2005年8月2日 (火)
Magazine207:未来をひらく歴史 |
日中韓3国共通歴史教材委員会『日本・中国・韓国=共同編集未来をひらく歴史東アジア3国の近現代史』高文研、1600円と税金。 5月すぐ買ったのだが、このいかにも教科書風の体裁が私には読みにくくて遅々として進まなかったのだが、長い通勤時間を利用してなんとか終了。 本当に知らなかったことが多い。中国や韓国の生活や制度がどうなっていたのかを知らなかった。日本が中国や韓国で何をしたのかについても初めて知ったことも多いのだが、それらは日本の侵略に関わって知っていたことにプラスされた情報。しかし、暮らしや制度については全く初めての用語で知らないことが多かった。この暮らしや制度がある中に日本が侵略していったのだと知ることは格別の意義を持つように思った。何が破壊されたのか、その制度が良いばっかりではなかったにしろ、それが一方的に破壊されたわけで、壊したものの実像を結ばせる契機となるように思った。 また、同じ時代の同じ事件が異なる視点から描かれていることも新鮮に写る。「確かに、この記述はそれぞれの国の側から描かれている」と思われるところがいくつか出てくる。私の場合は、中国や韓国の執筆者による部分にナショナリズムを感じるだけでなく、日本の執筆者の部分にもナショナリズムとは限らないが、それを感じた点があった。例えば、五・四運動の「全国民的な民族愛国運動になっていきました」などとあると(79頁)、私には抵抗感がある。保守勢力の受け止め方とはたぶん違って、「全国民的な民族愛国運動」がよいものというニュアンスがあるが、その良いという前提に懐疑的だったりするわけだ。 あるいは日本の記述に、渋谷定輔の文章の引用が農村と都市を比較して都市に憧れた文章と位置づけられているが、そういう側面より性愛の嗜好を述べた文章として読めたりした。 ともかく、そうした視点の輻輳が全体としてはかられていく仕組みが、その仕組みがあることが面白いと思われた。保守勢力のように、知らずに隠しておくことで日本だけが素晴らしいと自己満足していないで、事実を知ってなお成立する歴史の見方へと歩むことの方がずっと知的なことを実感できる。今、教科書採択たけなわだが、これから日本を中心に生きていく人たちにとって必要な知は、こうした複数の視点を介した中から生まれるに違いないと思った。 まずは読んでみることを奨めたい。また、この本がなんかの賞を受賞したようだが、その価値は十分にあると思われる。(2005.7.31) |
Magazine206:教育8月号 |
667円と税金、国土社。今回は、暴力を越える教育実践が特集。論説が相変わらず多いけれど、教育実践も三つ載せてあるので改善。清さんの論文は読んで面白かった。「死の飛び地」をキーワードに展開している。これはいい。 楠原さんのはずっとそうなのだけれども、自身の旅を続けながら見つけたことのルポだ。筋は通っているし、そうなんだと思うことも多いけれど、情報を与えられちゃう感じ。 竹内論文は、基本的に、鈴木和夫実践の分析だ。被害者が加害者に転換する暴力の連鎖をどう断ち切るかを問題意識として議論されている。ことに、他者への権利侵害には断固それを拒否することなのだという視点が印象的だ。この観点から、荒れるものの内面の気持ちを理解しようと呼びかける心理学主義を批判していることにも注目したい。詳細で夏の学会のコメントに利用させてもらおうと思った。 学級の崩壊状況からの取り組みが自由の森の塩崎報告。何をどうしたのでこうなったというのが読み終わったときに分からない感じがする。これは、長い期間の記録だということ、さらに書き方の問題なのだろう。 性暴力の教育実践が少ない中で、意欲的なのが石島実践。生徒への配慮があることが分かるし、この問題についての常識と真実の乖離に挑んでいる点も評価できる。ただ、生徒にとっての課題とどこかで今ひとつつながり切れていない印象が残る。一つは一般論だったからだろうか、もっともそのように取り扱う以外には難しいテーマだからだろうか。もう少し、この実践は詳しい報告があるといいのかもしれない。 他の論文で私の注意をひいたのは、佐藤広美論文で、保守の論客を取りあげて検討していた点だ。(2005.7.29) |
Magazine205:西田幾多郎 |
『西田幾多郎』河出書房新社、1500円と税金。 多少、私を知っている人は、何で私が西田を今頃と思う人もいるだろう。もっとよく知っている人は、やっと少しはかじる気になったのかと思うだろうな、と躊躇もしたのだが、少しの動機が重なってたまたま目について買ってしまった。 いまどのように西田が理解されているのか全体像は知らないが、安藤礼二と上田閑照、田中小実昌の文章はいいなと思ったが、その他のエッセーは時代錯誤的だったり、内輪話のお話みたいで好きになれなかった。 本書の後ろに知と愛、場所、私と汝、絶対矛盾的自己同一などのアンソロジーが採録されている。実は、本屋にいるときここを急いで読みたかったので時間がなくて買ってしまったのが最大の理由のような気がする。簡単に言うと、「我と神は矛盾しながら一つに合わされる」というこのおそろしい思想を急いで確認しておきたかった。読みながらやはりこれはおそろしい世界だと思う。近衛文麿がそうだったように、神の意志へと人を容易に導いてしまう思想だとやはり思われる。この地点から先へ今回も私の理解は進まなかった。 また、知と愛も同じだという話しも、ギリシャ語の語源としては確かに知を愛するものが哲学という言葉を生み出したように、類縁性を持つのだろうが、知についても愛についてもよく理解していない側からする判断だが、同じではないと思われる。同じにしてしまうとやはりどうも精神主義的な主観の世界に、知の営みの世界が留まってしまうように思われる。この点でも前へ今回も進めなかった。 (2005.7.28) |
Magazine204:アウシュヴィッツと・・ |
ティル・バスティアン『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』白水社、900円と税金。 これは、ドイツにおけるアウシュビッツに関する嘘の歴史を辿り、嘘がどのように捏造されていったのかを明らかにし、その嘘に一つひとつ批判を加えようとした本である。ドイツでも歴史修正主義の動きがあった。その中で右派から「アウシュビッツなんてなかった」というような議論がしばしば登場してきた。その荒唐無稽な嘘を荒唐無稽として捨てておくことの危険が本書を読むと分かる。 ヒトラーがユダヤ人絶滅を宣言した文書から始めて、政権を獲得してからつくり出していった法律・通達を取りあげ、それに基づいて、ユダヤ人の財産の収奪、収容所への隔離・殺戮を日にち毎にまず確認する。 この時に、ヒトラーの演説の荒唐無稽ぶりを冷笑するものが相当数いたにもかかわらず、多くの人がその政策と運動に入り込んでいった、そのやり方を検証していく。 後半になると、戦後の言説、例えば、「私は知らなかった」「命令に従っただけだ」といった見方に対する批判が、そのように述べた人の事例に則して取りあげられていく。それらの多くは、歴史的に明らかではないわずかな隙間をついて、すべてをなかったかのように言う誤りなのだということを指摘する。さらに、ナチの「救済」的性格に身を任せていたことを直視すべきなのだという。 右派の歴史の捏造の手法、宣伝の手法は、ただアウシュヴィッツ問題にのみ関わる問題ではない。現在の日本の保守の論法に本当によく似ている。日本の今の保守派の歴史修正主義の手法を批判するときの視点としても学ぶに値する本だと思う。(2005.7.25) |
Magazine203:前夜4号 |
影書房、1400円と税金。 特集は女たちの現在。高橋の韓国での講演は、このところの話題を精神の自由という観点から語り直した感じ。五島へのインタビューは、時代的関心を寄せる人には貴重なのかもしれないけれども、私にはどうも奥行きを感じなかった。 小野祥子の「平積みにされる<女たち>」は上野千鶴子批判の文章で、従来の上野批判と少々角度が違っていて、あの語り口(語り口だけじゃないのだが)が保守からの批判を呼び込み、フェミニズム批判を増殖させているという。このところ保守派文献を読んでいたので、分かる気がする。大越愛子による批判と内容的にはどこかで通底するのかもしれないと思った。 映画の「血と骨」批判の高和正の文章も面白かった。在日という歴史性を排除することで、型にはまった在日映画から脱したという評価を下す人々、制作側も同様の趣旨を語る。しかし、そうした歴史性を排除したところにどんな人間がいるのかと疑問を提出し、人間の業に還元することで女への暴力を肯定しているだけではないかという。この批評の方が力があって、あの映画を高く評してしまった人たちが偉く間抜けに見える。映画評は見たけれど、出演者が嫌いだったので見に行っていない私には、映画との対比で判断できない。けれども、ステレオタイプだという批判の仕方への批判として重要な論理を内在させていると思った。 ノーマフィールドの石垣りんに寄せた文章はこれは文章としても面白かった。学生の頃1冊石垣の本を読んだ記憶が微かにある程度で、そのころには面白いと思わなかったのだが、「貧しい町」という詩はほーーっという感じ。(2005.7.22) |
Magazine202:憲法力 |
大塚英志、角川書店、743円と税金。 学力低下!そんなことより大人の憲法力低下が問題なんだと批判する。100マス計算ができた程度でなんとかなると思ってしまう大人の程度の方がよっぽど問題だという。私の学力問題についてのスタンスと一緒だ! そして、「日本人」や「国民」である前に、有権者たれという。ここには日本人や国民についての相対化の眼差しがある。もっとも、日本の場合、有権者は「国民」だったりするという弱点を抱えているけれども、かなりの人が、自分を「国民」に同一化している実態があるから大塚のような言い方でもその趣旨を伝えるには力があるかもしれない。(この言い方には懐疑が含まれていて、大塚の枠組みへの懐疑と言えなくもない)それでも、この発想は全体として高く評価したい感じ。 この冒頭の議論は以後の柳田国男と田山花袋の話しへとつながるのだが、このつなぎ方は本の構成としては唐突だ。ただ後ろに行くにしたがって興味深い。私や個人、国家や公共性これをどう定義するかという話題へと連なる。その筋立ては、田山の自然主義文学における「私」は公共とつながってないじゃないかと柳田は批判していたのではないか。田山のようにじゃなくて、個人を徹底させる中で公共を立ち上げていくことなんじゃないか。そういう意図が柳田の議論の中にはあったのではないかと言っているようだ。ところが、そこが二人とも不徹底だから、柳田もナショナリズムに入り込んでいったんじゃないかという話。 憲法を書くという企画をやっていて、書くことによって公共性を紡ぎだしていっていることを大塚は見つけたという。そのとき若者の書いた文章の始まりは、まず固有の自分を書き、その後に「みんな」が書かれてつながっていくという構造を持っていることを見つけたというわけである。後半が公共性の構築の話しで、公共的だけれども固有の個人がそこには内在しているということでもある。その具体例が読み込まれている。この指摘は、憲法を書くという実践が教育の中にはすでにあったわけで、その意味の理解にとっても有益だろうと思う。これもお薦めの本。 (2005.7.19) |
Magazine201:BC級戦犯裁判 |
林博史、岩波書店、740円と税金。 最近読んだ本の中ではこの本がベストだ。理由は、原資料を集め、それに依拠しつつ、個別裁判や事件の研究成果を踏まえて書いている。しかも、BC級裁判の全体的な特徴が理解できるように執筆されている。さらに、戦犯裁判についての言説としてしばしば語られる「勝者の裁判」という批判が適切でないことを、すでに戦争犯罪を裁く国際ルールに当時の日本も同意していたことなどを示しながら反駁を加えている。あるいは、下級兵士に厳しかった裁判だというような言説に対しても、一般兵士には死刑は一人も言い渡されていないことを事実を突きつけることで批判を加えているなど、今日の日本社会の状況を踏まえて執筆されている点でも優れた本だ。 1章では、戦争犯罪が裁かれることになった経緯。 2章では、戦犯裁判の手続き。 3章では、8カ国の戦犯裁判の概要が示されている。 4章では、アジア民衆・捕虜・女性への犯罪のうち裁かれたものと裁かれなかったものが選り分けられている。 5章では、裁いた者と裁かれた者について、そこにあった問題点も公正に示されている。つまり、裁かれながら日本の記録から抹消されてしまった南太平洋の島々の人たちの例などだ。 6章では、戦犯の釈放が政治的な取引材料となっていたことなどが示される。 そして終章で、戦争裁判を行ったが故に、総力戦となってしまった戦争それ自体を抑制する意味を持ったのではないかといった観点から、つまり、平和へ向かう視点からその意義が語られている。この点がまず確認されていることを高く評価したいと思った。 本書を通読して、改めて日本軍の行ったアジア・太平洋における戦争犯罪の数々を具体的に確認できた。今、保守派は、南京虐殺事件の数がでたらめだなどという議論をしたり、日本の侵略戦争を肯定的に描き出すことに必死だが、本書を見ればそんなことは言えない。膨大な殺戮が浮かび上がってくる。 他方で、保守派は、米国などの戦争犯罪が裁かれていないから戦争ではお互い様で当然だとか、日本だけが裁かれて不公平だということで日本の犯罪を免罪する議論を行っているが、それらの議論のどれもが成立しないことを教えてくれる。米国の犯罪も裁かれていないが、日本の犯罪も未だ裁かれていないものが数多くあること。不公平だから裁かないのではなく、公平に裁いていくことが60年以上経った今でも重要な課題であることを示している。 さらに、自立的な思考と判断こそ育てるべき力であることを実感する本である。 (2005.7.16) |
Magazine200:だます心だまされる心 |
安斎育郎、岩波書店、735円+税金。 キリのいい200だが、手近なところを選んでしまった。岩波のホームページの方が本よりもきれいに写真が印刷されている。 だましだまされるということについて、要するに「おもいこみ」が利用されているのだということを楽しく説明してくれている。また、だまされる条件は、これに欲得がくっつくと完璧にだまされるということを説得的に語っている。 この思いこみという点は、私も重要な観点だと思う。自分の立場とか思想・信条が確立していると思っている人、自分は人生で一定の仕事をやり遂げたと思っている人、まあ、自分に過剰に自信を持っている人は、危険人物だと言ってるわけだ。 199のような本に共感してしまう人、あるいはその批判を教条的な抽象語と論理で終わりにする人はもっともだまされやすいということだなと思う。 ただ、この本のささやかな難点は、私がすでに知っている事例がいくつか示されていて新鮮さに欠けるところが少しあったこと、さらに、今日のコミュニケーション状況やマスコミ状況への切り込みがあると良かったかなということ。 マジックのような視覚の錯誤を利用しただましと、詐欺におけるだましとは違うと思われるのだ。さらに、政治やマスコミが使うだましとは、本質的に異なると思われるのである。この差異が安斎の場合明確でなく、連続的に理解されているように思われる。 それでも、若い大学生くらいまでなら読んでもいいかなと思う。未知なるものに出会ったときの一つの構えとしては押さえておいてもいいのかもしれない。 (2005.7.13) |
Magazine199:国民の思想 |
八木秀次、産経新聞社、1714円と税金。 この本は、タイトルから分かるように保守の本だ。「国民の正しい思想はこれだ」と言わんばかりのタイトルで、それ以外の思想を持つのは国民じゃないと言っているニュアンスだ。これは、私個人がかってにそう「感じる」というようなものではなくて、本当にそうなのだ。肝心なところは論証されずに、「日本の伝統」ということになっている。保守主義は、生命の連続性と世代の継承、国家の連続性を自覚する思想というのみで(397頁)、本当に連続しているという論証はなかったり、論証になっていなかったりする文章が連続する。 一つ例を挙げると、女性が子どもを沢山産む国は栄えるなどというのだが、今日の世界を見れば分かるように、それは途上国に多く、飢餓や貧困あるいは戦争にあえいでいる国も多いのである。このように多くの事実は無視されていく。 この本は男女平等をめざす政策や取り組みを批判すること、ジェンダーフリー教育や性教育を批判すること、武装した日本になることを夢見る本である。ここで取り上げられている「過激な性教育」「行きすぎたジェンダーフリー教育」なるものが実は、かれらとその支持者たちのデマであることが東京新聞の取材で指摘されている。少々長いが新聞記事なのでHP上からそのうち削除されてしまうだろうから引用しておく。 「例えば「体育や水泳などの着替えは男女同室か」という質問の下には「高校でも着替えを同室でしている学校があります」とある。 この情報は一昨年一月、九州の高校を取り上げ、週刊誌が報じた。しかし、同校の教頭は取材に「完全なデマ」と不快感を示した。 ほかにも「林間学校などで男女同室か」の項目では仙台市の例が挙げられた。だが、同市教育委員会の職員は「小学校五年生の野外活動で、二年前までは男女一緒の班ごとにカーテン付き二段ベッドを数台置いた部屋を割り当て同宿させていた」が、「現在はない。旧(ふる)い慣例が続いていただけで、性教育とかジェンダーフリーなどとは無関係」と当惑を隠さなかった。 「ピル(経口避妊薬)の服用をすすめるような教育」の欄では、アンケートの途中で注釈が変わった。当初は「WHO(世界保健機関)で十代の服用は禁止」と記されていたが、事実無根と日本産婦人科医会などが抗議し、削除された。 この「教育」は二年前に回収された中学生向け性教育パンフレット「ラブ&ボディBOOK」(母子衛生研究会作成)を指す。ピルの紹介はあるが、慎重な性行動を促しており、「すすめるよう」には読めない。」(東京新聞2005年7月2日) 以上のように否定されている内容を何度も登場させている本だが、このように保守の一つのグループを代表する八木の本をながめていると、保守が今何を願っているのか、彼らの危機はどこにあるのかが見えてくる。(2005.7.11) |
Magazine198:憲法「改正」 |
渡辺治、旬報社、1000円と税金。 渡辺氏の本は、やたらと長くて読み疲れてしまうことがあるのだが、これは140頁と少しと短いので、約3時間。 現在の憲法改訂論の社会的背景や、いくつかの憲法草案の違いと社会的立場の違いを解き明かす。今回の本の力点は、9条の改正に保守勢力のねらいがあることには間違いないが、その先の社会構造の転換を意図してきていることを示している点にあるだろう。 つまり、自民党、民主党、公明党などは9条を改訂できるように環境権などその他の条文も追加しようという論陣を張ったりしてきたが、今やそれだけでなく、保守勢力は社会の構造改革をすすめやすくする条文を入れ込もうとして、例えば公共の福祉という概念そのものをなくしていこうとしているというわけである。この辺りが今回の本のポイントだと私は理解した。 そして、そうした点を入れ込もうとすればするほど、憲法「改正」をめぐる政党間の合意は難しく、「国民」の合意も難しいという指摘をしている。だから、逆の合意をつくる道も拓かれる可能性があるということを言っているのだろうと思われる。その潜在的可能性も含めて最後の章で示しているので、9条の会などを作ったり、この問題に関心を寄せる方は読んでおくといいかなと思われます。 この本は短いのですぐ読めるのがやっぱり売りでしょう。(2005.7.8) |
Magazine197:フツーを生きぬく進路術 |
中西新太郎編、青木書店、2000円と税金。 13歳のハローワークの17歳版。本書は次の課題と応えの方向を示す。 ・「いい学校に行けば、いい就職ができる」という時代は終わった。 ・「大卒の価値は変わった」「新しい学科を増やしているけれど」どう? ・「フリーターより正社員か?」 以上のような問いをたてて、従来の基準を問い直すように応えようとしている。しかも、具体的に応えようとしている。例えば、時間給の最低基準を挙げて、労働基準法に合致しているのかどうかを示しながら、アルバイトの選択基準を示そうとしている。東北や九州の最低賃金は、606円。最高は、東京都の710円。104円の差を正確に出して考えたり、社会保険のあるなしなどの条件について資料やHP先を記してあるので、便利。中学生・高校生がまずは読むべき本。 ただし、新しい生き方としてはもう少し別の方向もあっていいのかもしれないと思った。それが抜けたのは、「フツー」を意識した所為なのかもしれない。しかし、従来の基準を問い直すとき、「フツー」とは言えないとされてきた生き方がフツーとなるものもあっていいと思ったわけである。 例えば、普通のアルバイトや普通の正社員に当てはまらずに生きる道(農業、林業などある種の職は取り上げられた暮らしとだいぶ違ってしまう。)、普通よりは齢を重ねてから仕事を選び直して生きる道などなどだ。きっと、17歳以後にそれらは取り上げるということなのだろう。 (2005.7.5) |
Magazine196:あいち歴史教育9号 |
愛知県歴史教育者協議会、頒価500円。記憶によれば、久方ぶりの発刊だ。違ったかな。ともかく内容の紹介。 小出委員長の巻頭言。 昨年度の合宿研の渡辺賢二さんの講演の概要(これが意外にシンプルな話し)。 北嶋さんのぞう列車の取り組み。(合唱組曲があるんです) 伊佐治さんの平和を主題とした修学旅行の取り組み。(高校生が過日、修学旅行で広島に行って平和は大切だって雑談してました。だから、意義はあるんだからどう今風に変えていくかだなと思う。) 小笠原さんの長谷川テルの朗読劇を創りあげていくまでの記事。 イラク派兵訴訟の池ヶ谷さんの記事。 佐藤さんの兵役拒否の掘り起こしの記録。 米澤さんの夏休みの宿題、世界史新聞の報告。 西春のお寺をめぐった半谷さんの記録。 堀崎さんの用語集。 ハンセン病隔離政策に反対した小笠原医師の掘り起こしをした柴田さんの記録。 最後が伊藤さんの思い出の記。 全体として平和に関わる記事が多いという印象だ。柴田さんや小笠原さんの記録に明確なように、この地にもいろんな人が生きていたんだということの発見がある。私の願望を言えば、もっと子どもたちとのやり取りが記事となってくるといい。そう思う。(2005.7.4) |
Magazine195:内部被爆の脅威 |
肥田舜太郎・鎌仲ひとみ、筑摩書房、680円と税金。 肥田さんは、軍医で、広島に投下された原爆の治療にあたった人であり、自身も被爆者。原爆によって被爆した人の治療に長年携わりながら、日米政府が意図的にだろうが、あまり問題にしない内部被爆の危険性について論述した本である。 放射線に主に3種類あること、外部被爆(爆弾や原子炉によって放出された放射線による被爆)と内部被爆(放射線分子が塵や埃に付着してやがて人体に取り込まれて被爆するもの)の二つがあること、内部被爆によって発生していると考えられる症状についての研究が概説されている。内部被爆の危険性についてアメリカ合衆国政府は、公式に認めない見地をとり続けているために極めて多くの人が、核実験施設周辺の人々を始めなくなっているというデータを紹介している。 こうした隠蔽が劣化ウラン弾を使用し続けているアメリカ軍兵士、イラクなどの市民に内部被爆者を拡大し続けていることを示し、その事実を告発するものとなっている。著者たちへの反論データなども示しつつ議論を行っているので、どちらがより説得力があるのかは、読まれた方々の判断に委ねるほかないが、それでもやはり内部被爆の危険性については知っておくべきことだ。 本書の趣旨の中心部分ではないが、広島・長崎の被爆者が研究のための材料とされ、治療を受けることなく扱われた事実なども記されており、人の価値について国家が一方的にランクづけてきた事実に怒りを感じた。これは、アメリカ政府の行ったことだが、それはアメリカ国内においても同じであった。当然、日本も同じことをしてきたのだが、国家主義は、様々な信念/思想と結託することをここでも確認することになった。(2005.7.1) |