本でいうと、ロンドンブーツがやっているような番組で、一人の素人が多数の素人によってはめられ批判されていく番組の類。)を通じて、何が「普通」で「正常」なのかを示され、それに沿ったものは賞賛され、そうでないものは罰せられていく。そういう仕組みがつくられているという。この論理、あるいは枠組みは興味深い。現代の個人を統制する仕組みとして参照に値する議論だと思った。 後半の章に、1100万もの人がベトナム戦争を越える規模で米英のイラク戦争に反対したが、これを米英ならびにそれを支持した国の政府首脳は無視した。この無視によって生まれた事態を「無力感」だとテッサは言う。しかし、それは、市民の側に原因があるのではなく、別の可能性も広がっているのだという。 一つは、自由市場原理主義が広がっているが、市場はそこに回収され得ないという。いろんな市場があるのだというわけだ。エイズ薬の特許を認めないブラジルや南アフリカの政策等、いくつかの事例が示される。 二つには、自由原理主義は国家と癒着を強めているが、企業や国家そのものの監視こそが今ほど必要となっている時はないと指摘する。エンロン、日本の銀行などの例が示される。これは、個人の監視を強める国家・企業連合体に対する強烈な皮肉となっている。 |
| 話題が変わるが、自己責任ということが指摘されているが、これをテッサは、個人の利益の最大化を自由に追求できるようにすることを保障する中で生まれているイデオロギーと見る。それで、人質となった個人批判を強めたりしているが、米英や日本はイラク戦争最大の理由であったはずの大量破壊兵器の不在にもかかわらず、そして多くの人間を死に追いやったにもかかわらず、その「自己責任」を果たしていないと批判する。 |
| (2004.11.3) |
|
Magazine107:イラク「人質」事件と自己責任 |
香田さんは、残念ながら殺害されてしまった。そこで、4月7日に拘束され、4月15日解放された3人の記録を読み返した。読み返した理由は、解放の理由と自己責任論への基本的な批判の観点を確認しておこうと思ったからである。 本は、佐藤真紀・伊藤和子編『イラク「人質」事件と自己責任』大月書店、2004年、1200円+税金。 さて、解放の要因は、市民団体を中心に、イラクの宗教指導者、報道機関、人質となった人と関わりのあるイラク人・孤児達に解放を訴え、彼ら・彼女らが解放のために働きかけたことが一つ。二つには、日本国内ならびに世界で解放に向けた行動とアピールがいくつも展開したこと。三つには、3人、とりわけ高遠さんのイラクでの活動実績が確かめられたこと。 逆に、役に立たなかったのは、政府。彼らは、犯人側への有効な接触ができなかったばかりでなく、彼らの心情を逆なでする発言を繰り返し、3人の生命を危険にさらした。 こうした事情が政府関係者、イラクの関係者と接触を持った人々の記事から読みとれる。 他方、自己責任論についても、ジャーナリストなどの政府関係者の動静取材と発言情報から何故それが広められたかがわかる。それは、何より、イラクへの自衛隊派遣が引き起こしたこの人質事件によって、政府の米国追従・自衛隊派遣政策への批判が増大することを恐れてつくり出されたものであること。 政府と政府系ジャーナリズムは、渡航自粛要請を出していたのにとか、税金の無駄遣いだなどと3人やその家族を批判した。 しかし、自己責任とは、郡山さんらは、イラクで起こっていることを伝えることこそ自己責任であること。彼らのような存在なくして、報道管制の引かれた中で本当のことは伝わらず、本当の支援とは何かも伝わらないこと。自衛隊が派遣される前から彼らは活動をしていたのであって転倒した議論であること。日本政府と政府系ジャーナリズムの自己責任論は、自国民の安全を守ることを行政の基本とする近代国家の観点から見て国際的にも通用しないものであること。そんなことが具体的に示されている。 今回の香田さんの場合には、誘拐組織が前の時と異なっていたこと、市民団体などは動き始めたが治安の悪化が4月より深刻となっていたこと、政府は相変わらず役に立たない発言を繰り返したことが重なって、残念な結果となったように今のところ判断される。 イラクからの撤退の声を多様に挙げること、「人道復興支援」の中身を捉え返すことが大切だと思った。 (2004.11.1) |