2005年6月30日
Magazine194:高校生活指導165号 |
高生研編、青木書店、1200円と税金。 「つながれない・つながる」という特集。この問題意識は、全生研と同じなのだろうか、それとも高校には高校的課題が独自にあるのだろうかという眼差しで読んだ。 しかし、全体として、高校生的な行動はあるけれども、それを読み解く側の理論構成にさほど差異はないと思ってしまった。また、つながれない高校生の何が問題で、そこにどのように挑むのかについて、各実践は試行錯誤している感じだ。まだ実践的取り組みとしては方向性さえ見いだせていないのではないかと思った。 また、取りあげられた実践が、全体として親密圏や学校内的世界での話しになっているので、外の世界へと繋がる方向、家族問題であればそれを制度や社会へと接続させてとらえ返す方向のアプローチになっていないようにも思えた。だが、それを広げていくとまた違ってくるのではないかと思った。 照本論文が指摘するように、自身をどこかにつなげておきたいと思っていると生徒を理解し、そのつなげ方やつながり方に生徒が失敗していると考えたらいいのかなと思われた。実践的アプローチについては、井沼さんの基調提案を検討するといいだろうと思う。本書を契機に実践的切り込みの深化を期待したいところだ。(2005.6.29) |
Magazine193:ハッピーになれる算数 |
新井紀子、理論社、1260円で税込み。 小学校の中学年以降の内容の基本的な計算と円周率などの図形についての意味を説き明かしながら、分けを考えることの意義を書いた本。 明らかに分けもわからず、計算させる潮流を批判することを意識して、潮流批判はせずに分けがわかってないと分かってないんだというメッセージを送り続けている本である。 「小学校の算数は『歴史や文化を算数する』ことであります。中略。複雑なところは、『歴史』や『文化』の部分にあって、算数は、それをなるべくかんたんに正しい見通しがつくようにするための方法を、私たちに教えてくれるものなのです。」(35頁) この言い回しに新鮮さを感じた。世界の客観的現実を算数にしているという話しは、数教協などがこれまでにも指摘してきたことである。算数を現実とつなぐという言い方と違う点に注目した。だから、本の算数のほとんどは、現実の目的、行動の意図をその意図に従って算数の式や解とするという趣旨でつくられている。(社会的構成主義、活動理論の主張を思い起こしましょう。)つまり、算数計算的にはあり得ても、現実的にはありえない問題や解く必要が発生しない算数問題は提出されていないのである。 意味を理解するというとき、本書では、例えば、「わり算には単位を変えるとどうなるかという意味がある」という風に説明されています。こんな説明が各所にあるので、算数の授業で子どもに考えて欲しいところを設定する参考にもなると思われる。算数の(つまり計算としてはとても易しい問題)を事例に語るように書かれているので参考となるでしょう。ただし、この人は、小学校教師の経験に学ぶという点では十分ではないようですからそこは自分で補いましょう。 もう一つどうしても取りあげておきたいのが最後の章の問題。粗雑な議論と精緻な議論は、算数的に判断できるということを指摘している。ここも、他人がむかつく議論をしているなと思った人は、その議論が粗雑なためかもしれないという発見をもたらすかもしれない。そんな意味でも読んでみて頂きたい部分だ。事例は、ブログにあとで記す予定。(2005.6.26) |
Magazine192:グロテスクな教養 |
高田里恵子、筑摩書房、740円と税金。 名前の恵の字が本当は異体字だが、探せない。本のラスト付近に、読むと気分が悪くなる新書も一冊ぐらいあっていいということで刊行されたと記されている。私は、そんなにひどく気分が悪くはならなかったが、何かが解き明かされたという感じもしない。 教養主義がどのように批判されてきたのかというそれを、文学者周辺の作品を取りあげながら、あるいはエッセーなどを取りあげながら批判の構造を様々に書いている本。その根底には、竹内洋の「教養の没落」があるらしい。竹内は社会学的アプローチをしているのに対して、文学者の周辺的出来事でそれを書いているという感じだ。 教養の復権を願っているというのだが、復権の方向が見えてこないのは、特権階級的教養の世界の教養論をでないからであり、そうした世界を出て行く必要がある人びとがあまり登場しない所為ではないかと思われた。多様な教養論の一つ一つは、それを読む側によってつくられているという指摘があるわけだが、それが真だとすれば、誰がどんな教養や教養論を今必要としているのかという問題意識から問い直さないと復権が、死者の復権になりそうな気がしなくもない。 本書を読んで知ったことは色々あるが、鶴見俊輔・和子の母親が後藤新平の娘だったということ。こうして、いつか記した鶴見和子の子ども時代の思い出話の状況がもう少し違って見えてくるということになった。(2005.6.24) |
Magazine191:傷つくのがこわい |
根本橘夫、文藝春秋、690円と税金。 たまたま書店の新書コーナーで見つけた。根本氏には学生時代にお世話になった。外書講読を講義以外だったと思うが指導して頂いた。 本書は、傷つきのタイプわけ、傷つく構造、傷ついた時どうするのか、簡単に傷つかないためにという順で書かれている。文章は平易だし、「傷つくことはないんだ」というメッセージが全体に流れている。 特に、次のようにとらえている点が印象に残った。 「私たちは、不完全な親と家庭をそのままに愛さなければならない宿命を背負っているのです」(108頁)。これは、完璧な親あるいは完璧な家族を想定し、そうではない自分や家族を前に傷ついていくことに対して記された把握である。不完全さを抱えて誰も生きている存在、それが人間なのだというつかみ方は、過酷な言い方なのだが、その過酷さが人を救う言明だと受けとめた。 もう一つは、傷つくのを恐れるのは「本当の自分」を大切しているせいのように感じるが違うという指摘だ。そうではなくて、「他の人から見られた自分」を大切にしようとしているにすぎないと言う(210頁)。そうだとすれば、つまらないことじゃないかというわけです。他人が自分だけを見ていることなどあり得ないわけだから、不必要に自分を大きく見せる尊大感は要らないじゃないかという。むしろ人を信じ、今ある自分を信じてみたらと言う。 こうした説明の仕方があるんだという感じ。適度にハウツウ的な処方も示されていて、不完全な人間は読んでおいてもいい。(2005.6.22) |
Magazine190:希望の教室 |
金森俊朗、角川書店、1200円と税金。 「いのちの教科書」よりもいっそう実践記録的に書かれている。8月締め切りの原稿のこともあって積んどおいたものを読み切った。1年半前には金森学級を訪問したこともあるので、金森さんの語り口まで思い起こすことができる。実際、そのときに見た教材にかかわる授業の記録もこの本に含まれている。 さて、今、世の中では「生と死」を教育で取りあげることについて、一方で強く叫ばれながら、他方で、取りあげないように動いている。 子どもの事件が起こるために「いのちの大切さを」というけれど、どうも日常的には逆の状況もある。突然、言葉だけで「いのちを大切に」といわれても信じられないだろう。だから、いのちの教育をしなさいと言われて、さて、説教と違ったことをしてみたいと思った人のための本として読むことをすすめたい。 この本でも存在することの意味やそれを抹殺することの意味が折々に取りあげられていく。例えば、谷川俊太郎の詩「なくぞ」、チョウの一生、いじめ、給食の食材から種への学習、町の不思議発見などの仕事への注目。どれも、これまでにもいろんな教科書に取りあげられてきたと言えば取りあげられてき事柄である。これらが金森さんのクラスでは、生きることの学びへと変身する。 以前訪問したときも算数の少人数授業を除いて、生きることを学ぶという視点に貫かれた授業であった。今回の本には、算数もその観点からの記録が記されている。 金森さんにとってのいのちの授業というのは、「生きていてよかったとおもえること」というところにつきると思う。(193頁)このことを、自然や社会についての事実を掴むことと、他者への想像力を働かせていくことでそれを果たしているように思われた。 ただ、課題は、いのちのリレーの部分。いいのかもしれない。しかし、他方で、単に血のつながりの教育ではないと自覚もされているが、それでも、少々考え込む。 (2005.6.19) |
Magazine189:個人家族が国家に・・・ |
憲法24条を生かす会編『個人家族が国家にねらわれるとき』岩波ブックレット、2005,480円と税金。 憲法改正論議のうち特に24条(婚姻の自由と両性の平等)に関する保守勢力への批判の書である。QアンドAスタイルで書かれているので読みやすい。執筆している人も、この問題に関する運動の担い手だから、語りかけるような筆致でポイントが要領よくまとめられていると言っていいだろう。 巻末に日本国憲法と「自民党憲法改正プロジェクト」の憲法改正案などが付いているので学習会資料集として便利。 ただ、例えば、24条改訂が福祉予算の削減などの動向の中から生まれていることや9条の改訂要求と連動しているという指摘はあるが、それがなぜなのかと言ったことまで考えようとするには物足りない。もう少し本格的な本を探す必要がある。(2005.6.16) |
Magazine188:靖国問題 |
高橋哲哉、筑摩書房、720円と税金。 近年の靖国神社問題を考えるには最適だと思う。二昔前ほどの本には大江志乃夫の岩波新書があるが、それよりもいいと私は思う。その最大の理由は、靖国神社の本来の趣旨から説き始めて、近年の言説が妥当性を持つものなのかどうかを資料を入れ込みながら記しているからである。感情的なナショナリストであったとしても、感情的な言説では通用しないことが読み取れる記述だと思う。 ことに、近年の分祀論やA級戦犯だけ除けばいいとする議論への批判が的を得ていると思う。彼らが分祀されたとしても、侵略戦争を肯定する見地から祀られた施設への参拝を承認することができないことを論じている。この点が一番重要な指摘だと思う。 分祀されて以後、政府関係者参拝を始め、中国もそれを認めてしまった世界は恐ろしい、国家宗教の復活に他ならないだろう。 前に書いたかもしれないが、靖国神社については、仮説研が授業書つくっている。その問題はかなり的をついている問題が作成されていると思う。西郷隆盛や東郷平八郎は祀られず、坂本龍馬や東条らが祀られていることの意味が見えてくる。天皇のために戦争で死んだものが英霊なのである。だから、もし、本当に戦争をなくしたいと考えるなら、靖国には参拝するべきではないのである。これは一般市民にもあてはまること。(2005.6.13) |
Magazine187:オレ様化する子どもたち |
諏訪哲二、中央公論新社、740円と税金。 保守派の教師の代表的論者の1人で、教育の保守化運動の一部を形成するプロ教師の会の代表的存在、それが諏訪である。(この保守化運動グループは、もう一つの保守化運動団体である旧教育の法則化運動グループ=現在TOSSと称するグループとは色彩が異なる。保守であることにより自覚的であるように見える。) 前半は、子どもがオレ様化して、つまり、自己を肥大させ、大人と同じ対等な存在であるかのようになったことを、どのように見るのかに議論が費やされていて、内容的にこれまでに書いてきたことと大きな変更はない。 近代=自立した個人の誕生、自立した個人の集合としての社会という把握が間違っているのだという。共同体による強制から出発すべきなのだという。確かに、自立した個人が集まれば社会がうまく運営されていくという見方をしている人がいるとすれば、それは、大きな間違いだ。社会は制作されて行かねばならないから、社会制作に関わる力量を育てる営みが教育には求められる。しかし、諏訪のように先行世代が構築してしまってある共同体のシステムに同化する段階を経てのみ実現されるというのは、強制の合理化をはかるものでしかないように思われる。 また、諏訪は、能力主義に対してはいたって従順だ。諏訪は、しばしば、「日本の知的主体」という表現を使用して、いわゆるリベラル派などを批判する。この言葉の使用と能力主義に従順なこととは関係があるように思われる。リベラルなどが知的だとすると、諏訪は何なのだろう。 本書の後半は、宮台真司、和田秀樹、上野千鶴子、尾木直樹、村上龍、水谷修の子ども論や学校論を批判している。上に並べた人たちの立場は、私の偏見によれば、保守のリベラル、新自由主義的保守、ポストモダン的ポスト旧新左翼、尾木はどちらかと言えば左翼だろうか?村上はリベラルだったり保守だったり、水谷はわからない。諏訪の批判としてあたっていると思われる指摘がいくつかある。例えば、和田や上野が教科だけ教えていればいいと考えているという批判は正しいと思う。しかし、だからといって諏訪のように強制の生活指導をする方向しか考えないのは違うだろうと思う。 また、尾木直樹を批判する際の論理は、単純すぎるように思われる。学校告発派は、社会批判論だから、学校改善に繋がらない議論として切って捨ててしまう。そのように言ってしまうと、諏訪の議論も自分で切って捨ててしまうことになるように思われる。 (2005.6.10) |
Magazine186:「未来の学び」をデザインする |
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美馬のゆり・山内祐平、東京大学出版会、2400円と税金 正統的周辺参加論の学習論についてのテキスト本というのが全体の印象だ。これを一度読み始めたのに、途中で一旦やめたのは、マサチューセッツ工科大学のメディアラボの施設とその仕組みについての解説、あるいははこだて未来大学の施設に関する記述のその無批判なように見える解説にある。建物の構造が思想を孕んでいることに異論はないのだが、そこには別の思想も垣間見えるはずなのに、そのことに自覚的でないように見えたからである。つまり、MITの場合、企業寄付によるプロジェクト型研究のスパンの問題など論及されない。 とは言え、正統的周辺参加論の教育活動論的具体化を示した数少ない文献ということができる。正統的周辺参加論は、少なくとも日本において教育実践的解釈の用語としては使用されるようになって一定の年月を経たが、共同体の実践というには貧弱なものが多かったように思われる。あるいは、共同体という割には極めて非政治的存在として、のっぺらぼうな存在として描かれているように思われる。さらには、その理論で実践はつくられていないのに、その理論で解釈して見せているようなそんな奇妙な状況があったように思われるのである。 それと比べれば本書で紹介されている実践は、構想の段階から理論が意識されていたことは確かなように思われる。他の構想やプロジェクトに相乗りしていると見ることもできるが。それでも、正統的周辺参加論の原則で学びの共同体づくりのイメージを描くには簡潔な説明でわかりやすいように思われる。 しかし、テレビ番組づくりの理論化であれ、学校間の対話の試みについてもその実践的意味が「共同体」という言葉に飲み込まれてしまっていたり、番組づくりや本づくりというまだまだ珍しい取り組みに目が行っているだけに見えてしまう。これは、共同体、あるいはベテランと新人の関係についてリアリティのある世界が捉えられていないように思えるからだ。
にもかかわらず、場所や道具、活動は考えることに通じるという指摘は受けとめられるべきではある。(2005.6.8) |
Magazine185:「教養」とは何か |
阿部謹也、講談社現代新書、680円と税金。 もう刊行されてから大分経っている。私にとっては、ハーバーマスの公共性論であり、教養論という問題関心からの選択。 社会論において国家(官)と個人の間に市民社会を入れて捉える議論が今日では常識となっているわけだが、相互の関係をどのように見ていくのかは意見の別れるところだ。三つの相互関係を考察するにあたって、その視点から日本の過去あるいは今をどのように見るのか示唆するところの多い本だったと思う。本の出だしは、歴史学者で教育の事実を知らないなあと思うけれども、やむを得ない。 また、出だしはハーバーマスの引用ばかりで考察があまりなくてつまらない。こんな本あり?という感じ。しかし、日本でいうところの「世間」の意味との比較辺りからは時代的文脈が取り出されていて、視野を広げることができたと思う。世間について、今では、「世間に顔向けができない」というような言い回しが普通だが、自然に対しても使っていたとか、日本の人は世間の中で生きてきたがそれを自覚することが少ないなど、議論は、俗世間で言うところの「世間」のつかみ方とズレながら関連を意識させてくれて興味深い。もう一つだけ例を挙げると、世間が広いとか狭いと言うが、ということは、人によって世間の範囲が異なるということ。これは興味深いことだ。世間の広さが違うものが同じ世間に生きているということになってくる。 もう一つは、教養論、ドイツを中心として歴史研究をしてきた人らしく、ドイツの教養の歴史を背景に、そこに、社会の教養という見方と、個人の教養という考え方の二つの存在とその成立を語っている。私は、勝田の教養論からこの世界に入ってきてしまったので、個人の教養を最初から否定的に捉える発想を持っていた。つまり、教養の共同性・社会性を前提に考えてきた訳だが、そこでは、個人もしくは特定階級・階層の教養という把握を本質的に語義矛盾として捉える発想を持っていたのだが、阿部の場合は、そうでもないらしい。一旦そう押さえておいてもいいかもしれない。一旦であって、やはり語義矛盾だと思うけれども。 世間の創造、さらに、世間が国家システムとどのように関わるかについて阿部は自立的に捉えすぎているように思えることもあって結論部分については不同意かな。 (2005.6.5) |
Magazine184:現代思想6月号 |
<反日>と向き合うが特集。青土社、1238円と税金。 4月末の新聞記事がこの雑誌の文章に引用されている。この3・4月の出来事を緊急に特集し本にしてしまった。この素早さには敬服する。時間が短いから、談話だったり、文章としても短いものにならざるを得なくて全体として物足りなさがなくもない。 それでも、なるほどというか、いい表現だというものもいくつかあった。 一つは、鵜飼哲の「他国の『未成熟』をあげつらっている限り、自国を『成熟』させることはできません」という指摘。これは、韓国や中国を社会的に遅れた国としてさげすむ動向、例えば歴史教育が歪んでいるという類の指摘などへの批判として傾聴に値すると思う。 もう一つは、高橋哲哉の靖国問題についての指摘。A級戦犯だけを中国は問題にしているが、B・C級戦犯の問題もあるし、それ以外の兵士の問題、さらに彼らを英霊としてまつってしまっている靖国神社そのものの犯罪性についての指摘も踏まえるべき論点。 もっとも印象に残ったのは、崎山と高口の「わたしたちという救済」という論文。歴史教科書の個々の記述の間違いの指摘ではなく、その論理を簡潔に示している。それが、「かれら」の創出と「わたしたち」の創出にあるという話し。そこでは、つくる会は、歴史教育を過去の人物の目線に合わせた追体験と位置づけているとし、その追体験の構造を検討している。 つくる会の追体験論は明らかに問題含みだ。しかし、追体験の研究はそれとして別にする必要がある。崎山たちがその全否定を表明しているわけではないが、追体験そのもの全体を簡単に投げ捨てることはできない。別な検討がいるということだけは指摘しておこう。 さて、その論理。近代日本の建設の部分では、近代の危機を日本だけが乗り越えたのは武士が迅速に体制を転換したからだとし、その武士が公共の利益に尽くしたからだという。ところが、この論理は、武士の間に様々な差異があったことを隠蔽することで成立させているありえない議論だと明確に批判するなど、歯切れがいい。このように簡単にすべてを武士一般に流し込んでしまう考え方、その延長上に「かれら」と「わたしたち」の創出と見ていることがわかる。 このあたりは私には簡潔でわかりやすいお話であった。 (2005.6.2) |