2005年6月1日 (水)
Magazine183:クレスコ6月号 |
全教編、『クレスコ6月号』大月書店、476円と税金。 誰のための評価かという特集で、私の参加しているMLで話題になったので参考までに買ってみた。参加しているところでの話題の関心は、個々の教師が目標をどう書くかというところにあったので、関連する記事の論調とズレを感じた。 それは、評価とは?教師評価の原則は?組合として評価の委員会の中では?という観点から書かれてあって、これではあまり参考にならないと思った。各地の状況は、今その次の段階に入っていて、編集・企画した時期と発行時期が合わなかったのではないかと思う。 各地では、個々人が目標を書くことが具体的に始まっている。組合が各地の評価基準などの制定の委員会に入っていたとすれば、そこで決めたことが各学校や教師の所に降りてきている段階だ。組合が入っていたとして安閑としていられるわけではない。だから、どう書くかは死活問題だ。そこに踏み込んだ記事がないと思う。 私は、教師が目標を書くときに、数値目標のようなものは決して書いてはならないと思う。教育活動にふさわしくない。具体的に書くように全国的に言ってきているようだが、企業でもやめ始めている成果主義にのって書いてはならない。できないことを目標にすることになる確率が高くなるばかりでなく、数値化できそうな教育活動ばかりを行うことになるからだ。これは、企業で試され済みの弊害だ。 各地の評価のあり方について検討する会議の中に組合が入って決めたところこそ、教師がそれをどうかくかに係わって踏み込んだ内容を記事にすべきでしょう。 (2005.5.31) |
Magazine182:歴史地理教育6月号 |
歴史教育者協議会の機関誌。648円と税金。 6月号は、私には久しぶりに面白い内容であった。その一つは、安川寿之輔が福沢諭吉を民族差別主義者あるいは天皇主義者から救い出そうとする試みを批判した論文があること。近代主義者として崇めておきたい人たちへの厳しい批判がなかなか良い。 もう一つは、何と言っても「水から見える世界」という特集にある。これが少々斬新だ。従来は、人間にとっての飲料水という観点から記されているけれども、その絶対量は極めて少ないという事実から、むしろ食物の栽培、動物の飼育、ものの生産に必要な水の量という観点から、各種食料の生産に消費される水の量を計算している。沖大幹という方の文章のわかりやすさもあって、どれほど水が使われているのかがわかって興味深い。それが、例えば、牛丼一杯水2トンという数値となっている。 そうした食料が日本に輸入されているということは、それを消費した水の量に換算するとどれほど日本が水を輸入しているかも見える。そんな計算を色々させてくれる。そのとりあえずの授業化は若木さんのような構想が一つだと思う。しかし、なんだか物足りない気がする。それが何に由来するのか自分でもはっきりしないところがある。思い当たることが二つあるけれどもここではまず一つ。最後の部分で、なんだか他に考えようがない落ちとなっていることが一つ。 中妻さんの授業構想について、官制研究会の制約が記されているがどこにそれを特に感じたのか知りたいと思った。直接聞いてみましょう。 (2005.5.28) |
Magazine181:サルトル |
海老坂武『サルトル』岩波新書、740円と税金。 今年はサルトル生誕100年だという帯にひかれて買った。高校時代に『存在と無』とか『嘔吐』とか読み始めて、ほとんど理解できなかったことを思い出し、その後20代の頃には、もう少し理解する努力をしていたことを思い出し読んでみた。 本書を読みながら、サルトルの何に当時ひかれていたのかを思い出した。それは、「対他存在」ということに関わっていたらしい。海老坂の理解を参照するとどうもそうらしい。海老坂によれば、「対他存在」というのは、他者にとって表れる存在のことで、自己の側からの自己についての意識とは違って、他者が自己についてもつ意識を指しているのだそうだ。そんなことが気になる年齢だったからだろう。 本書の後半は、サルトルが社会的発言を沢山していったのだが、そのことを取りあげながらその視点についての評論に多くが費やされている。この議論は、なんだか成功していないと私は思う。一つは、サルトルのいたフランス共産党がソビエト共産党よりだったという歴史的背景を描いていないからだと思う。あるいは、フランスがドイツに降伏し、ドイツへの協力やその時の対独抵抗運動の中にも様々な誤りがあったことなどほとんど触れられていないこと、それらとの関わりでサルトルを位置づける必要があるんじゃないかと思った。そういう状況の中で、ハンガリーへのソビエト侵入を批判した声明をサルトルが発表したわけだが、そんなこんなの論及が今ひとつないことが不満の原因のようだ。 そして、二つには、サルトルが毛沢東思想に近かったことを指摘しているが、毛沢東思想への批判的眼差しが海老坂の論述では明確でないせいだと思う。人間にとっての「暴力と友愛」の二つの関係についての議論へと収斂しているように思われるためになんだか新鮮さに欠けると思ってしまった。 それは、168頁の「私と私の隣人が<同等者>としての主体<われわれ>を成立させる関係、それが友愛ー同胞愛」といい、これは暴力を呼び込むときちんと指摘しながら、主体相互の関係を友愛の関係として掴んでしまっている点に不満を覚えた。主体相互の関係は、友愛という限定された把握でなくてもいいのに、それ以外の可能性について展開されていないように思うからだ。(2005.5.26) |
| Magazine180:子どもの「事件」と向き合う |
あいち県民教育所編『子どもの「事件」と向き合う』あいち民研叢書第15号、頒価700円。(一般書店には並びません、あいち民研のHPからメールをするなどしてご注文ください。私のトップページにもリンクが張ってあります。) 主たる内容は、保護観察官を長くされている木村隆夫さんの講演と、シンポの記録です。今過日の監禁事件で保護観察官や保護司の役割が注目されていますが、そうしたことに関心のある方には一読を勧めたいと思います。もっとも、注目のされ方が、保護観察となった人をいつまでも監視し続けようというような趣旨の報道が流されていることには危惧を覚えます。ここにも恐ろしい監視社会の心が見える気がします。 しかし、大切なことは、木村さんも講演の中で述べていましたが、保護観察官が圧倒的に少ないことです。保護司との連携も十分にとれないほどの仕事が一人の人にかかっているということです。いろんな保護司さんがいるという話しも興味深かった。校長上がりの保護司さんの中には命令的な人がいたりすることがあって、うまくいかないこともあるようですが、交流する中でそれとは違った対応の仕方を学んでいくんだそうです。 さて、講演の中身では、いくつか注目される発言があります。一つは、共感し合うことの大切さを、三重県の中学校の校長の対応を例に話されています。特攻服での卒業式を要求する生徒に、単純に拒否するのではなく、その理由があるだろうと卒業式後に特攻服を着て記念写真を門の所でとるということにします。その特攻服には母親への感謝の刺繍があったと言います。だから着ないわけにはいかなかったというのです。こうして卒業していったと。 もう一つは、特別支援教育についての発言です。学校教師と、保護司、ソーシャルワーカー、カウンセラーについての役割の違いと相互の交流の必要性についての発言です。今のところ互いに分かり合うにはほど遠い現状があること、それぞれのアプローチについての相互理解の必要性が語られています。 それぞれのアプローチの評価についてはいろんな意見もあるでしょうが、相互理解の必要性については指摘の通りだと思います。 その後の論議も拡散的ではあるが、意見の分散具合が現状を示しているように思われます。 年報も刊行されました。あわせてどうぞ。 (2005,5,24) |
| Magazine179:教育6月号 |
いつもの教科研の機関誌。国土社、667円と税金。 特集タイトルがフィンランドの教育だったから、生協でも珍しくすでに売り切れていた。特集タイトルの勝利ということでしょう。 ただし、内容上は、私にとっては新鮮さに欠けていて、すでに知っている内容や論点であることが多くて今ひとつ。中嶋さんのお話は、それとして大切ですが、すでにネットで配信されていたりしてちょっと時期を失した感じ。そうした中で、田中孝彦さんのフィンランドの教育への懐疑はもっともだと思いました。「フィンランドの教育」と括ることに抵抗感がないでもないのですが、日本の多元的能力主義=ゆとり教育を批判し、教育の保守化運動を批判する一つの観点として参照する事柄もあるかもしれません。 印象に残った文章は、サイドウェイという映画評。これはいつか見てみたいと思った。これから検索をかけて、どこでやってるのかとか探そうと思います。失意の中からわずかもしれないけれども、しかも、希望が急に膨らんで夢が叶ったりするわけではないけれど、生きていくことに期待を寄せていいと思われる作品らしい。 (2005.5.21) |
| Magazine178:イメージを読む |
若桑みどり、筑摩書房、880円と税金。 十年ちょっと前に刊行された本の文庫化。ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、デューラー、ジョルジョーネという15世紀から16世紀の画家の作品を素材に、絵画の読み方と、絵画に込められた思想、意味を読む本。色や形式や構図の様式、人間の歴史に位置づける図像解釈学、描かれたものの主題と意味を解明する図像学。この三つの方法が全体として示されていく。 本文前半で「芸術とは思想だ」と断定しているのだが、そのことが納得させられる。一番おしまいのあたりで、画家は描きたいものを描いたにすぎないという見方を批判して述べた次の指摘は記憶に残したいものだ。「彼がそれをなぜ見たのか、どのように見たのか」これに応えるには画家がイメージに込めた意味や思想を理解する必要があるといいます。その作者の目に、自分の目を重ねていくのだと。そうして、自分の意味を引きだし、引きだす過程にコミュニケーションがあるといいます。(238頁以下)このあたりが論理の問題としては興味深かった。 途中も、いろんな最後の審判の絵の違いを挙げながらそこに宗教改革の時代像を読む論述も興味深かったし、有名なモナリザのなぞについての論述も興味深いものであった。 あるいはまた、アカデミアーと工房の思想の違い。高利貸しや泥棒という職業が土星だとか(どちらも貯め込んだ金を土に埋めるからなんだそうです)、知らなかったことが沢山。 最低限必要な絵も入っているので一応参考となりますが、何しろ文庫ですからそのサイズとモノトーンという限界はあります。絵の細部にわたる読みの記述を文庫で確認するのはちと厳しかった。しかし、この本は、私的にはお薦めでした。(2005.5.19) |
Magazine177:「大学評価」を評価する |
大学評価学会年報編集委員会、大学評価学会発行、晃洋書房、2000円と税金。 創刊号ということで、今日の事態をよく現している構成となっている。冒頭の池内は、本来物理学者だ。池内は、国立大学の法人化を組合の役員として体験する中で、その評価の問題性を指摘する。それは、一つは数値として明確化することの危険性を強調する。この点は、私も学内の中期目標づくりに一部タッチしたときに発言していたこと同じだ。無意味な数値が大学の首を絞め、大学の本来の研究と教育にとっての意味を失わせていくことなどを示していてわかりやすい。話しは飛ぶが、池内が中日新聞で、時間は「めぐる」もので、追いかけたり追いついたりするものではないということを書いていた。JRに引っかけての記事だったが、観点として面白い指摘だと思った。 他には、もう少し評価そのものを研究する人が登場する。要するに今進行している大学評価の導入の経緯、大学評価の目的と、評価が大学にとって本当に意義があることなのかどうかを蔵原は検討している。 評価の恣意性、評価のインセンティブに妥当性があるか、評価に応じて格差を付けることが本来妥当な処遇なのかどうかといったことなどを碓井、細井が検討している。 大学の評価にタッチせざるを得ない立場のものは、こうした論文には目を通しておいていいだろう。また、評価と評価に応じた処遇を当然と見なす意見が世間には多いが、そこにどのような根拠があるのか、実は根拠がないかもしれないという思いに浸って見たい人は読んで頂きたいと思う。人事考課の考え方を大学に持ち込むことの妥当性が証明されていないことも見えてくるように思った。したがって、今日の労務管理政策、動向に疑義をもつ人も読むこと期待される。 この学会はいかなる発展を遂げることができるかどうか、それはわからないが、当面、その需要があることだけは確かである。(2005.5.16) |
Magazine176:子どもが減って何が悪いか |
赤川学、ちくま新書、700円と税金。 この本は、現在の少子化対策や少子化対策を行う上で言説化されている「男女共同参画社会の実現が少子化対策となる」を批判した本である。 その批判の手法は、かなりシュール。単純な一部の保守派の人が自己を癒すために読む本とは言えないけれども、そそっかしい人はそのように読むかもしれない。そんな風に読んでいるブログを見たことがある。 赤川は、冒頭の命題の根拠となるデータならびにデータ処理の仕方をまずもって批判している。そうした処理の仕方について主として3章までで検討を加え、少子化の何が問題かなどについては、残りの章で検討している。要するに、男女共同参画社会を推進しても少子化の歯止めとならないことを示し、少子化対策に有効だから男女共同参画社会を進めようという論理立てを批判しているわけだ。赤川は男女共同参画社会を否定しているのではない。何度もそうじゃないんだという。確かに、スウェーデンやオランダを絶対視する議論は間違いだという主張は理解できる。 それでもこの赤川の議論がフェミニズムの側からいぶかしがられるのは、わかるような気がする。それは、少子化対策という位置づけを排除することはいいとしても、男女共同参画社会に向けた政策について個人の選択に委ねる政策が理想だとなぜか推奨されているからである。例えば、185頁付近で、介護に対するサービス給付か現金給付かという議論に関わって、個人が選べるようにすべきだという。どちらを選ぶかは、当事者の合意によるべきだという。ここには当事者が自由な意思によって選択できるというありえない前提がたてられているように思われる。赤川は、そうした地点における政治は見ない。だから、当事者の合意なるものが一方の立場に不利に働くという政治について視野の外に置かれているように思われる。少なくとも現在の社会の中では、その政治が働くと考える方がリアリティがあるだろう。そのことを考慮した上で選択という道をどう確保するかと議論していかないと多くは賛同しないような気がする。 また、少子化の原因について、少子化がもたらす状況に関する多様な論者の推測についての検討はあるけれども、少子化の原因を赤川が探求しているわけでもない。この点も不満足感をを読者に与える。 データの取り方や、原因と結果の関係について考える本としてはいいかもしれない。例えば、「青少年は凶悪化したと思うか?その原因はなんだと思うか?」というような類の調査のように、最近の調査においてしばしば見られるように、ほとんど人気投票と同じじゃないかと思い直してみたりするにはいいかもしれない。 繰り返すけれども、赤川は「少子化対策は有効だ」という主張の根拠について反証したけれども、「少子化対策は有効でない」という根拠をデータを集めて論証したわけではない。あるいは、他の実現していない政策可能性について検討したわけではない。少子化対策が必要かどうかは置くとしても、どのような男女共同参画社会の対策がどの程度実現したかを計測しながらそのことを議論しているわけではない。世間で有効だというデータから、有効でないということが言えるということを言っているだけである。ここもその道の研究者からすると批判を呼ぶ原因なのかもしれない。 (2005.5.13) |
Magazine175:教育5月号 |
教育科学研究会の機関誌。もう6月号が出るころだけれども、ようやく座談会を読んだので一言。この号の特集は、学力論のようだ。学習という言葉も特集には付いていたけれども、なんだかそのように思えなかった。具体的な授業実践報告もあるので読みがいはあると思う。私の関心からすると、岸田さんの習熟度別のクラスで起こっていることを書いてくれたものが興味深かった。 私としては座談会の一部分が考える素材を提供してくれていて有益だったので、ここにも記そうというきになったのだが、それは、74ページあたりからの議論である。つまり、学力格差を生む原因への三つの対応という区分をしている小玉さんの発言からの議論である。一つは、従来の能力主義を維持する路線。二つは能力主義からあぶれる者は能力主義の世界から排除し、排除された者をセーフティネットへと絡め取る路線。三つ目は、多元化された能力主義を架橋する路線。 この三つの路線区分の三つ目を私も考えたいと思っているわけだが、それを多文化的な教養と言ったこともあるのだが、この三つ目の世界をどのように構想するかそこが研究としては重要だと思う。こうした方向にあまり賛成でない意見を表明しているのが小林さん。学習の話しへと戻したがっている議論を田中さんがしていくので、途中話題は変わっていくけれども、異なる文化性や価値観を持つ者がともに暮らす世界を、教育においてどのように教えていくのか、そこが研究としては焦点となるように思われる。 それでも、仮にそれが焦点だとしても、従来からの教科学習の一切が変わってしまうわけではないことも当面必然だとすれば、それを、二元論的に説明する枠組みが単純でいいけれども、それ以外の道がないかどうかも検討して行きたいものだと思う。その研究が、実践的な試みにおいて追求するスタイルとして広がっていくことを期待したいし、細々と続けたいものだ。 話は飛ぶけれども、この号に登場する坂本洋子さんは、絶望に効く薬の第二巻に登場する坂本洋子さんと同一人物、それとも別人?とふと疑問に。 (2005.5.11) |
Magazine174:絶望に効く薬 |
山田玲司、小学館、619円と税金。 都筑さんのサイトを見て購入することに。今はたぶん、1巻から3巻まで出ている。ゴールデンウイーク中に4巻が発売になるはずなのだが、今日は見つけられなかった。 今日は、その1巻だけを読んだ。1巻は、山田玲司が1日86人が自殺している日本の中で、絶望に効く薬を求めて、マンガやお笑いタレント、サーファー、ホスト、占い師、文化人類学者、逗子市長を訪ねてインタビューしたときの話しを描いたマンガである。 本の最後に、絶望に効く「希望のライム」がそれぞれに示されている。私的にライムとしていいと思ったものは、みうらじゅんの「不自然でいこう」。中村征夫「やる時はやる、やらない時は何もしない」。関野吉晴「つつましく、やさしく、ゆったりと」。この三つがなぜいいかは私の趣味と、本の中の具体例に依存している。 多様な人に、多様な面白さを見いだしている点で山田という漫画家に柔軟性を感じなくもない。ただ、インタビューとしてはやはり面白いものと「今ひとつ」はやはりあるかなと思う。しかし、それは、山田がインタビューした人にどれほど感銘を受けたか、その程度の差がいくらか影響しているのかもしれない。 一つ一つは短いけれども、いろんな契機で人生が切り開かれていることがわかる。それぞれの人生についての評価は、それぞれの具体的人間を知っている人からすると異なるかもしれないが、多様な契機によって人生が切り開かれるという事実から希望を見いだすことはできそうな気がした。(2005,5,8) |
Magazine173:戦後日本の社会と市民意識 |
有末賢・関根政美編、慶應義塾大学出版会、3500円と税金。 全15巻の内の第7巻として税金を投入してつくられた本である。この巻の中で私の関心のあるテーマを執筆しているのは、有末賢の戦後日本の市民意識と社会科学、塩原良和の多文化的市民のための多様な多文化主義、テッサ・モーリス=スズキの戦後日本の出入国管理と外国人政策、関根政美の多文化社会化する欧州の極右台頭と多文化社会日本、水野宏美の戦後日本の家族社会学者・小山隆とアメリカ社会学、和田悠の鶴見俊輔と「思想の科学」の1950年代。他の論考はちょっと関心外。 塩原の出だしは多様な多文化主義が同時に一つの地域に存在しているというところから議論を始めていて興味をそそられたが中後半に至るにつれ議論の有効性を疑ってしまった。次のテッサの大村入国者収容所を介した議論はまずまず興味深く読んだ。ワイルドゾーンの構築と民主化の関連についての指摘が特に参考になった。関根の極右の研究は多文化主義の定義の曖昧さを昔から引きずっている点で残念なのだが、欧州における動向を簡便に知ることはできる。水野の論文は丹念にレビューされているように思われていい論文だと思った。ただ最後の小山評価はどうなんでしょうとも。和田の論文最後には市民社会における知識人と民衆もしくは市民との関係についての構想が示唆されているようだが、その意味はまだ論じられていない。今後どこかに発表されていくのだろうが、自己教育の主体を育てるという「啓蒙主義」は、啓蒙主義の内なのかそれを越えた見地なのか明確に位置づけた議論を期待したい。 (2005.5.5) |
Magazine172:クレスコ5月号 |
ブログに書いたが、こちらの方が長く設置しておく可能性が高いことと、読む人が一部異なるらしいので再掲することにする。ただし一部改訂されていて、ぼかした部分をなお遠慮がちだが記すことになろう。 クレスコ5月号に三つの学力論に関わる三人の文章がある。正確に言うと、もう一つ編集部の特集についての趣旨説明にあたる文章もある。これが、全教の役員レベルの学力論だろうと推認される。 さて、梅原論文は、二つの学力調査から、「日本の学力問題には、小学校低学年からの落ちこぼし、応用のきかない詰め込み型学力、学習意欲や自己評価の衰退、社会階層と学力レベルの相関関係、生きる力への結びにくさなど多くの問題が絡み合っているのです」という。 次の小佐野論文は、私から見ると一面の正しさと、一面の不十分さが同居しているように思われる。例えば、教育政策が学力低下を招いたという趣旨の文章がある。そういう側面があるという点では一面で正しいが、そうすると梅原論文の指摘と合わないということが直ちに分かる。これはまあ短い文章だからあれもこれも書けないから致し方ない筆の勢いということにする方が妥当かもしれない。 最後に、石井論文。石井論と私の見地は、この文脈で文章が運ばれると一致点が多い。それは、18頁、基礎知識をつけてから考えさせるという旧来の思考様式批判を展開しているからだ。そこで、三つの条件を挙げているのだがこの点も同意。三つの点はクレスコを買って読みましょう。安いですから。 なお、この号には他に、成果主義の文章があってこれは見ておくべき文章だと思う。 (2005.5.3) |
Magazine171:反定義 |
辺見庸、坂本龍一、『反定義 新たな創造力へ』朝日文庫、520円と税金。 これは、3年前の二人の対談の文庫化。でも読んでなかった。厳密に考えると、それは違うだろうと思われる断定はあるけれども、ブッシュの定義する世界への異議申し立てこそ今世界に求められているという全体の論旨は説得的だと思う。情報と言説の非対称ということが度々登場し、人の命もアメリカ合衆国とそれ以外(それ以外といっても序列づけられているが)とで大きく異なることが様々な事件、アフガンでの出来事に即して語られている。 ポストモダンの思想家が批判されているのだが、ポストモダンではない吉本隆明などはむかしむかしの「反体制的」言説から今や体制的言説の媒体となっていることが知られている割には、今ひとつ手ぬるい批判的語り口が気になるけれども、現実を物語として消費するのではなく、現実を直視しようというトーンも肯定的に読める。もっとも、中沢の解説はやはり違うんじゃないかと思う。 哲学の死、あるいは言葉の死ということが語られているのだが、「やさしい言葉」「単純化されたことば」そのことの暴力性が語られている。ここに一番多分同意している。それは、多分教育の世界に昔から存在し、そしてここ20年あまり、私に言わせれば教育の戯画化、マニュアル化、保守化を侵攻させている精神への批判と通じるなと思ったからである。 (2005,5,1) |