2005年2月2日 (水)


Magazine138:高校生活指導163号 

 高生研のこの冬号で青木書店から刊行。1200円と税金。

 特集は、「学校の外の世界と出会う」がその1。なぜ「市民性・公共性を問題とするのか」がその2。会ったことのある人、メールの交換をしたことのある人の文章を中心に読みました。名前は知っているけどあったことのない首藤さんのはまだ読んでない。

 久しぶりに楠原さんの文章を読みました。特に、「『学力不振』とか言って軽蔑したり無視したりする教師に未来はない」という指摘に共感。また、若者を公共圏に参加させることに失敗しているのだという指摘にも、誰の責任なのかという批判が見えて良いなあと思った。後半はもう少し別の展開を期待したかった。

 菅間報告も興味深い。私の考えていた点と同じだと思ったのが、世界と出会うとどんなことが起こるかという点にかかわっての指摘である。だいたい(本当は23頁の一番最後からなんだけど)、24頁付近の上の段にかいてあることだ。

 つまり、世界に出会うと、他者発見自己発見となること、そして、それが、社会的な問いと重なる場合に面白くなるということ。それは、多分、自分と他人のそして世界の位置づけ直しを含んでいるからだろうと私は見ている。生徒が外の世界に向かう契機としては、自分にとっての意味がどこかに必要なんだろうが、それを突き詰めなくても交わっていけるところが人間の良いところだとも思っている。

 長いこと継続発展させていく高知商業の岡崎氏の取り組みも、そのつぎへの発展をつくっていることに敬意を表したいなと思いました。

 第二特集の公共性論については二点だけ記しておきたい。一つは、公共性を政府を制限するのではなく政府をつくることという指摘について、それはそういう時期もあるだろうができあがったときにはこれを制限するという問題が再び登場するから、アーレントの引用で終いにはできないかなと思われた。もう一つは、教師の権力性についてその自覚にたった捉え直しをという論調にはそうだなあと読んだ。前の137の議論と同じ論理です。

 ただ、この本、もっと実践部分をだしながら書いてくれているといい本なんだけどな、と思う。議論はつくっているけれど、「そこでやっていることは何」という所が概要風になっているところが弱点。でも、教育を考える高校教師のための数少ない教育雑誌で貴重です。

(2005.1.29)


Magazine137:ポストコロニアリズム 

 本橋哲也『ポストコロニアリズム』岩波書店、740円と税金。

 ここ10数年あまりの間に広まったポストコロニアリズムという観点についての入門書として手頃な感じです。直訳すると植民地主義後という風になりますが、日本では、植民地主義とこれに反対するという対抗関係は政治を主要な舞台に限定する傾向があるので、カタカナにすると別のニュアンスを持つことになります。だから、年配の方で、1960年代前後をイメージして、その時代の空気から考えてしまいがちな人や、それよりずっと若い人にはいい本だと思います。

 花岡事件の慰霊祭の話しから始まってわかりやすいと思います。

 そして何より、ファノンやサイード、スピヴァクについて知りたいと思う人、過去の植民地支配の問題をどうしたら現在に引き取ることができるのかを考えたい人の参考になると思います。サイードは有名ですが、スピヴァクは一部のマニアックな人にしか知られていない気がするので、この点でも参考になるかも知れません。

 特に、学び知ったことは自分の特権のおかげと知り、同時に、その特権によって自ら失ったものがあることを知り、その特権によって失ったものがあることを知ることによって特権を解体すること=unlearnという視点をわかりやすく解説している。私は、「勉強が嫌いだ」という学生の言葉の中にそれを見てしまう。学ぶことによって勤務先の大学に入学したのだが、そのことによって学ぶことのおもしろさを失ったのかも知れないと思うのである。いや、完全に失ってしまったわけではない。パソコンでいうスリープ状態にあるという方が良いのかも知れない。そう思う。

 この本の影響で、私は目取真俊の『魂込め』朝日文庫を読むことに決めました。今日、生協で探します。在庫がなかったので注文。

(2005.1.26)


Magazine136:安全と安心の科学 

 村上陽一郎『安全と安心の科学』集英社、680円と税金。この本の主張は、矛盾だと読んだ。納得出来そうだが、本当は、村上の主張を信じることはできない。

 この本を買った理由は、リスク社会という山田昌弘批判をより鮮明にするためだ。安全学という主張を始めているらしいので、その危険な構想を見ておこうと思ったわけである。

 さて、何故矛盾だというのか。それは、次のような主張にある。村上によれば、リスク・危険は避けられないという。どんなに備えても絶対の安全はないと言う。私も確かにその通りだと思う。しかし、その危険に備えることが重要なのだという。多くの事故や失敗に学ぶことで、リスクに備えればリスクが低減し、備えておくことで批判されないのだという。これもそうかなと思う。

 それだけの主張であればもっともだと思う人も多いだろうが、しかし、その主張からすれば、すでに矛盾だ。どんなに備えても安全ではないのである。しかし、まあ、リスクに備えることはすべてが悪いというわけではない。素朴に考える限り確かにそうだ。

 だが、さらに具体的主張となるとまったく信じられない。村上によれば、医療事故をなくすには人体に治療情報などを書き込めるチップを埋め込めという。カードを持たせたりすればそれをなくしたりするに決まっているというわけだ。この点で、身体に埋め込んでしまえばなくすことはまずない。治療や薬物投与ごとに書き込むことを義務化すれば、医療事故はなくなるという。しかし、思い起こしてみよう。確かに医療事故はなくなるかも知れないが、個人情報が漏れ、他者に利用されるリスクは確実に増大する。

 村上の主張は奇妙なのだ。村上は一つのリスクをなくす対策を考えるが、別の観点からはリスクを増大させる主張をしているようにしか思われない。村上の考えない方向に傾向があるように思われる。

 村上の主張することが現実化しない世界が平和な世界だと思う。

(2005.1.24)


 Magazine135:神さまがくれた漢字たち

 山本史也『神さまがくれた漢字たち』理論社、1200円と税金。

 白川静監修とあるが、私の趣味で削った。

 さて、この本は、科白がふるまいとセリフだということを確認するために漢和辞典を開いたことに連動している。それについてはブログを参照してもらいたい。漢字の起源にたまたま関心が向いているときに目について買ってしまった。

 中身は、人という字は金ぱち先生が言っていたのとは違って、つまり人と人が支え合っているのではなく、人が首をすくめている様子を横から見たものだ、というような指摘から始まる。これは、漢和辞典にも書いてある常識的な話しだ。首をすくめているのは、神との関係でそれに服従している姿なのだという。民も「罪を負う人」を本来意味した。だから、目を矢か針で突き刺す形として記されたのだというような漢字の成り立ちから始まる。

 こうして、漢字が神との関係によってつくられ、意味されてきたことを示していく。そうしてその結論的主張は、『説文解字』に依拠した漢字の解釈に異議を唱え、腐朽の聖典と捉えてしまう精神を批判することへと流し込まれていく。多くの漢字本と違う点である。

 個別の漢字の説明としては、その解釈が時に時代を超えて示されたり、根拠としては薄弱に見える説明も散見される。また、その解釈がこの学問分野でどのように評価されているのかもわからないが、しかし、漢字の成り立ちについての興味深い解説が付いていることだけは確かである。私の中にあったいくつかの漢字の起源についての常識の誤りが正された。その限りで肩が凝らずに読める本である。しかし、繰り返すが、その説が本当に妥当かどうかはなお議論の余地があると思われる。(2005.1.19)


Magazine134:希望格差社会 

 山田昌弘『希望格差社会』筑摩書房、1900円と税金。

 センター試験に向かう車中と休憩時間で読み終えた。ニューエコノミーの社会となって、希望を持てる層と希望を持てない層に二極分解してきているのだということを、職業の不安定化、家族の不安定化、教育の不安定化という領域を中心に語っている。

 つまりこうだ。自己責任が強調されるようになると、期待とは反対に、「運頼み」の人間が増える。その典型がフリーター。この場合の運頼みというのは、リスクを想定していない賭け方を意味する。やがて何かの職に就くことを想定して始めるとしても、その職に就けない可能性も極めて高い社会が生まれているのに、そのときにどうするのかを考慮に入れてライフコースを描いていないというわけだ。それを「リスクを想定しない賭け」とよび、運頼みといっているわけである。

 自己責任社会では責任がとれるように行動するはずなのに、そうならない何てことも起こる。自由を謳歌する側は、稼ぐチャンスもあるんだからがんばれというメッセージを発するが、実は単純にはそうならずに、そういう希望を持ってがんばる層と、そうでない層とに二極化し、とりわけ問題化しているのが「希望」の有無だといっているわけだ。

 表現も衝撃的で、男で50歳を過ぎて独身だと「負け組」だとか、昔は交際範囲が狭いから出会った相手はみんな魅力的に見えたとか。本当かなと思うが、そんな事例が手際よく並べたてられている。論理は基本的に同じで、希望の持てる階層と持てない階層というのが、構造的に生まれているのだということを言っている。この台詞の繰り返しである。

 現象として生じていることについての説明として肯定出来ることもいくつかあった。けれども、私は、山田昌弘という視点について基本的なところで反対の意見を持つ。

 一つは、山田は原因と結果の関係が転倒しているように見える。ニューエコノミーが希望格差社会を生み出しているといいながら、その社会論をいつまでも越えない。その範疇にいるときに有効だと思われる提言を最後の9章で僅かに述べているだけだ。ニューエコノミーは変えられないものという前提の議論に結局なっている。

 二つには、山田という人は次のようなことを簡単に断言出来てしまうタイプであるがゆえに、信用出来ないタイプだと思う。「受験競争は青少年を職業にリスクなく振り分けるための極めて優れた制度である。」こういう言い方をする人がいるという紹介ではないのである。そもそも「リスクなく」というが、本当だろうか。「極めて優れた制度」だろうか。あれほど多くの人を悩ませ、いのちを奪ってきたものなのに。

 あるいは、「若者が不良債権と化すのである」と言ってのけてしまう。社会の構造的な問題だといいながら、他方でこのように若者個人を非難する単語(少なくとも機能としてはそういう役割を担った単語)を浴びせ続ける。そして、それが現実だ。それは避けられないという。だから、苅谷剛彦の「学力が低い生徒ほど現状肯定感が強い」という分析をそのまま受け入れていく。多くの教師が実感している「絶望の果てだ」という、たったそれだけの創造力もない、そんな風に思えた。

 三つには、この人も「ゆとり教育」の本質を能力主義の多様化という風に捉えず、単に楽して楽しくという風に捉えている。社会科学者とは思えない誤謬だ。

 四つには、対策が、公共的政策をというのだが、それは、新自由主義的セーフティネット論の域を出ないように思う。こうしたセーフティネット論は、現在の新自由主義政策のその延長上に過ぎないもののように思われる。わたしは、このように主張には同意出来ることが少なかった。

(2005.1.16、17)


Magazine133:演劇のことば

 平田オリザ『演劇のことば』岩波書店、1700円と税金。

 急ぐ方は、この本の132頁を読むと演劇の歴史についての結論が3点書いてある。一つは演劇の近代化が遅れた結果、西洋演劇に追いつこうとして、日本語の話し言葉による台詞などが生まれなかった。二つには、岸田国士と築地小劇場はできたが日本語戯曲は生まれなかった。三つには、ファッシズムと非合法抵抗活動の選択を迫られて、イデオロギーの言葉に終始した。戦後もこれを引きずったということを、劇作家という職業的知見で例証しながら書いている。

 現代演劇についての評価もある。中心は、次の評価だ。西洋追いつき型で日本の伝統との融合を目指す頂点を三島由紀夫の戯曲とし、西洋演劇の輸入ではなく、新しい「国民演劇」の創出を目指したその頂点を井上ひさしだと位置づける。これは、平田の戯曲についての志向と絡むのだが、この文献紹介の文脈ではこれくらいにしておく。

 かなり読みやすい筆致で書かれているが、何を参考文献に書かれているかは知っておいて頂きたい。大笹吉雄『日本現代演劇史』、『講座日本の演劇』、菅孝行『戦後演劇ー新劇は乗り越えられたか』、井上ひさし・小森陽一対談『座談会 昭和文学史』。

 演劇についての造詣も深くない私にとって、細かな歴史的判断の是非には関心がない。そこにではなく、政治と演劇の距離の取り方、その可能性について平田のつかみ方にある。それは、演劇だけの問題じゃないからだ。

 凡庸な言い方をすれば、平田は、政治から逃れることはできないが、それに支配されると演劇は不幸でしかなったと見ていると言えよう。歴史的に見ると、そこに演劇表現における不自由さが生まれたと。では、どのように乗り越えるのかという点で、平田の場合明快とは言えないように私には思われるが(それが良いとも言えるのだが)、次の方向を目指しているように思われる。

 平田は、演劇で何を伝えたかったかという問いには「何もない」と答え、しかし「表現したいことは一杯ある」と答えるという。これまでーとりわけ90年以前の演劇とその理論はーその表現の中身を、発語者の主体性に置くという点で新劇もアングラも変わらなかったと位置づける。そう、旧来の国策演劇も社会主義リアリズムも唐十郎らのアングラも変わらなかったというわけである。これに対して、主体は存在するが、それは周囲の他者や環境と相互にかかわりながら影響されあっていると捉え、影響されあっている人間をいかに表現するかなのだという。そこにリアルがあって、そのリアルを表現したいという。(156〜161頁)

 このあたりのつかみ方が、私の嗜好とリンクする部分があるのかも知れない。

 しかし、平田の「日本語」あるいは「日本」ということについてのつかみ方は私と少しだけずれる。日本語表現では三島のような表現が不自然だという指摘には共感するが、他方で強調する言葉を反復するのが日本語だというと、それは、西洋語においても反復されるのでデフォルメしすぎもしくは区分のしすぎのように思われる。もちろん、新劇や学校における演劇や朗読において、強調したい言葉を強く読むなどという手法が、奇妙だという指摘には異論がないのだけれども。

(2005.1.13)


Magazine132:前夜2号 

 先日買った本の中の1冊。影書房、1400円と税金。反植民地主義が特集でパレスチナなどいくつかの地域が取りあげられている。ポストコロニアルではなく、反植民地主義という表現も多分問題をクリアーにしているように思われる。

 しかし、私の関心をひいたのは、高橋がデリダに引っかけて、ある他者に忠実であることは別の他者の犠牲の上にあるという問題についての小論。高橋は、人は誰もこうした犠牲の構造の中にいて、そこから逃れることはできないという。しかし、だが、その犠牲を廃棄することを目指す中で決定するしかないのだという。犠牲を極大にするのではなく、極小にする方向を追求することこそ重要だというわけだ。とりわけ、犠牲に応答する中でそれを考えることが重要だという。絶対の非暴力平和主義が普遍的に価値を持つわけでもないという趣旨のことも記している。永遠の普遍を信条としている人、あるいはそう思いがちな人にとってはきつい批判と言えよう。

 もう一つは、中西の対談。「ゆず」などの歌にかかわって若者文化とその意識構造を論じている。その話しの一つが、「僕は僕を信じるから、あなたはあなたを信じて」というタイプの歌が登場することを取りあげ、この場合、「僕とあなた」はシンクロしているがその二人の関係は関係がない。つまり、自分が場所をしめることによって場所を失う他者という関係にはならない。そういう位置に他者を置くことによって、自己を肯定することを可能にしているという。

 あるいはまた、自己を無視してくれと語ることを通じて自己を閉ざすとともに、そうすることで世界に存在することを自身が許すという構造も生まれているという。この構造は支配的文化の抑圧性を示すものと分析している。

 群体化というはなしもしている。これについては本文を読んでもらいたい。

 この二人の話題が共通していることに気づく。つまり、自己と他者の関係について、自己の存在が他者の犠牲の上にあること、そういう関係を避けようとしている問題を取りあげていることがわかる。これは、前の131の話題とも連なる。宇多田ヒカル「誰かの願いが叶う頃」という昨年夏の曲がある。その曲も出口のない問いかけ(ただし、宇多田の曲は、中西の言う犠牲の構造を捉えている分、「ゆず」的シンクロとは違っている)だったように記憶するが、これに出口を与えていると思われる。すなわち、人は他者との関係において受苦的存在だが、そうした存在であることを受け入れながら、他者の声を聞きその犠牲を最小・極小にする応答と関わりを探求するところに解があると言っている。この解の方向を広げてみたい。

(2005.1.11)


Magazine131:いのちの食べ方 

 森達也『いのちの食べ方』理論社、1000円と税金。

 中学生あるいは高校生くらいが対象の本。ほとんどの漢字にふりがながふってある。だから多くの人に読みやすい。これは、理論社のヤングアダルトシリーズの1冊で、他に重松清の本もこのシリーズにある。

 人は、多くのいのちを食べながら生きているということを、東京都中央卸売市場食肉市場での牛の解体の様子と、被差別部落の生まれた仕組みを中心的素材として語られている。

 その語りの趣旨は、一つは、人は命を犠牲にして生きていることから目を背けるなという主張、もう一つは、自分だけはいのちを犠牲にして生きていないという位置に自分を置いたらいけないという主張だ。二つは同じように見えるけれども、上が人一般だとすれば、二つ目は特定の個人たる自分を指している点で違う。

 この二つの煎じ詰めた主張には、賛同することが多い。

 でも、部落差別の問題を意識の問題に解消しているように読める部分などについては?だなとおもうこともある。

 この本を買った個人的な理由は、品川にある東京屠場のことが書いてあったからだ。実は、私が小学生のころなんどか父親に連れられて行ったことがある。そのとき、牛や豚が半身にされてつり下げられている光景を見た。内臓が大きなバケツに入っていたという記憶もあるし、牛の皮が何十枚も積み重ねられているところも見たことがある。そこにトンカツの美味しい食堂があったことも覚えている。今の京葉道路から松並木と東京湾が見えたことも微かに覚えている。そんな時があったなと懐かしかったという理由もある。しかし、牛や豚がどのように処理されていくのかについては見たことがなかったので知りたかった。その工程が記されているようだったので買った、これが二つ目の理由である。

 伊丹万作の有名な一節、つまり、戦争責任について「おれがだましたのだといった人間がまだ一人もいない」という文章も引用されていて、私は有用だと思う。

(2005.1.8)


Magazine130:ヨーロッパ市民の誕生

 宮島喬の岩波新書。740円と税金。

 EUというある種の社会統合が進む中で、従来のナショナル・アイデンティティ、ローカル・アイデンティティがどのようになっているのか、新たなユーロピアン・アイデンティティは生まれているのかどうかを探った本である。その論述の中心は、スペイン、フランス、ドイツにあるが、北欧などにも目配りをしている。

 宮島は、シチズンシップの意味を、国籍に関わる問題、市民的・社会的権利に関わる問題、人間の行為・アイデンティティに関わる問題の三つに区分し、その三つ目に力点を置きながら論述している。

 宮島がヨーロッパ市民を取りあげるのは、それ自体が一つの新しい試みであることにあるが、そればかりではなく日本の現状への問題意識による。だから、本書の冒頭と最後は日本の現実への批判と課題の提起となっている。以下若干の指摘を紹介しておきたい。

 スペインでは、1983年、言語正常化法によって、カスティーリャ語(いわゆるスペイン語)とカタルーニャ語の二つの言語が学校教育で教えられるようになった。「二つの」というのは、バスク地方であれば当然バスクの言葉となるのであって、どの地域でも前述の二つというわけではない。また、本書において、スペイン語と言わない点にも敬意を払う必要がある。つまり、カタルーニャ語だってスペイン語と言ってもよいことを考慮して記述しているわけである。

 これによって、高校生の調査では、カタルーニャ人という意識がトップとなり、ついでヨーロッパ人、その後にスペイン人というアイデンティティとなっているという。イギリスにおけるウエールズ語表記の法制化についても記述がある。関連して、言語は重要なアイデンティティ要因だが、移民であるとか、その他の文化資本との関連が強く影響し、単純にはナショナル・アイデンティティに同化することも、これまでのエスニック・アイデンティティやローカル・アイデンティティと決別することはないと指摘している。その一つの形態を「デニズン」という言葉で特徴づけている。

 「デニズン」とは、外国人と市民とが区分されているなかで、市民的な永住権などの諸権利を相当程度に獲得したとしても、帰化市民とならない人のことを指す。こういう人が相当数に上るという。ヨーロッパにおける外国人1847万人中の相当数がそれに該当するという。これも興味深い事実である。それほどに外国人と市民との垣根は高いという風に見ることもできる。

 しかし、そうした垣根の高さゆえにか、そうした違いを持つ人びととの暮らしを調和させる試みが,EU各国で進められている。

 一つは、地方参政権。二級フランス人の制度化という批判を受けながらも(すべての選挙権を持つフランス人と地方参政権だけのフランス人という区分を指す)、条件がなお付いているが、これを実現している。

 二つには、パックス(PACS)という民事連帯契約(婚姻関係にない二人が法的婚姻状態にあるのと同じ権利を持つ契約のこと)を実現し、従来の家族形態とは違った有り様を公的に認知する制度の創設である。ここで興味深いのは、フランスの場合、離婚は常に裁判によらねばならないなど困難なためにこの事実婚を選ぶ人が増えたのだという記述である。現在、日本では、「家族の価値を見直す」という保守の動きがあるが、これが現実のものとなると逆の事態が進むことになるのかも知れないという推定が成り立つことである。保守の期待する家族像が強く要求されると、保守の期待を裏切るということである。

 他方で、EUにも逆風が吹いている。多様な平等の先進国とされる北欧(デンマーク、スウェーデン)でも極右が躍進し、これと結んだ保守的政策が現実のものとなっていることも指摘されている。

 だが、それでも国家に絡め取られないシチズンが確実に進展していることを本書は教えてくれる。日本との比較で日本の課題を言えば、国籍の相対化つまり国籍による差別や日本国籍取得の条件の大幅緩和、市民的権利の承認つまり参政権ならびに社会参加を励ます政策の推進、国際的に孤立する日本からの脱却ということであろう。

 なお今後、外国籍の人びとの日本への流入は大幅に進行する。これは、従来の朝鮮・韓国、中国等のオールドカマーやブラジル、フィリピンなどからのニューカマーの比ではない。日本経団連の奥田は、次のように小泉首相との対談で語っている(彼の場合、語るとは要求という意味だ)。

 「日本が目指すべき姿は、国際的に信頼される徳のある国だと思います。そのためにも、まず、少子化への対応を考えなければいけない。仮に出生率を引き上げることができたとしても、効果が現れるのは20〜30年先になる。そこで考えられるのは、女性や高齢者にも働いてもらうことです。それでも足りなければ、外国人に来てもらって力を借りる。単に労働力の不足を補うということだけでなく、日本人が多様化するためにその知恵や力を借りる必要がある。そうでないと、 20年先、50年先にどうなるのか非常に心配です。」(月刊・経済Trend 2005年1月号)

 この方向は着実に進行している。そのとき、今の保守化運動と改革の運動とは対立するだろうが、どちらが勝利するかは今までのところヨーロッパの経験からはある程度見通すことができるように思う。(2005.1.5)


Magazine129:新年に 

 新年あけましておめでとうございます。

 昨年は、災害、戦争、保守、排外主義、監視がキーワードとなるような社会状況でした。教育もそれらに影響され、さらに強制と心の管理が特徴でした。

 他方で、それに収まらない動きが生まれた年でもありました。国家の思惑を越えて人は人と結びつき、政策意図を無力化させる行動も沢山生まれました。それは例えば、イラク人質事件の当事者とそれを支援した内外の沢山の人びとであり、「東京都の教育改革」に抗してそれぞれの地点から異議を唱えた人たちです。そして、実はもっと多くの人たちが、目立たないけれども、今の社会の有り様や教育の有り様に疑問を感じていました。私は、そんな声を沢山聞きました。私の知らないところでも、無数の新たな動き、心の動きが生まれていたに違いありません。

 今年も、そんな動きに耳を傾け、そこに学びながら暮らせたらと思います。

 また、トップ頁に書きましたように、平和と真っ当でささやかな願いが大切にされる社会と学校となるように、そのことにささやかではあっては、皆様とともに力を尽くしたいと思います。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

(2005.1.3) 

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