2005年4月3日 (日)
Magazine159:世界4月号 |
特集はジェンダーフリー。値段は、780円、岩波書店。 特集と関係ないけど、「ポルトアレグレで語られたこと」という武者小路公秀の情報はほとんど知らなかったので世界の動向として=反グローバリズムの世界社会フォーラムの議論をかいま見ることができて参考になった。 また、花田と林の「公共放送のリアリティとジレンマ」もこのところのNHKならびに朝日の問題について有益な議論だと思う。つまり、NHKは公共放送だというけれど、その公共性をどのように成り立たせているのかという批判的眼差しからの議論を行っている。花田によれば、公共性は、理念のレベルでは権力に取り込まれることなく自由な立場から彼らを批判、監視すること、組織としては自由な言論空間として誰でも参加できる仕組みが必要だといい、制度化の手続きとしては企業等からの独立などが必要だとする。 そして、公共性という言葉がナショナルなものを前提につくられてきたことから、そこから自由になれる可能性があるかどうかを問い、グローバルなNGO団体の存在など広がりなどはあるが未だ道半ばといった状況だという。また、公共性の主体は、男を前提にしてきた制約を持っているという。三つに、公共性はコンセンサスを前提にするが、このコンセンサスは現在の力関係を前提につくられるという限界を持っているとする。公共放送の制度というのはそうした限界の中にあると批判し、これを越える動向が、他ならぬ「女性国際戦犯法廷」という取り組みであったとする。なかなか簡潔だがいいなと思った。 特集では、細谷実のジェンダーバッシングをめぐる見取り図として概ね納得しながら読んだ。他は、まあ読んで下さいということに。 (2005.3.30) |
Magazine158:国家に抗した人びと |
新藤謙「国家に抗した人びと」子どもの未来社、820円と税金。 海軍大佐水野広徳、川柳人鶴彬、兵役拒否の北御門二郎、作家中井英夫、歴史家家永三郎、以上5人の国家への批判、抵抗を概略紹介した本である。 だいたいどんなことを言ったのか、したのかを紹介してある。だから、なぜ批判や抵抗ができたのかという説明を期待して読むと概要過ぎて物足りない。取りあげられた人について、すでにこのような見方があるけれど、本当はこんな事実があるから、別の論理や志向によって国家への批判を行ったみたいな論述を本当は期待したい。でもまあ、こんな時代だから、いろんな契機で国家批判へと向かうものだということだけは分かった。例えば論述によると、水野は子どもの頃に軍人に殴られたことが契機のようだ。 家永の部分に「内心の自由を求めて」という小見出しがあったが、このところ、内心の自由を求めることも必要だが、そういう論理だけでなく、それらは表現の自由などと結びつかないと無力だと強く思うようになった。(2005、3、27) |
Magazine157:ありえない日本語 |
秋山高太郎『ありえない日本語』ちくま新書、720円と税金。 ブログに「ありえない」についてだけ記した。他の項目を紹介しておきたい。 この本は、若者世代の言葉とその用法が大人世代になぜ違和感を生み出すのかを、それぞれの世代の用法の違いを抽出して示し、そうした変化の要因を社会状況や対人関係の変化と関わらせて論述するというものである。
それぞれの言葉に違和感を感じることもある大人世代に私も属するが、その違和感の理由をコンパクトに示してくれていると思う。 上述の言葉が生み出されてきた社会状況や対人関係志向の変化について、それ自身を詳細に検討しているわけではないが、関連を見ているという点において参考となることが多かった。また、関係の変化という点で、若者世代は、対人関係の取り方を恐れ、その恐れ故に言葉の用法を変化させてきたようだが、その変化が必ずしも成功していない。少なくとも、若者世代同士でしかも親密な関係範囲にある場合には問題が少ないが、そこを越えた場合には、失敗していることも多いということ。他方で、その若者世代の言葉の用法は、それなりに浸透していくので、その用法によって意図している若者世代の意識を汲み取ると違和感だけではない見え方も生まれるのかも知れない。(2005.3.24) |
Magazine156:教師のための「聞く技術」入門 |
家本芳郎の新刊。高文研から1500円と税金。 家本さんはこういうタイプの本を沢山出している。長い経験をもとに具体的な例で示しているので説得的といっていいと思う。私も含めて聞くよりも話したくなってしまうタイプの人は読んでおくといいと思う。(もっとも私は、いつも話したくなるかというと実は違う。ずっと黙ってしまうこともある。理由はいろいろ。) 例えば、問題行動を起こした子どもの話を聞くときに、繰り返しの技法というのを提唱している。それによれば、子どもが「頭にきた」と言えば、「頭にきたの?」といい、その理由を聞くという。こうして問題行動を認めさせることや謝罪の言葉を言わせることを優先させるやり方を批判している。こうした技法が並んでいる。それぞれは有意義な側面をもっていると思う。もっともこの事例の直前の事例は、ジェンダーバイアスがかかりすぎていてなんですけど。 この本の中で使われている「聞く」の意味は複数の意味で使用されている。一つは、人の話を文字どおり聞くことである。例えば相づちの打ち方などなど。 二つは、聞くというより訊くもしくは問うという方がいいかも知れない。 三つには、話してもらう技術という方がいいかも知れない。 だから、それぞれの聞く技術は、コミュニケーションを射程に入れていかないと行き詰まるということでもある。 (2005.3.21) |
Magazine155:万博幻想 |
吉見俊哉『万博幻想』筑摩書房、860円と税金。 大阪万博の開発主義的性格を検証し、さらに沖縄海洋博、つくば科学博の失敗、そしてまもなく公式開催となる愛知万博のその性格の変移を探った本である。 昨日から内覧会が始まったと報道されているが、そこに招待された人の属性を見るとこの博覧会の性格が垣間見える。昨日(18日)は、報道関係、地元、出典パビリオン企業関係であった。例えば、協賛金の三分の一を出すトヨタは、1000人の成績優秀な社員夫婦を全国から集めて昼間内覧、夜はパーティを開催した。 テーマが自然の叡智となっているのだが、このテーマに落ち着く過程やその意味を考え、今の万博と今後の万博を考える素材として読んでもいい本だと思う。いろいろもめて、自然の叡智という割には、環境問題に配慮したことになっているが、そして、海上の森の開発を減少させはしたが、十分でないと評価されている。そのことを吉見も指摘している。だいたい、現在も野鳥の会などは批判を展開している。 吉見は、この愛知万博の博覧会協会の企画調整会議の委員であった。矛盾に満ちた位置を選択した人のいいわけを聞いてみるという関心で読むこともできるだろう。 さて、論旨は、冒頭述べたように、万博が開発主義、ナショナリズムと結びついて開催されてきたが、それが変更されて、開発に対しては環境へシフトし、国家プロジェクトから市民参加へとシフトしてきているという流れが大きくは存在しているということを言っている。現在の愛知万博もいろんな揺れ戻しはあっても、少なくとも理念レベルではそちらへシフトしてきているという。 実際には、万博に付き物の石(月の石だったり、化石だったり)、空虚な未来映像だったり、開発主義とセットの文化交流だったりするだろう。しかし、そこに、20世紀万博を引きずりながらも、変化があると見ているようだ。 ただ本書で気になったことは、万博をなんのために開催するかという疑問を吉見は提出していない。だから応えてもいない。どうであったかだけが示されているだけだ。 二つには、環境問題に対して、「不十分であった」などという指摘は沢山出てくるが、その基準は示されない。個別の生物学者のようなデータを論じるように言ってるのではない。 三つには、市民参加の方向が肯定されているのだが、市民を操作する権力を想定する私としては、理性的合意についての前提が担保されないと大衆民主主義という権力による支配を脱することはできないのではないかと思う。 万博を見に行った人には、そこで受けた印象。刷り込まれた未来像、大衆動員の仕掛けなど教えてほしいものだ。テレビは、招待に応えて参加を促す報道の洪水だ。 (2005.3.19) |
Magazine154:脳を育む |
OECD教育研究革新センター編著『脳を育む 学習と教育の科学』明石書店、1800円と税金。 今、脳への関心が高い。ほとんどウソで固められた脳に関する情報も出版されているし、脳研究の知見とはほとんど関係ないことも関係があるかのように宣伝されている。それになんの根拠もなく乗る教育学者や教師もいる。 そうした状況がある中で、主催団体としては権威があるだろうOECDの3年間のプロジェクトまとめたものが本書である。脳科学、心理学、教育などの諸分野にわたる人が集まった国際シンポのまとめでもある。だから、それなりの水準の高さは期待できそうな枠組みである。 ところが、その期待は、かなりはずれる。まず、イギリスのクリストファー・ボール卿の執筆した部分は、かなりひどい。学習という概念が行動の持続的変容という行動主義心理学の定義という3世代前のままとなっていたり、脳機能イメージング法で脳の活動がわかってしまうかのように描いている。個人の歴史的・社会的関係と重なって遂行される人間活動が、脳の微弱な磁気の変動を映像化できたからといってわかるわけではない。外界からの単純な刺激に応じて人は活動するだけではない。本書に登場する多くの人は、そうした単純な外部刺激を受けて反応する大脳活動のごく一部を捉えることができるようになったことをもって、それでやがてすべてが解明されるかのように捉えている節がある。その傾向が強いのがその多くを執筆したボールである。 脳活動の制御によって、人の学習をコントロール可能と見る見方が色濃く存在する。脳活動に基盤をおくとして、制御可能と見る見方は、現状では誤っているという方が妥当だ。それは、ある種の生物学主義であり、社会的視野の欠落だからである。 実際、本書の中でも今のところ確実なのは、脳の可塑性だとしか書いていない。脳の欠損などの障碍を負った場合の可塑性、言語習得の適時性はあるかも知れないが可塑性の方が大きいなどと記されてもいる。脳科学も相当に粗雑であることだけは掴むことができる。 (2005.3.16) |
Magazine153:ごく一部同様な視角だが |
中央公論4月号が、「若者はなぜ勉強をすてたか」という特集を組んでいる。これまでに私が批判してきた山田昌弘も登場している。山田は、これまでの主張をこの雑誌に合わせて縮小再掲している。 今回、この雑誌を買ったのは、山田ではなく、竹内洋の「バブル学力崩壊後の大衆勉弱社会を歓迎する」があったから。竹内は関西大学の社会学専攻。こちらの議論は、私の意見に近い論点が一部にある。竹内の主張のいくつかを並べると以下となる。 1)学力低下論を主張する側は、学力エリートだ。学力ノンエリートの視点を持っていない。 2)かつて(70年代)は、大衆受験時代であったが、そのとき偏差値によって勉強へと駆り立てる手法が失敗した。今度は学力低下論によって大衆的に勉強に駆り立てようとしているがそれではかつてと同じだ。
上の二つは子安の主張に近い。
3)研究手法として、苅谷は日本の現在を階層格差社会としているが、PISAの調査では日本はその格差の少ない社会に分類されている。この点では苅谷の認識が間違っていないか、という。 3)の点は、PISA調査の指標からだから、苅谷には反論があるかも知れないが、当面話題の調査という点では考慮に値するだろう。 これ以降の主張は、竹内もエリートの視点から語っている話しで、私の意見と全く違う。要するに最後は、エリートと中間層とノンエリートの存在を前提に、それぞれの階層にはそれぞれの文化が生まれているのだから、下位層を叱咤激励するなという。別な言い方をすれば、竹内は、エリートの養成をもっとうまくやれる社会にという話になっていく。これもある種の階層社会論。私とは違う。私は、竹内の人への眼差しの中に違和感を感じ取った気がする。 (2005.3.12) |
Magazine152:読むことの教育 |
竹内常一『読むことの教育』山吹書店、2600円と税金。 国語教育でも日本語教育でもなく、やはり、「読むことの教育」というタイトルがふさわしいなと読み終えて思う。いわゆる、国語教師は読んで見たらいいのだが、後半にいくと国語教師でよいのかと問いかけられる。だから、国語教師だと思って疑わない人は読んだらいい。 私は、教育学それも教科教育に関心を寄せる者だから、その眼差しからどうしても読んでしまう。その観点からすると、次の指摘が興味深いし、共感したところでもある。 「教師が外部の権威者の作品研究に依拠して特定の読みを生徒に押しつけることはルール違反である」(78頁)これに類した文言は他にも出てくる。 私は、これを、国語という教科に限定して理解してはいない。他の教科にもあてはまるものと理解した。「○○の説によれば、△△はこのように捉えられる。だから、授業の内容として生徒に掴ませる認識はそれに見あったものに」という論理構成と授業構成を主張する議論に、その主張の危なさを理解していない場合にはそこに悲劇を見る。「ルール違反」という点を先の引用に続く文章で確かめてほしいものである。一つは、教師自身の理解をつくり出していないことにおいて違反であり、二つには、生徒と読みを創りあげられないという意味で違反なのである。 教師の正解主義は、国家主義と同じことが見えてくる。国家主義は国家にとっての正解へと生徒を導くものだが、教師の正解主義(科学主義も)それと同じ論理構造を持っている。説明という言葉と反駁という言葉が対比されていたが、その説明という言葉の上から下への一方的性格と反駁の双方向的性格の違いということである。 もう一つ、本書の根底にはバフチンの声と言葉に関する理論がある。一つの発話、一つの文に含まれるダイアローグ的性格を関係として、したがって政治として読み解くという構想がある。だから、作品における言葉を、視点人物、登場人物の関係として単層的にではなく複層的な関係を反映したものとして読み開くこと、それが読むことであると捉えている。しかも、それを読者たる生徒と共に新に読みかえる作業が必要なのだといっている。その作業の過程が授業の過程ということであろう。 高瀬舟や少年の日の思い出、あるいはクマにあったらどうするかという作品解釈の一つとして読んでも面白いだろうが、もう一つ、「犯し」「許す」とはどういうことかという問題として読むことこれも面白いと思う。高橋哲哉の『反哲学入門』をブログで紹介してあったら、その出版社の編集者からメールが届いていたが、その議論にもある「赦し」の問題とも連動している。こうした暴力に関わる観点からも読むことができる。 文章の検討は、来年度どこかの講義で取りあげてみたい気がしている。 (2005.3.9) |
Magazine151:地方分権研究会 |
今回は、本ではありません。見出しの研究会について新聞記事を見るまでは知らなかったのですが、一言記しておきたかった。 地方分権研究会は、多分、金子を中心に、地方自治体トップと経済界が結びついてできたもののようである。その活動の中心は政策評価にあるようだ。その一環として、教育分野での「学力テスト」が実施され、論述に弱いという結果が出たとニュースに流れたようだ。 前に、学校評価という金子の本を取りあげたので、そこに関連する自治体の例が取りあげられていたのもこれで納得がいった。私は金子が中教審の委員であった関係で文科省とつるんでの動きだと理解していたが、そういう連みもあるだろうが、それとは別にかようなプロジェクトを立ち上げていたのを見落としていた。 とりわけ、エリート養成のさきがけとなる取り組みも行っていたことを見落としていたことはうかつだった。別の文科省の動きは知っていたのだが、金子らもそれをしていたことは、日本のコミュニティスクール論の向かう道が見えた気がする。少なくともその大きな流れの部分は、エリート養成であることがはっきりしてきた。 哲学など(これも山折らですから方向がわかりますが。)の教養、経済界の成功体験談、いかだづくり、などでエリート養成となるのかどうかはっきりしませんが、それはともかく、こうした危険な試みにも注目しておいた方がいいと思われた。 岩手、宮城、神奈川、岐阜、和歌山、鳥取、福岡、佐賀の人たちにはテストを含めて、この研究会の実際の動きの情報を教えてほしいものである。 (2005.3.4) |
Magazine150:たべあるきnavi名古屋 |
昭文社、952円と税金。こういうガイドブックを買ったのは10年ぶり。少し視野を広げようと思ったんです。いつものところ以外にもいってみる価値はたぶんあるでしょう。 小さい版の本で、割引券はついてませんが私にはこういう方が便利。昔からの老舗もいくつか紹介されていましたが、新装開店がかなりあります。栄枯盛衰を感じます。 子安研の夕食会などが目的でながめましたが、「ここがいい」というのは本では探せませんでした。結局、名古屋駅で受付の人の感じが一番良かった店に決めました。 こういう本に書いてほしいのが、そういう情報と味のランキング。あり得ないことを期待してしまいました。もし載っていたら逆に信じられない事柄。(2005.3.4) |
Magazine149:桜が創った「日本」 |
佐藤俊樹、岩波書店、740円と税金。 今書いている原稿の素材に使おうと思っています。現在の桜イメージがそんなに昔のことではないことは知っていたのです。そうした情報を多角的に整理しておくにはコンパクトで便利な本です。 (続きを書くといってほっておいてしまった。) この本の仕組みは、各種の桜が過去の叙述の中でどのように語られていたかを、古くは古今集や新古今などにさかのぼり、中心は明治から大正・昭和の文献ですけど、その語りの眼差しを示すという手法です。CSの一種と考えていいと思われます。 内容的には、今や桜といえば染井吉野になってしまった経緯を明らかにするというものです。文献的に、ソメイヨシノと確認できるのは明治3年だそうですが、それ以前の各地の桜風景と、その後の桜風景の変遷をまずは、樹木に関する本などから示そうとしてます。 こうして、正確な起源はわからないが、和歌山の吉野とは関係なく、東京の染井にあっただろう桜にその名を付けられ、やがて、明治の20年代に広まり、大正・昭和に書けてはナショナリズムと多様に結びつけられながら、植樹されていった経緯が示されています。 そこで、多くの思いこみがつくり出されていったことを示していて面白い。 朝鮮や中国にそれらを植樹すると、そこに送り出された人は、その桜の風景を見て日本にいたときと同じという印象を持つように仕組まれ、均質な日本を体験していくことになったという。また、そうしたときに井上哲治郎のような人は、そこに縁を持ち出し、海外のその土地が日本と縁があったと考えていく思考様式を持っていたとする。なぜ縁があったと言えるのかは決して示されない。しかしここで持ち出される佐藤の皮肉はもっと良い。ワシントンに東京市が桜を送ったということを知っている人は多いと思いますが、その場合、ワシントンを縁があったという人はいない、と。ご都合主義的な神秘主義が持ち出され、根拠のない話しが沢山創られていった経緯が示されています。 その一つが、桜が兵隊に例えられ、その潔さについて、桜は長く咲くものもあったし、そもそもそんなことに注目が行くようになったのが昭和だなどと文献的叙述を示しながら書いてます。 これから桜の季節になり、ナショナリズムも動員されることでしょう。そんな時の酔い覚ましにいい本だと思います。桜に関する各種神話が取りあげられ、それを否定する文献的証拠がいろいろ示されていますから、授業を創ることがこの本をベースに可能なように思いました。 (2005.3.3) |