2005年3月1日 (火)
Magazine148:嗤う日本の「ナショナリズム」 |
北田暁大の日本放送出版協会からの本で、1020円と税金。 最近話題の「電車男」の現象についての論評から始まる。テレビや雑誌文化にかかわりながらそこに生まれ続けるナショナリズム、その意識を取りあげた本である。窪塚洋介、糸井重里、長野県知事やら、サラダ記念日の俵万智、宮台真司らのナショナリズムが取りあげられていく。 そのつかみ方は、80年代に笑いが嗤いとなってシニシズムが生まれ(8時だよ全員集合やパロディ番組であったひょうきん族を想起しよう)、さらにサラダ記念日のようにパロディがその異化の力を失って行ったのだという。つまり、パロディの大衆化がすすみ、「国民」に受け入れられてしまうが故に、それらは人とのつながりのツールとなって、異化の力が失われたというのである。それは携帯電話が、人と繋がるためのツールではなく、「わたし」が「あたな」と繋がろうとしているという姿勢を示すことが目的となってしまったのと同じだというのである。(ここのつなぎは本文を読んで下さい) 大文字の他者(つまり大手マスコミを想起すればいいだろうが)、そういうものが提供する世界にのるよりも、身近な内輪のつながりを重視して生きていくことへとシフトしてきているというのである。そのとき、つながりだとか、自己の判断の基準をどこに求めるかというと、雨宮処凛(かりん)のように「自分が燃えるかどうか」へと頽廃してきているというわけである。「感動」をとにかく追求したがる心性のようなものである。小泉の「感動した」発言、スポーツ番組等々きりがないが「感動」をこれ見よがしに売って歩いている例を想起しよう。こうなると、政治的には右翼でも左翼でもよいことになっていく。自己の感情・実感と世界や政治が無媒介に繋がるようになってきているというわけである。その一つがナショナリズムだというわけである。 こうしたナショナリズムをだから極めて危険というのが香山リカ、そういうナショナリズムをナショナリズムで制御しようというのが宮台だと北田はいう。そして、宮台のもくろみは間違っているのではないかという批判を展開する。宮台の支持するローティにおける「共同体主義者として自由主義を信奉する」という前提が、少なくとも日本において存在するかというとしないから有効でないというわけである。私からすると、仮に日本にそのような共同幻想が存在したとしても、その自由主義や共同体主義そのものに賛同できないけれど。この点で北田もローティに批判的だと思うけれど。それはともかく、宮台批判として一つの観点といえよう。 さて、今日見てしまった「ごくせん」これは、原作がある種のパロディなのだが、これが人気だということ、感動をよんでいるらしいことが聞こえる。これはどこに位置付くのだろうか?(2005.2.27) |
Magazine147:学校評価 |
金子郁容編著『学校評価』ちくま新書、680円と税金。 金子という人は、前の中教審の委員であった。当然、中教審の委員だから、その筋の人間ということになる。だが、ソフトなイメージをその委員会の中でも醸し出していた。しかし、他方で市場主義的な人であることもはっきりしていた。 そのソフトな言い回しにもかかわらず、それが実際にはかなりひどい論理的飛躍をする人だということが本書を読んでの第一感想である。例えば、書き出しに「学校教育も一つのサービスだ」といわれたら、その通りだという人もいればいや違うという人もいて、それぞれ道理があるという。いかにも全部認めたようなことをいう。ところが、すぐに、教育もサービスだというところから始めると断定する。その理由は示されない。学校は国や自治体のものだという神話を吹き飛ばすためだというばかりである。そんな神話は法律にはない。国や自治体には義務があるのみである。仮に、そんな神話があったとしても、その反対がなぜサービスだと考えるのかについての説明がない。 このように別の見方に寛容そうに文章は始まるが、いつも、市場主義的なものの見方がなぜかよいことになっていく。そこに説明は付されない。 ともあれ、金子グループの学校評価論が一つの方式として文科省の指定校を中心に採用されている。だから、本書を批判的に読んでおくことが必要なのである。 本書の中盤ではイギリスとアメリカの学校評価の実状が紹介されている。後半では金子グループの学校評価の考え方とそのやり方が五反野小学校の事例を中心に記されている。 彼らは、教育について考えていないことが読み進めていくと見えてくる。確かに、彼らは評価手順を示してはいる。しかし、なぜ、そのような評価項目を選択するのかについて教育の道理に即した説得的な説明はない。どういうことかというと、「子どもが自分から元気に挨拶する」ことを課題に選び、それを「登校班で自分から挨拶した子どもの割合」を指標とし数値目標を設定するというように学校評価をつくっていくのだと説明する。しかし、教育としてそうしたことに意味があるかどうかは問わない。つまり、挨拶運動を行っている学校は多いが、学年進行とともに崩壊することも多い。強制力が働くと挨拶はある程度行われるが、そのことの意味は形骸化され、挨拶という実質は失われてしまったりする。そんなことも多い。だからなぜそれらを評価項目に設定するのか議論することの方がまず必要なのに、「気づきから」といって設定してしまう。議論をしない。挨拶が大切だという人が多いとそのまま受け入れていくだけなのだ。こんな風に、学校評価システムを作ってはいるが、その項目がなぜ教育として重要かとか、そのような教育活動が妥当性を持つかどうかは検討されない。 結局、数値化を中心に学校評価を進めるその手法を手ほどきしているだけだ。評価によって教育の改善をというが、それが改善なのかどうか議論されない。よいことに決まっていることを選んでいることになっているから、検討できないのである。今、進行しようとしている学校評価を問題だと思う人は、本書を読んで批判点をさらに明確化することが期待される。 (2005.2.23) |
Magazine146:学力低下信者へ |
少しでも、学力低下論に乗った人には、和田秀樹の『私の愛国教育論』PHP研究所をみて頂きたい。とりわけ科学主義的な教育論を信条とする人にはみて頂きたい。和田による科学が国家に役に立つことによって愛国的だとする議論を見て頂きたい。これは、戦争中の自然科学者による国家主義の論理そのものであったことを想起してほしい。科学的であることは国家主義であったのである。 和田の議論に乗れば、国家に役立たない人間とは、学力の低下した人間のことであり、学力の低下した人間は国家に役立たないことをもって、「非愛国的」と呼ばれることになる。学問研究に愛国心がなければやっていけないような研究はやめたらいいのだけれども。もっとひどいことも言っている。学力が低下すると日本は三等国になると。国家にも順番をつけて、三等国だとダメだと思ってしまう、国家主義と能力主義の差別主義的結託。 和田のような暴論に正対する理論構築をしてきたでしょうか。それを学力低下信者はどこか受け入れている点があるのではないでしょうか。愛国心などといわれると反発する人も、この点への批判を持てないでいるのではないでしょうか。 そんな思いが湧いたある日の三省堂。 (2005.2.20) |
Magazine145:争点・フェミニズム |
ヴァレリー・ブライソン(江原由美子監訳)『争点・フェミニズム』勁草書房、4400円と税金。 フェミニズムについて立場の違いを解説した本や論文はいくつかあるが、執筆者の見地以外には丁寧とは言えないものや、特定の論争についてだけ取りあげたものとなっていることが多かったりする。ことに、その結論部分となると、主題から離れた哲学的もしくは主観的感想となっているものがみられる。その点で、本書は、フェミニズム理論の諸潮流、ジェンダー・人種・階級という用語をめぐる論点、法、国家、家族と就労、再生産、ポルノグラフィー、男などと各分野にわたって、その見地の違いを比較的丁寧に紹介しながら自身の見方を提出している。 例えば、家族と就労では、スウェーデンの経験などが紹介され、ファミリー・フレンドリー政策の開始当初は男性が専業主婦と結婚したような行動をとり続けるが次第に変化しているという研究を示し、他方で米国や英国では女性間の階層差が極めて拡大し、誰かの面倒をみるために人生を費やした女性はそれに見合う報酬を得ることはないといった動向が紹介され、ここでも就労と家庭生活をめぐる変革が政治の課題として重要となっているという。かなり穏当な方向が示されるが、しかしそこには「米国では、男性と女性がもっと長時間働くようにという期待は、子どもを親のいない家庭へと導くだけでなく、参加者のいない市民社会や市民のいない民主主義へと導くものである」というホックシールド引用を持ってくるなど、現在への批判精神が織り込まれている。 ポルノグラフィーの章では、ここに男性の視点と商業主義の重なりを見据えつつ、ドウォーキンやマッキノンらの反ポルノの見方を軸に、それらに批判的な立場も位置づけていこうとしているようだ。この問題で意見が多岐に分かれることを示すのだが、ことに単純に反ポルノグラフィー運動に流し込んでしまったり、しかも道徳的保守と結託してしまう動向や、結局の所商業主義へ解体してしまう動向を批判的に捉えていたりと、目配りがきいていると思う。 この領域についてずっと研究してきたわけではない者にとっての手引きとしてもいい本だと思う。概略過ぎて物足りないということもなく、詳細すぎて脇道にそれてしまうようなこともなく、立場ごとの評価を考えながら読むことができる。 (2005.2.18) |
Magazine144:学校に自由の風を! |
見出し通りの岩波ブックレット645号、480円と税金。 10月の日比谷の集まりの時に、カラフルな旗をたなびかせていたグループが編集した本。東京都の卒業式における日の君の強制問題について、親、教師、生徒たちの声をコンパクトに集めた本である。 国旗を尊重するのが国際的常識だというが、尊重を強制する国際的常識などないと紹介する丸浜。親たちにも圧力のあったことを証言する森田、高橋という元PTA会長。障害者もともに参加できる形の卒業式を通達の「遵守」によって拒否したと、その差別性を養護学校の保護者が指摘する。教師に煽られて生徒が座ったといって教師を処分しているが、それじゃ高校生の自主性を認めてないと憤慨しながら指摘する高校生。起立するべきなのか、歌うべきなのか、仕方ないとするべきなのか葛藤する教師たち。そんな声が集められている。 起立するぐらい、歌うぐらいと思う人は、こうした声を聞いておくといいと思う。自分の基準だけで他人を判断する過ちを防げるかも知れないからだ。 また、歌いたくないがとりあえず歌っている人も、そんな人の存在を知っていることは大切だと思う。それだけで、そう思わない人への支援となるときもある。一つの対応だけが私は抵抗だとは思わないのでいろんなところで、それぞれの人のできるところから取り組んだらいいのだ。繋がりながら抗う道はいっぱいあると思うからだ。 この本は、大切なことをタイトルに掲げている。そう、「学校に自由」をだ。そうだとすると、今の状況では重要な問題の焦点が確かに卒業式や日の君にあることも間違いないが、教科教育や生活指導のそれぞれの世界にもその風をさらに広げると、旧来の教育活動自体も変わるかも知れない。日の君が今のように強制されていなかった時代に、学校には自由の風が吹いていたのかどうか。今よりは吹いていたに違いないだろうが、よどんだ所もあったとすると、自由の風をはためかせる世界は卒業式や日の君問題だけでなく、いろいろあることになりそうだ。そうすると取り組む課題は、たくさん登場する。こうして抗う道はずっと広がる。抵抗点は無数にあるということは、それぞれの条件に応じて・・・。それらが集まって、毎日、自由の風が吹くようになるといいと思うのだ。 (2005.2.15) |
Magazine143:女性労働問題研究47 |
女性労働問題研究会編『女性労働問題研究』47号、青木書店、1500円と税金。 特集のジェンダー平等戦略のいまというタイトルに惹かれて一部を読んでみた。竹中論文の論じ方で印象に残ったことは、90年代以降も男女雇用平等政策が「男性稼ぎ手モデル」となっていることを示していたことが一つ。例えば、労働の規制緩和の中で60時間の労働を可能とし、これをクリアできない女性を非正規労働者としていることなどで示していた。 もう一つは、フレキシブルな労働形態と日本の場合宣伝されているが、EUにおける賃金に関する平等や個人単位の税制、さらには労働形態の自主的選択の保障という制度を欠いているために、不安定雇用の創出あるいは深夜勤などの加重労働の出現でしかないといっている点である。妥協の産物ということと、平等を志向した政策との違いは決定的だと読んだ。この点でも日本の言葉の類似性にだまされてはならないと思う。 さらに、生活時間のつかみ方について、竹中は、従来の労働と余暇で労働時間の短縮をはかる発想を批判し、これに家事を加えて捉える改革を提出していて、この分野にも視野の狭い私には勉強になった。 もう一つ、介護労働を感情労働として評価し直す観点からの調査研究が報告されていて、感情管理スキルについては、新人とベテランに有意な差がなかったと記してあったのが気になった。すなわち、利用者のニーズを掴んだりすることについては、ベテランが優れているが、いらいらしていても利用者の前ではこれをコントロールできるという質問項目には、新人もベテランも差がなかったという調査結果だったわけである。執筆者の田中は、この原因を感情管理スキルがヘルパーの管理者から評価されにくい観点だからではないかと指摘していた。そういうこともあるかも知れないが、まだこの点は調査が必要なように思われる。 教師についても感情管理スキルが求められる職業だが、同じような結果になるのかどうか気になるところ。 (2005.2.11) |
Magazine142:ディスコミュニケーション |
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池田太郎『ディスコミュニケーションを生きる』子どもの未来社、780円+税金。 池田は、元東京都の教師であり、今は熊井啓などと映画やテレビの脚本を書いている。私の見た映画でいうと、松本サリン事件の冤罪事件について高校の新聞部による取材を軸に描いた『日本の黒い夏、冤罪』の脚本を担当している。 ディスコミュニケーションとは、本書の場合、二つに分けられている。一つは、社会におけるコミュニケーションの不成立状況。二つには、個人の内面における違和感、自分自身とのコミュニケーションの不成立問題。 高校生や若者の駅や電車内での不必要にボリュームを上げた話し声と、それを注意した池田が無視されていった事例。駅の自動改札をめぐって客として自動改札以外の設置を要望し、西武鉄道が応答しているようで応答しない事例。こうした事例がディスコミュニケーションの事例として挙げられ、それらが池田によれば、損得を基準とした教育や管理して統制しようとする石原らの東京都の教育音痴のなせる技と結びついていることが論じられていく。 社会状況としてディスコミュニケーションがつくり出されているというわけである。これは、コミュニケーションの技術の失敗あるいはいかにうまくそれを行うかという方向で考えるのではなく、それをディスコミュニケーションとして捉え、今の社会システムがそれをいっそう拡大するものとなっているとみるわけである。そういう社会システムを批判すると同時に、その表れとケンカすることを提唱しているのが本書のようだ。 もう一つは、内なるディスコミュニケーションを取りあげ、そうした違和感を抱えて生きていかざるを得ないものだと述べている。小松川女子高校生殺害事件を取りあげ、その犯人の内側にあったそのディスコミュニケーション状況の存在を示そうとしている。そういう事態の存在と池田のような理解は、コミュニケーション論の一つのモーメントとして押さえておいていいと思う。 ただ、67頁からのノンディレクティブ・カウンセリングというのを高く評価する池田を高く評価できない。沈黙の授業が非指示的でそこに自主性の発露をみているようだが、そこにこそ抗うことを許さない強制性が見える。このあたりは、内なる世界の議論ともかかわるのだが、脚本家的関心世界と連なる側面も見えて、私の関心世界とは距離がある。 (2005.2.8) |
Magazine141:生活教育2月号 |
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これは、日本生活教育連盟の編集・発行で、686円と税金。 この号を取りあげるのは、ただ一つの理由しかない。それは、埼玉の小澤友子さんの記録を読みたかったからである。昨年、別の雑誌に紹介されていた話題の実践だからである。それは、誰なのか探していたら、先月、和光小学校の行田さんに2月号に載ると教えられた。 小澤さんは、まだ若い教師らしい。そういう風にどこかで聞いた。そういえば、発問を子どもに伝わらないように言ってしまったりしている。しかし、こういう記録は今新鮮である。べたに近い記録に所々教師の思いがちりばめられている。こういう記録を書き続けていくと、その中に何を読みとるのか、さらに意識化されて行くに違いない。 さて、この記録で最大の注目はなにか。それは、いわゆる習熟度別のクラス編成をした授業の記録だということ。しかも、そのクラスは、一番習熟していない子どもたちによって編成されており、それを今普通に行われているドリル的なやり方とは違って、本来の普通の授業を行っている記録だという点にある。 少しだけ例を示すと、狭い資料室に入ってから教室に戻って混雑率、速さを自分なりに走ってみてから1メートルあたりの時間もしくは1秒あたりの距離を表すという風に授業を構成していく。これは、10年、20年前から数教協なら普通に行われ、その会員でなくても少し勉強する気持ちのある教師なら行っていた授業構想である。それを、いま、この状況の中で取り組んでみたことに価値がある。私はそう思う。 本人の記録には書いてないが、このようにして学んでいった子どもたちの方が、最後にはより習熟しているとされたクラスの子どもたちより、「通常の学力」(鍵をつけたのは、通常の学力が高いことに最大の価値を置く人への批判を意味してます)においても高い値を示すようになったと周辺情報としては聞いている。 一つの実践事例だけで断定することはできないけれども、「わかる」ためには、これまで普通のクラス編成で行ってきた普通のやり方、すなわち、ものに働きかけ、五感を使って、対話や討論のある授業を行っていくことが基本なのではないかということ、そういうことを推定させる。そうだとすれば、習熟度別編成と、単純ドリル反復、言語記号的にわからせてしまう行き方の間違いを実践的に批判するものとなっているのではないかと思う。 一つの数頁の記録だけれども、それでも七二〇円以上の価値はあると思う。 (2005.2.5) |
Magazine140:魂込め |
目取間俊、『魂込め』朝日文庫、2002年、480円と税金。 芥川賞受賞後の最初の短編集。ストーリーは、沖縄ならそんな話しもあるかなと想像されうるもので、特にクライマックスと思われる部分の筆致は、読みながら臨場感を感じた。 幸太郎が魂を落とすと、魂を拾って入れてあげるウタ。しかし、今回はなかなか戻らない。その魂を落とした所が幸太郎の親が米軍の射撃で命を落とした場所。それは、ウミガメの卵を取ろうとして打たれた場所という設定。ウミガメがやがて孵化し、海に帰ろうとするそのとき幸太郎の魂が消えて、アーマンがのどに詰まりなくなってしまう。そんなストーリー。 ウタの祈りはどこにも届かなかった、と終わる。 なぜこれが、ポストコロニアリズムの本に紹介されていたか、ようやく理解。そこには、本土と沖縄、沖縄における人びとのズレ、自然と人間といった営みの違いが見えたような気がする。 (2005.2.3) |
Magazine139:生活指導2月号 |
| 生活指導の2月号は、705円と税金。 この号には執筆しているのでどうしようかなと思ったのだが、率直な感想を短く書いておくことにします。 久保田論文。これは、求められたことが憲法にかかわる情勢の中での課題ということですから、書きにくかったのだ思いますが、前半は比較的要領よくまとめていると思います。しかし、今教師は何をなすべきかという小項目の指摘は、運動論的ではあるけれども、教育学的提案としては十分ではありません。実践を取りあげていますから、どのように分析するのか、そこに切り込む論述が必要だと思いました。 酒泉論文は、客観資料を提出し、生徒の意見を聞き、教師が結論らしきものを出したりしないことを原則に、社会の授業を行っている様子を書いています。提出する資料を読み、それに関する意見を聞く中で、新聞報道などにだまされない力が育つという主張です。それはそうです。しかし、実践部分の記録をみますと、必ずしもそれは十分に実現されていないきがします。もう少しブッシュよりの意見、あるいはそれに抗えないという意見が潜在するはずで、そうした潜在する声を引きだすためのアプローチが追加される必要があると思うのです。 憲法を子どもたちの日常世界の言葉に翻訳する活動を組織しているのが北原論文。これはかつて埼玉の渡辺さんの授業を見学したときにもみた構想と同じ。違うのは、グループで分担して行っている所のようです。基本は暮らしに憲法をということからだと思います。なお、貫戸さんのVTRには、後日の報道もあることを知っているでしょうか?あの学校は京都教育大学付属小学校だったと思いますが、その小学生が高校生になって再度討論するという番組があって問題含みに展開していました。貫戸さんの期待通りに育ってなかったのです。これをどう見るか、一人の人間の揺れながら育つ過程としてみると面白いと思われました。 篠崎さんの取り組みは、自分史的論述で、篠崎さんの教科外活動的雰囲気が漂ってきます。社会的な活動を子どもたちに今なりに教えることーその方向をさらに探求しているとより問題提起的になったかも知れません。 沖縄の真栄田論は、子どもの意見を並べているのでどんな取り組みが行われたのかわからないのですが、取りあげたテーマだけはわかります。特に、子どもの現状を読んでいる点は重要だなと思いました。上野さんの沖縄の状況報告は、日本の現在として臨場感を持って読んでくれる人が多いといいと思います。 自分の論文は、不十分な点もわかっているのですが、自分ではいい論文だと評しておきたいと思います。(自分には甘く) (2005.2.2) |