2005年5月1日 (日)

Magazine170:関係としての自己 

 今は、木村敏、みすず書房、2600円と税金、を読んでます。

 冒頭はニーチェの引用だから意味不明。イメージが語られるのでわかりません。しかし、各論の1章からは分かります。「わたし」の私的性格と公共的性格など、統合失調症などの症例を念頭に置いた記述ですが、まさに「私」は、全く別の角度から読んでます。「それぞれの私」という視点が特に今は気に入っています。

 たとえば、鏡像的他者という話しを何度もしてきたのですが、その鏡像的他者と向き合っている時の「わたし」の側から見た世界とはどうみえているのかなどと思いをめぐらしたことはあまりなかった。この本を読んでいてそんなことを教えられた。あるいは、反対に、「もう一人のわたし」の側からみた「わたし」がどう見えているのか、その感覚とはどんなものなのかというそんなことを記してあった。

 わたしと、自己と自分自身、三人称としての私だとか、アクチャルと行為との関係だとか咀嚼はできてないですけど、確実に世界を広げてくれた気がします。今月読んだ中では上質な本だと私には思われます。(2005,4,29)


Magazine169:Jポップとは何か 

 暇つぶしに読みました。烏賀陽弘道、岩波新書、780円と税金。

 産業としてのJポップを取り上げた本でした。新聞記者だった方のようで、その取材方法からまとめ上げたという印象が強い本です。だから、Jポップそのものに関わっていたとか、それを研究していたという訳ではないようです。だからなのか、私が知っていることがまとめられていたという印象を強く持ちました。その意味で新鮮さを感じなかった。

 1988年に造語されたというJポップが、産業の言葉としてつくられ、それが洋楽へのコンプレックスを多分に持ちながら作り上げられて行ったということ、それが、その後の展開にも影響していることが基調として読み取れます。たとえば、日本人風の名前から意味不明のローマ字名へと歌手の名前の付け方が変化したのも海外で売れない日本の歌との関係で説明されていました。つまり、せめて名前だけでも洋楽風にするという精神。政府系行事においてJポップの歌手が君が代を歌ったりすることの意味を政府と音楽業界が結託していく事情として記したりしています。あるいは宇多田への熱狂の意味も初めて英語らしい英語でひょっとすると米国で通用するかもという期待の中で売られていったことなどが記されています。今のところ、このもくろみは挫折しているようですが。

 この本は、あまり深まりがない。それはなぜなのか。

 教育という世界で子どもとともに調べ上げていく時に、深まりがないなと思うことがあるのは事実です。しかし他方で、そんなことはなくて、教育の世界で調べていく中で世界が違って見えてくる実践があるのも他方で事実です。

 本書は大人の元記者だから子どもでは調べられないようなことも調べています。しかし、子どもたちの調査のおもしろさに追いついてないんじゃないか、そんな思いが生まれたのも事実です。その原因の一つは、問題意識にあるかもしれません。途中何度か、「事柄の善し悪しはいったんおきます」という趣旨の文言が出てくるのです。これをおいて考察を省くためにそこで追求が中断されている気がするのです。違うでしょうか?(2005,4,27)


Magazine168:知の劇場、演劇の知 

 岡室美奈子編『知の劇場、演劇の知』ペリカン社、3400円と税金。

 若干の仕事の都合と趣味を兼ねて読んだ。ただし、欧米の演劇を生で見たことのほとんどない私には、人の名前や作品名を知っていたとしてもその劇そのものの批評の妥当性については判断できない。ただ、ブレヒトやベケットなどの作品は、本やテレビでは見たことがわずかにある。あるいは、『ゴドーを待ちながら』の上演に関わって、柄本明がイギリスだったかを旅するドキュメンタリー風の映像などは見たことがある。その程度のことしか知らない私には難解であったが、概ね20世紀の演劇動向をドイツとアメリカなど西欧を中心に記されていて、表現形式の意図と思考・思想の系譜が何となくつかめる。最後の章に、岡室による演劇の歴史に関わる基礎知識として大きな流れが示されているので参考になった。

 不条理演劇とはなんなのかというのを、私は国語的意味でそれを理解していたことも分かった。「ゴドーを待ちながら」の作品の批評を聞きながらをそうではなかったのだという発見をしたように思っている。不条理を道理に反するとか不合理なことと理解していたが、そうではなくて、意義の見いだされない空間の存在の提出にあり、その自覚が何を人にもたらすのかを問いかけているのだと理解した。以上の説明では意味不明だろうから蛇足をすると、この作品は、ゴドーが来ると救われると待っている二人に、「明日ゴドーが来る」という知らせが入る。そして明日も同じことが繰り返されて、幕となる作品だ。二人は待つという行為の間、待つことが行為なのだが、待つという時間つぶしをするために他の何かをすることになる。これが演劇的不条理。

 演劇の世界も社会思想に弱い世界だと言うことも見えた気がする。気のせいだろうか。

(2005.4.24)


Magazine167:モノグラフ・小学生ナウ

 ベネッセコーポレーション『モノグラフ・小学生ナウ』、頒価400円。

 値段が付いているが、教育関係機関にはこれまで申し込むと無料で郵送してもらえた。しかし、この春でこのシリーズの出版も終わるそうだ。時々参照していたので、残念であると同時に、これまで送ってもらっていたことに感謝したい。

 最後のデータは、「男の子の世界・女の子の世界」。

 何に恥ずかしがるかという点で、男女ともみんなの前で先生に注意されたときが(70,8と90,1)で1位。数値は前が男で後が女で、すべて%です。続いて、忘れ物をしたとき(68,6と83,4)、ズルがばれたとき(64,9と81,8)。授業中に指されて答えられないとき、宿題を忘れたときと続きます。恥ずかしがるのは、どれも女子が高い値です。

 また、委員や係は女子の方が、報告書の言葉によれば「意欲的」で、給食をよく食べるのは圧倒的に男子で、反対に字がきれいなのは圧倒的に女子だと答えています。「意欲的」というよりも、ジェンダーバイアスのかかった「まじめ」という方が適切なように思われた。

 とすれば、ジェンダーバイアスはまだまだ沢山かかっている現状があるということです。これを八木某はどうみるのだろうか。それでもジェンダーフリー教育で日本がおかしくなっているというのだろうか。このデータから見る限り、まだまだジェンダーフリー教育は十分に行われていない。むしろ、ジェンダー固定化教育がまかり通っているとしかいいようがないと思うのですが。誠に残念な状況ではないでしょうか。

 一番興味深かったのは、それぞれの自己像を聞いた項目です。たとえば、「ともだちがおおい」「体が丈夫」『少しくらいのことでへこまない」など。これらの回答結果を見た深谷は、女子が元気というけれど、それほど大きな違いがないと指摘していることです。そして女子の自己像の低さは相変わらずだと記しています。それは、社会的な状況であるように思われるのです。(2005.4.20)


Magazine166:格差社会を超えて 

 暉峻淑子、岩波ブックレット、480円と税金。

 今月ここに記した本の中では一番おすすめです。格差社会を肯定する新旧自由主義者、並びに格差社会の論証にだけ関心をよせて、格差社会を生き残れという社会学者たちとは異なる視点がこの本にはあると思います。

 冒頭の「生活者」という視点が古い言葉ながら今新鮮な気がした。次のようにいいます。「生活者とは人権を持つ者ですから、「犠牲や差別」となじまない本質をもっていると思います。」「生活者とは人間らしい社会とは何かを問い、それを実現しようと行動する人たちのこと」

 階層化される社会という話しを聞くと、それが必然で仕方がないことと思いこまされがちですが、そんなことはないと踏みとどまりたい人は、読むべきだと思います。あるいは、今は新自由主義を信奉していても、そこから、自分自身がはずされてきている自覚のある人も読むといいと思う。

 冒頭の定義に明らかなのだが、格差が広がっているのであれば、それを社会として肯定するのではなく、その格差を是正する政策を行うことに政府の存在意義があることを、いろんな数値も挙げながら論じている。

 例えば、消費税。1989年から2004年までの消費税総額が130兆1000億円。消費税導入理由には、高齢化社会対策に必要な税と説明されたが、89年から98年までの消費税70兆8474億円の内で、高齢者福祉のゴールドプランに使われた額は、5兆2709億円で、7,4%にすぎない。などとその欺瞞性が示されていきます。教育政策にも言及されていて平等の教育を今再び立ち上げることへとはげまされることでしょう。

(2005.4.18)


Magazine165:「負けた教」の信者たち

 斉藤環、中央公論新社、760円と税金。

 斉藤といえば、ひきこもり治療の精神科医で、ゲーム脳という議論をする人への痛烈な批判で知られている。その中央公論などへの連載の新書化。

 この本の帯に「自信のなさなら誰にも負けない」というキャプションがある。その方が本のタイトルより印象的だ。とは言え、内容を本のタイトルあるいはキャプションから想定すると、直接関係のあることは、はじめにと最後の章だけだ。他は、それぞれ別の関心から読まないといけない。さらに、1章から5章の記述にもなるほどと思うこともあるけれども、そのいくつかには?の印象をもつものもあった。

 逆に、面白いと思った点あるいは表現をわずかに挙げておきたい。

 26頁。心理学主義を批判して、そこにあるのは科学の側面を捨象した心理学だという。

 105頁以下。情報操作の専門家をスピン・ドクターというのだそうだが、その手法が大量に導入されている今日、これを逆利用できるという状態が生まれていると指摘している。つまり、操作情報を大量にばらまくことによって、自己を隠蔽できるようになるという話し。イラク関連のスピン・ドクターを大量に雇ったアメリカや英国を皮肉っているだけではないように思われた。

 118頁。「異物と化した子どもたちを、もう一度私たちと地続きの、血の通った存在として回復するためにも、私たちは今一度、情報化されえない「関係性」の価値に目を凝らす必要があるのではないだろうか」

 「負けた」教の信者について、それは、対象にシリアスに関わるか、逆に無関心の二つしか選択肢がないかのようなイメージが、「自己イメージ」に起こっているのではないかとしている。シニカルさの作法がなくなって来る中で生まれているという。

 そんな風に自己イメージを掴むのではなく、本当の自分などありうるのかという懐疑のもとにそれでも自己に執着すること。そして、そのようなシニシズムを通じて維持される無根拠な自信が重要だという。それがどのように可能になるのか分からないが、変化に向けて開いておくことはムダじゃないという。そんな気はする。このあたりは、222頁付近。

 二つしかなく、間が消えているというつかみ方は、私が以前に記したことと同じことのようだ。(社会と直結する傾向についての記述)

 途中に世代論的比喩があまり根拠のないこととして記されていたが、印象的であった。それは、「全共闘世代はなんでもできるが何にも知らない。新人類世代はなんでも知っているが何もできない。団塊ジュニア世代は、なんでも知っていてなんでもできるが、なにもしたくない。」

 少々文章を略すが、全共闘世代の「濃さ」「鬱陶しさ」は「社会性への固執」だと言っている点も、何となくわかる気がする。全共闘だからといって、新左翼出身者だけを指していっているわけではない。「世代」なので、その時期を生きた実感のある前後(もっと年上も年下も含む世代)左右(政治的な立場はなんであれ)へ向けての言葉。(2005.4.15) 


Magazine164:成果主義神話の崩壊 

 斉藤貴男、東京管理職ユニオン編著、旬報社、1300円と税金。

 成果主義の本拠とも言える企業内でどのような実態があるのかを、企業ごとの事例を挙げながら示した本である。また、その原則的な問題なども簡潔に示されている。学校にもこの成果主義という考え方に影響を受けた言説が入り込んでいるが、そして、成果主義こそ動かしがたい救いの神のような方法だという言い方が入り込んできているが、それが全くの根拠のない話しだということが見えてくる。少なくとも、そういう言説に有効に反論できなくて元気をなくしている人は、読むと、成果主義が錦の御旗ではなく職場を破壊していくだけの代物だということが見えてくる。

 それはなにより、成果主義は、はかるべき成果が何であるかを確定できないという基本問題がまず浮かび上がってくるからである。世の中数値化が進められているが、その数値が何を表しているのか不明であることが多い。また、その成果を生み出した要因についても、実は、確定できないという問題があることがわかってくる。

 さらに、その成果に基づく個人の査定・評価が行われるのだが、要因がわからないのに査定が正確に行われるはずがない。こうして実態としては、恣意的査定が行われていき、結局、賃金の下落だけが発生するということが見えてくる。

 すでに、このところの意識調査では、成果主義を是とする労働者は10%台となっており、圧倒的多数がこれを支持しなくなっている。経営者は相変わらず半数あまりが肯定的に受けとめているが、富士通等いくつかの会社はこれを修正してきている。

 最後に、成果主義とどう闘うかという章では、成果主義賃金体系の導入に当たって労働者と法的に有意味な協定を締結していない会社が多いことをあげ、裁判では勝利できる可能性のあることを一つは示し、もうひとつは、成果主義によって本当に成果が現れたのかを争うという道のあることが示されている。(2005.4.12)


Magazine163:世界5月号

 780円、岩波書店。競争させれば学力は上がるのか?が特集。

 佐藤さん、岩川さんが特集タイトルに穏当な意見を述べている。それぞれすでに語られた議論なのでまだの方はどうぞ。また、競争のないスウェーデンの実状を報告した広瀬さんの文章もまだの方はどうぞ。という感じ。

 特集よりも、今タイミング的には、人権擁護法案の議論の動向をみながら、本来の人権擁護とはどうあってほしいのかということをコンパクトにまとめている山崎論文が一つはおすすめです。メディア規制に関わって人権擁護法案に私も賛成ではないのですが、人権擁護の仕組みは必要だと思います。今の与党と野党の多くは、人権擁護の名の下に政治家のことを勝手に記事にさせない仕組みをつくりたがっているだけだと思う。

 もう一つは、日韓関係の記事がいいタイミングで載っていると思う。竹島の帰属問題に関わって、それぞれがただ、自国の領土だというのはどちらにも説得力がなく、歴史的経緯を踏まえる必要があることを主張している。そして、島根県が拙速に決議してしまったのは、漁業問題という経済問題について日韓の交渉を政府が誠実にしてこなかったことが底流にあることを示し、これをきちんと行っていさえすればこれほどの問題にならなかっただろうという。

 また、過去の文献や歴史に基づいて考えると、日本の領土だという主張の法が分が悪いことも誠実に示している。1905年に日本の領土としたのだが、これこそがもともと韓国の領土だという証明となってしまうことや韓国併合という歴史事実の中でそれらが進められたこと、その後のこの島の帰属をめぐる論文が並べられているので、何となくナショナリズムを感じている人には読んでおくといいと思った。

(2005.4.10)


Magazine162:東大教授の通信簿 

 平凡社新書、720円と税金。

 これは、おすすめの本ではありません。タイトル通りの軽さ。

 大学における講義もしくは教育活動の一部についての調査を軽く流用して作成された本のようです。夕方、オレンジ色のタブロイド紙を買って帰るという著者ですが、軽い表現をしながら相当強引な行動をとっていることが本文から読み取れます。各所に「脅して」というような表現が出てきます。そんなこんなで、私の視点からすると嫌いなタイプの人だなと推定してます。

 それでも、三点わかったことがあります。

 一つは、生物への興味を促すのに、「まず生き物を見せることだ」という主張は必ずしも妥当しないといっていた部分。これに直ちに賛成したわけではなく、そのような視点もあってしかるべきだということ。

 二つには、講義の種類によりますが、何の準備もなく講義に出席する学生が東大の場合、44%から82%くらいまでいるということ。こうしたことについての講義を問わないトータルでの調査は記憶にその痕跡があるのですが、講義ごとの調査を知らなかったので、傾向がわかりました。

 三つには、人間の行動について分子生物学からの知見はあまり役に立たないのかもしれないという疑問を登場させるということもわかりました。

 その理由は、以下のような事例に由来します。たとえば、最後の章付近に、大学教員の男女比などが記されているのですが、男性研究者に負けないように「女性研究者ががんばれ」ということに結局なっていたり、大学教員が2倍働くと給料が上がり、学生も2倍勉強するというあり得ないことが書いてあったりしたからです。その証拠に、私は、2倍の講義を担当していますが、給料は2倍どころか同じに向かう兆しさえありません。

(2005.4.8)


Magazine161:現代思想2005-4 

 教育現場の変貌が特集タイトル。おっと忘れてました。青土社、1238円と税金。

 さて、特集タイトルに沿って、読んで気になったのは、一つが大内裕和のもの。インタビューに応えた形式で書かれている。教育改革の底流にグローバル化があるとか、教職員バッシングの原因などについては私も概ね同様な見解となる。違うのは、学校解体論批判という小見出し前後の所だ。最も違うかも知れないのは、「教育というのは権力的行為」だというところ。私も「権力的行為」だと思うのだが、大内のようにその行為の中で子どもにどんな権利と自由を確保するかという問題の立て方ではなくて、社会的には権力的行為と見なされたとしても子どもの自主性や自立性を前提にしか教育活動ができないということに注目したいと思う。大内は、教育する側の視点だけで議論している気がするわけだ。なんだか権力的行為だと断定することで、教師を癒している感じ。しかし、権力的行為は、貫徹されながら、教育現実の場面ではそれほど貫徹はされないものでもあると思うわけだ。

 もう一つは、佐藤学の教職専門職大学院構想への提案だ。これは先月末の教育学会のシンポジュウムでもきっと同じ話しをしたであろうけれども、一つは、文科省の構想が職業教育としての教師教育的というか、昔の師範学校風という点への原則的批判となっていることは、確認しておいていいだろう。

 今後、論議を呼ぶと思われるのは、教科教育学は学問として成立しないと言った部分だ。その理由を必ずしも明示していないから、東大の現状スタッフによる専門職大学院設置の布石と取られる可能性を含む。これで一挙に敵が増えることになるかも知れない。もっとも、和解の方向もなくはない。教科教育学スタッフの位置づけを変更すればいいからだ。

 三宅の教育における感情労働の導入という話しも読むべきだが、160で述べた高橋の「国柄論」が現代思想に記されている。こちらは、よりはっきりと「国柄論」は「国体論」ではないかと指摘している。教育現場の変貌そのものについての文章も悪くはない。

(2005.4.5)


Magazine160:前夜3号 

 影書房、1400円と税金。『前夜』の言葉にブレヒトが引用されていた。一部を引用しておこう「わらう者はおそろしい知らせをまだ受けとらない者だけだ。」

 さて、「戦後」とは何だったのか。これが今号の討論テーマ。高橋哲哉、中野敏男、中西新太郎、徐京植が、長く議論している。その中の注目は、高橋が江藤淳の国柄論を持ち出した部分だ。江藤が法律論、政治論などより重要なものは文化論とした議論を現在の憲法論議にトレースした部分である。この国柄論が今の憲法論議でも利用され、政教分離も、両性の平等も国柄に合わせようと言い出しているとして批判している。つまり、日本的な政教分離というのを主張したり、日本的な両性の平等をやればいいと言うわけだ。それは、そんなものがあると錯覚させて、実際は政教癒着、両性の不平等を言っているだけなのだ。

 これを受けて、中西が、八木秀次の『「反」人権宣言』の論理も人権の存立を国家があることを前提にしているために、日本の国柄に合わせた人権ということで、人権を変質させようとしていると指摘する。具体的には、日本人と在日朝鮮人の人権に格差をつけ、潜在的に危険な存在としての青少年などを二級市民にしていく。こうして人権が人によって異なるという、天賦人権論の近代原則が簡単にひっくり返されていく。そういう問題があることを指摘している。

 この議論は重要だ。国柄として日本と日本人が前提されているが、それが前提とはならないことを示していくことが必要である。その後も、アメリカの人権外交なるものがその名によって人権の否定を執行しているという矛盾を持ちながら、矛盾と見ない構造を話題にしており興味深い内容となっている。

 他に、テッサモーリススズキ、坪井の論が面白い。テッサは、入管法と国籍の区分の問題を取りあげている。坪井は、ノーデ兄弟の9.11というフィルムについて紹介し、アメリカや日本で報道においてほとんど無視されていったこと=消防士が死ななくて済んだことなどを論じている。

(2005.4.3)

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