2005年1月2日 (日)


Magazine128:勝ち組の自立 

 先日、話す予定を立てたのに、時間的に無理で話せなかった渋谷の議論について記しておきたい。

 鵜飼哲と佐藤真の対談に期待して買ってしまったら、渋谷の短い論文を見つけた。それは、「<自立>への封じ込め」『InterCommunication』No.51、NTT出版。1400円。

 いま、自立とは勝ち組を意味しているという。新自由主義はミドルクラスの主体を称揚したが、それは福祉国家を解体して、福祉国家に依拠しない主体を創ろうとした。しかし、その主体の「自立」は勝ち組を意味するだけだという。そんな趣旨の文章で始まる。

 そうだとすると「自立」の目的は何かという問いに応えられないために、道徳的な答えを用意するようになったというのである。その答えが「企業家精神」。そして、市民参加、社会参加、やがて社会への忠誠へと連なって行くというのである。自立、企業家精神、市民参加・社会参加・社会への忠誠(最近保守が使う言葉で言えば「公」(おおやけ))という言葉が頻繁に使われるようになっているが、それがグローバル化と連動する説明として説得力を持つように思う。アイデンティティ論的な意味づけとは違った角度の指摘として注目しておいていいと思う。

 そこで、渋谷は、例証するために『心のノート』批判を展開する。道徳を条件とした福祉や政治に見られるように、道徳が近年盛んに持ち出されてくるのだが、「感謝の気持ちを持て」というその道徳は反知性主義そのものだと指摘する。(昔から、道徳は反知性主義であった。宇佐見寛による「道徳授業」批判、藤田昌士による批判が有名)「感謝する相手をさがそう」と「心のノート」は呼びかけるが、感謝というのは負い目の裏返しであり、だからまた改めてさがすようなものではないと鋭く指摘する。

 しかし、さがしてこられる感謝の対象には「愛国心」が挿入されることになっているが、それへの負い目というのは捉えがたい。そこで、国家によって生かされているという脅迫によってそれを調達することになる。そうなると、自立ということと矛盾する。自立は何かによって生かされているというのではなくて、自らが生きていくということだからだ。他者と関わりながらであれ、社会の中でであれ、個人は自ら生きていくから「自立」なのである。こうした矛盾を現代の勝ち残りとしての自立は抱え、新自由主義は抱えているという議論である。

 かなり飛ばしながら私の関心から要約してみた。これをさらに私の領域へ取り込めるようにかみ砕くそんなことをしてみたい。そう思った。今年課した宿題の一つに入れておきたい(宿題は未提出ということもまたある。だから宿を出ることができない)。

(2004.12.28、29) 


Magazine127体育・健康教育の教育課程試案

 ずっと前にここに取りあげると浦商の平野さんに言っていたのにのびのびにしていた。就学前の記録でつまずいていたのである。思いが先行して何をしたのかが読みとれなくて、止まっていたのである。そこを過ぎたら、徐々に読み込めるようになった。

 本の正式名称は、学校体育研究同志会教育課程自主編成プロジェクト/編『教師と子どもが創る体育・健康教育の教育課程試案2』創文企画、2200円と税金。

 どんな実践・教材をどのように進めたのかこれがまず先に示され、その後で実践のポイントや意味が解説されていく。このプロジェクトの1が過去の実践と理論を整理する観点から執筆されていたのに対して、そこで示された実践のイメージを広げ、教育課程を教育実践像の形で示そうとしたものがこの本ということのようだ。

 全員が見学という状態から始まった水泳指導。これを怒り出さずに教師の意地を貫き通して徐々にバタフライを習得させていく実践。ここだけ読むと、強引な体育教師にありがちな迫り方をしたのではないかと読まれそうだ。しかし、そうではない。

 解説の平野さんがうまく表現しているが、「実感を伴う『希望』をもたせてくれる体育の授業」が必要で、それは自然に、不意に、密やかに彼女らの前に提出されねばならないと言う。

 何というこの矛盾した表現!

 しかし、実践にはこの矛盾した表現に込められた「熱」と機微がないとだめだろう。こうした解説も身体の教育を課題としているためにより多く出てくる。これも面白い。

 最後に、平野実践が学びの主人公づくり、学校づくりについてまとまった論考を記していることにコメントをしてみたい。その中で一番重要だと思ったことは、学校づくりや学びの主人公づくりというとき、生徒の心身の解放される場所を創ることだということを強調している点だ。個別の教科内容として何が重要かと考えている間はダメだったと記している点である。生徒に「○○をしてあげる世界」を越えていくことが必要だったという指摘である。

 この本を、苅谷たちの本のすぐ後に取りあげた意味は理解されただろうか。苅谷たちの描く世界からみるとどうにも否定的な子どもたちに寄り添う教育実践世界がそこにあると思われたからである。また、学びを豊かに創る方向が、そこには示されているように思われるからである。(2004.12.26)   


Magazine126学力の社会学

 奈良教育大学の生協の新刊コーナーに見出しの本があった。苅谷・志水編著『学力の社会学』岩波書店、3200円と税金。滞在中と帰りの電車の中で読んだ。

 これまでに、苅谷たちのグループがすでになんどか発表してきた学力調査とその分析をまとめた本である。十数年前の学力調査とほぼ同じ問題と、ほぼ同じ学校での2001年と2002年調査を比較して論述したものだ。ここで、「ほぼ」というのは、外形的に「ほぼ」同じということである。実施校数は後で行ったものの方が2から3割少ない。学習指導要領が変わって取り扱われなくなった内容もいくらかある。地域的な変貌もある。そうした制約はある。それでも、まとまって資料を出そうとしている点は、一面で大切なことだと思う。もう一面では、こうした研究がテストを増やしているという否定的側面もあるとも思う。(データを示して政策や方針を出せという彼らの主張が学校のテストを増やしているとも言えるだろうから)

 この本について、いくつかの批判的意見を記しておきたい。一つは、この本では学力を「ペーパーテストの結果」としている。そこに限界があるとかいうのだが、結局、それを『学力』として変換していく。そういう限界があるといいながら、その限界が後の分析では、やはり忘れられていっているように思われる。結局、いうところのペーパーテスト結果の低下が学力低下として判定され、教育政策の失敗、学校の失敗として判定されていく。それがすべてでないといいながら、どうしようもなく重大な失敗であり、ペーパーテスト結果の向上をもたらす政策が大切だということを前提とした議論へと収束していく。

 学力におけるジェンダーという章もあって、見出しとしては注目したのだが、内容的結論としては、私にとっては「はずれ」という印象を持った。学校期待におけるジェンダーが学ぶことの意味の低下を女子生徒に顕著にもたらすというすでにわかっていたことを指摘しているように見えるからである。

 さらに、序章では、伝統的な授業と新学力観型の授業の違いがこの調査の分析によって初めて明らかにされるかのように記してある。しかし、その分析の章では、124頁前後に、確証データは得られなかったと記してある。あるいは記さざるを得なかったという方がいいのかも知れない。これは、執筆者が違うから仕方がないということかもしれない。しかし、本質的にそうした違いを分析する視点が、分析者にあったのかどうか、こうした類の調査で本来可能であったのかどうか、疑いの眼差しが私にはある。

 もう一つ。だから、もっと異なる学びの世界は、この本からは生まれない。この本とこの本の執筆者たちの多くにとっては、社会的下位の階層の暮らし方・考え方は、克服されるべき対象だ。学力の形成に失敗する階層なのだ。社会がそうなんだからそれを否定したらどうにもならんだろうという、そういう傾向と志向なのである。別の暮らしかた、生き方、そして学び方を考えながら、私としては時を過ごしたい。(2004.12.25)


Magazine125:授業研究について その2

 いろんな授業研究の動向があると書いたので、まずその一つを批判的に紹介しよう。

 それは、学力低下論が相変わらず広がっている中で、それを育てる現場を見てみようという趣旨から作られた本である。寺崎昌男編『本当の学力が育つ達人の授業』東京書籍、1500円と税金。

 寺崎が企画の中心だろうが、この本の趣旨を次のように述べている。学力低下を問題にしている人たちは「授業を見ないでものを言っているのではないかという気がしてならないのです。中略。どう指導していくことが学力につながるのか。」(179〜180頁)

 これをベテラン教師の授業を見ることで検証しようというわけである。

 ここに示されたような動機も授業研究に向かわせる一つとして確認していいだろう。

 この出版社の賞を受賞した教師が自身の教育論を語り、その教師に関わりの深い研究者がコメントし、最後に座談会という体裁の本である。そういうバイアスがかかってはいるが、それなりに実績のある教師たちだ。当然、私の見地からは、賛同できる点の多い今泉博のような人もいれば、賛同できる点の少ない掛川克義のような人もいる。

 問題は、授業研究の内容である。その点では、関連の深い研究者の持論が語られている印象が深い。その際、個別の授業を問題にして議論していないので、意見はかみ合っていない。これは残念なことである。企画者は授業研究を専門にしてきたわけではないので、こうしたやりとりになるのかも知れない。その意味では、授業研究そのものとしては今ひとつの深まりに思われる。

 しかし、個別教師の発言には耳を傾けるべき発言がある。

 例えば、今泉は「教えたいことを教えない」という。これは、少しフレーズが違うのであるがよく似ていることを私の指導教官であった吉本均もしばしば指摘していた。言葉の起源を確かめたわけではないので個人名は控えるが、この言葉は本当はより長い歴史があるらしい。吉本は、「教えたいものは教えてはならない。学びたいものにしなければならない。」と言い続けていた。

 こうした歴史的なフレーズと一致する発言なのである。その中身についてはまた。

(2004.12.19)


Magazine124:自由な心
 本の紹介なのでブログから移動しました。売り上げの一部はユニセフを通じて子どもたちのための活動にカンパされるようです。どの辺にどんな援助をするつもりなのか、もう少しくわしいともっといいと思われます。しかし、なかなかいい本です。

 ユニセフから刊行された本の中に、それは本の帯にも使われているのだが、次のような一文がある。

  「生きている」ということは、
  “命がある”ということではなくて、
  “自由な心がある”ということだと
  思います。            絵梨佳/17歳

 自由な心とは何だろうと想像する。
 囚われていないということもあるだろう。
 囚われているという自覚ということもあるだろう。
 闊達に関心が外へ向いているということもあるだろう。

 さらに、具体的な事柄で考えると対話が始まりそうだ。

 この本は、『生きる、って何?戦争はなぜ起こるの?』主婦と生活社、1200円と税金。
 一つのテーマに子どもたちのいくつかの意見が載っている。なるほどという意見が多い。見方の違う意見が紹介されていて、討論の誘い水となりそうな気もする。

(2004.12.17)

Magazine123:話して考える

 これは大江健三郎『「話して考える」と「書いて考える」』集英社、1470円。

 この本は、講演の記録である。この本には、二つのキーワードがあると思った。一つは、書いて考えることの意味。二つには、窮境という言葉である。だから、最初の講演では、中野重治の文章を読むことで、そこに書かれたものからなにを読みとっているかが示される。講演としては、別の意図があったであろうが、作品を通して考え・受けとったことが大江の読書体験に即して示される。

 それで、「タスマニアのウルフは恐くない?」では、現在の話し言葉全盛の時代を批判し、書き言葉の優位性を回復しなければならないと明確に記す。話し言葉優位の象徴としての新聞の書評の頽廃を挙げたり、別の文章だが、曖昧な話し言葉によるトリックを中曽根の「国家」や「伝統」という用い方を例に批判的にしるす。

 私は、それに賛同しつつ、長い前口上の終結部に紹介されている大江への批判ーつまり、書き言葉の優位性の回復ということでいいのかーにも同意できてしまう。私なりに言えば、書き言葉の回復が必要だとして、なお、「話し言葉の救済」も必要ではないかと思われるからである。このあたりへの批判意識は、大江の教養主義的臭いと連関しているかも知れない。

 子どもの本を大人が読むということについて、リリーディングという考え方を紹介している。子どもの時には文章の流れにしたがってどきどきしながら読むが、大人になって読むときには、作品の世界の論理にしたがって読むということがあるという。その意味を、世界がよりよくつかめるという趣旨で記している。

 これは、自分自身に置き直しているのだろう。つまり、自分の生きてきた時を、その筋道を知っていて、問い返しながら、意味づけ直しながらその体系的な意味が見えてくるのではないかと言っているわけである。

 最後の講演は、9条の会での話し。ここではとりわけ、窮境がキーワードとなる。いま、9条など窮境にあるが、それらの条文が大江の世界を広げるものであったことが語られている。書くこと話すことの再考としても、9条や教基法関連においても読んでおきたい本だと思う。(2004.12.16)


Magazine122:弱者の方法

 取り立てて記しておきたいのが、弱者の方法。

 私にとっては、三つの契機がこれにはある。

 一つは、城丸氏の指摘、ずっと前に、武器を持たずにたたかうということなど侵略される側の闘い方について論じていたとき、自国の領土内でたたかうという手法に引っかけて「弱者の方法」なのだということ、そういう覚悟のたたかいがあるということ、さらに最近真っ正面からのつまり例えば裁判闘争のような(語弊があるでしょうか、それはそれで重要なのですが。)闘い方だけでないやり方も弱者の方法だという趣旨の発言をされていた。

 二つは、フーコー。反乱はどこから起こるのかわからないという指摘をしていた。

 三つは、フーコーの論敵でもあり、10月9日になくなったデリダ。たたかいの地点をあらゆるところからという趣旨のことを指摘している。

 昨晩雑談の中で言ったのだが、それは、決戦をしない。決戦をしたがるグループが左右にあるが、決戦をして敗北したら終わってしまう。決して終えない。別の地点を捜す。それが弱者の方法。より有効な方法はどれか議論はあっても、唯一の方法にしないこと、それが重要なように思う。

 3人は、ひどく違う点もある。にもかかわらず共通の指摘と読める部分を持っている。興味深いことである。

 この話題は、『現代思想』のデリダ追悼特集を眺めながらまた思い至ったことである。先月末締め切りの私の原稿にさらっと一言触れた。

 (2004.12.13)


Magazine121:ヴィゴツキー心理学

 中村和夫『ヴィゴツキー心理学』新読書社、1200円と税金。

 この本は、ヴィゴツキーの本来の論述や意図に即して、すでに生まれてしまっている誤解を解くことが一つの課題とされている。もう一つは、その研究からさらに発展させるべき課題を提出することが目的とされている。丁寧に、しかし、多少ヴィゴツキーをかじったものならわかるように記述されている。

 中村が解こうとした誤解の一つは、「発達の最近接領域」という概念の意味である。誤解とは、子どもが次に理解する文化領域という意味で把握する見解である。中村は、そうではなく、次に続く子どもの発達の領域なのだと指摘する。だから、最近接発達の領域という訳語が正しいというわけである。

 また、最近接発達の領域の意味を、教育の主導性を意味するものとして理解する傾向があるが、これも不正確な理解で、科学的知識の体系的な教授と子どもの思考の発達との関係を指していたことを力説する。誤解ないように述べなければならないが、個別の科学的知識の教育における教育の主導性を言っているわけではない。思考の発達(階梯)過程における、その筋道に関わって議論しているのだということである。科学的概念がどのように発生し、発達していくのかということであって、ここの知識の教育における科学性やその体系性を議論しているのではない。

 だから、中村は、「ヴィゴツキーは、科学的概念は子どもに覚えられるものでもなく、暗記されるのでもなく、記憶によってとらえられるものでもないと指摘し、科学的概念は既成の形で子どもに直接的に習得されることはできない、と批判している」(21頁)とまとめている。

 もう一つは、内言の発達に関する論述で、必ずしもこれまで十分に展開されてこなかった議論である。そもそもヴィゴツキー自身が詳細に議論したわけではないが、これを取りあげ研究課題を提出している。科学的概念もいわば内言として発達するわけであるが、これが他の概念と混同したり、変化していく仕組みを原理的に考察している。この考察で注目すべきは、科学的概念と、イメージや感情・情動との関係を指摘し、それがあるが故に発展することを指摘している点である。感情は、外的・身体表現と結びつくだけでなく、イメージと結びついた内的な心理的過程を持つことを指摘する。例えば、失恋した場面にあった白いマーガレットと肉親の死に際して聞こえた蝉時雨とが連合し、白いマーガレットは哀しみを意味し、哀しみは蝉時雨を意味するというように連合していくというのである。知的にはなにも関係ない二つのもののはずなのに。こうした自由な連合こそが、創造性の源としてあるということを指摘する。

 こうしてヴィゴツキー理論が再評価されていくことになるわけだが、そしてそれは、より正確な理解をもたらしてくれる本ということができるように思われるが、ヴィゴツキー自身の主張の評価に関して、私は、疑問をいまでは持っている事柄がある。

 それは、科学的概念と生活的概念を区分しすぎているように思われるのである。また、科学的概念とは何かという点で、その特徴を自覚性と随意性という点を打ち出しているのであるが、本当にそうなのか疑問なのである。個別の科学的概念とされるものを想定したとき、その自覚性や随意性にもかかわらず、自覚的でも随意性にも欠けていることにしばしば出会うからである。例えば、ナショナリズムという概念がある。その現れについて従来極めて限定的に使用してきた歴史があるし、理解しているはずのナショナリズムを相対化できずにいる社会学者は沢山いるからである。つまり、概念そのものは、科学的概念といったところでさほど随意的に使用できないのではないかと思われるのである。(2004.12.11)  


Magazine120世界がもし・・たべもの編

 本

 池田加代子とマガジンハウス編『世界がもし100人の村だったら 3 たべもの編』マガジンハウス、952円と税金。

 たべものをめぐって、世界の現状を理解する・イメージするための本としてもう手慣れた印象すらある。

 しかし、この本のもう一つの価値は、ネパールのランマヤという子が学校に通い、給食をとることができることーそれがどんな意味を持っているかを描いている点にある。

 解説で「なにが必要かを知っている人びとの威厳に圧倒された。」(89頁)とあり、この記述に感嘆。そのネパールの人もだが、圧倒される感受性を持ち続けたい、いや自分に育てたいものだと思った。

 幸せになる5つの条件も説得的だ。きれいな環境、戦乱などがない、医療、教育、楽しむことの5つ。算数の分数の授業に最適。

(写真のサイズを小さくする手法を忘れた。一部記憶が戻ったものの不完全。)

 2004.12.8


Magazine119:授業研究について その1

 今、一部で授業研究が復活している。教材構成や発問などについて検討する動向が学校の中に再登場している。

 復活しているというのは、ここ10年あまり下火だったからである。下火の原因は、新学力観が打ち出されたことが影響していると推測している。それは、教師の指導性に消極的で、子どもの活動を阻害しないように求める傾向を持っていたからである。授業研究にはいろいろな立場があるが、教師の活動を問題化する議論が前提となっているものが多いから、新学力観の下では授業研究は精力的には以前のようには取り組まれなかったのである。

 また、マニュアル化と技術主義的な動向はこの間も続いていたが、その戯画的な物言いと主張は、教師の力量を必ずしも引き上げることになっていかなかった。とくに、それらは触発的ではあっても、思考を豊かに押し広げる対話やコミュニケーションとは距離があるものが多く、そこで教えられる内容について多くの問題を抱えていた。

 しかし、他方で、これを今一度、学校単位であれ学校外であれ取り組む動向が登場してきた。一つは、教師の力量あるいは資質を向上させることが課題として行政的に出てきたからである。もう一つは、学校教育界の世代交代が本格化し、教師の知恵をどうしても伝えていくことが学校内に出てきたからである。さらに、現在の子どもたちを対話し、思考する世界へ誘うには、鍛錬主義や体験主義では達成されないことがようやく予感され始めたからである。私はそう考えている。もう一つは教師教育の研究動向が影響しているのだが、いつかこれについても触れてみたいと思う。

 そんな事情がある中で、授業研究のいくつかの動向を時々取りあげてコメントしてみたい。

(2004.12.6) 


Magazine118:未来って何ですか

 郡山総一郎『未来って何ですか』新日本出版、1800円と税金。

 写真は、人のアップもあれば、瓦礫の中で小さい遠景のように小さくなっている人の写真もある。子どもの写真が多い。これらと文章を結んでみる。

 文章は、「報道」、「僕は思った」、「想像する」、「悩む」、「なぜ」とはじまる。(22頁)そして、戦争を支持する人は、戦場に足を運べという。その光景と臭いを知ることなく支持したのでは説得力がないぞという。

 私は、最後の方にある次の文章を引用したかったのである。

「今この瞬間にも、紛争で命を失う人々、貧困に苦しむ子がいることを、知り、考えることは人間としての責任だとぼくは思う。」(132頁)

 何に対応しているかと言えば、「自己責任」という論難に対応する反論である。郡山さんたちはまさに「自己責任」を果たしていたのではないか。逆に、果たしていなかったのが、知らず、考えることなく、イラクへ乗り込んでいった人々、派遣を決定した人々、それを支持した人々ではないか。そう思う。

 今年の流行語に「自己責任」が入っていたが、その意味を今、人はどのようにつかまえているのであろうか。あらゆることを個人の責任といって、政府の仕事を投げ出したり、逆に、政府の仕事への批判を許さないことになっていないか!と思う。

 安田純一さんの本も刊行されていた。「私は人質ではない」というタイトルだったような。

(2004.12.2)


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