2005年9月2日 (金)


Magazine216『カンディード』戦争を前に・・

 水林章、『カンディード』<戦争を>前にした青年、みすず書房、1300円と税金。

 この本は、この夏に読んだ本の中のベストテン上位に入る。ヴォルテールの『カンディード』を読む本で、フランス語の文章表記の仕方、例えば時制だとかコノテーションだとか、入れ子構造だとか、音のリズムだとか、そういうものが何を表現しているのかを解き明かしながら、この作品の意味を解明していて楽しい。文学を読むことの楽しみというものを示してくれている。

 登場人物の名前に以下のような意味があるのだそうな。フランス語もラテン語も知らないので、気にしなければ気にしないで読み飛ばしてしまうだろうことだけれども、作品の主題と深くつながっていることが分かる。

 トゥンデール・テン・トロンク男爵=「コン畜生」という意味のフランス語に類似。

 パングロス=全言語(ギリシャ語からすると、語る存在)

 そんな感じで、フランス語を学んだことのある人なら一層興味深く読めるのではないかと思う。その言語を知らない私でも読めるから心配ない。

 戦争を美的なものとして描く前半から、美的な戦争を解体していく後半へ、それは、すべては最善なものとして仕組まれている世界という観念から脱出する物語でもあることが解き明かされていく。これが初めに記した、表現とその技法と密接につながって語られていて、その語り方が面白いのだと思う。

 岩波文庫の『カンディード』を探したが見つからず、バーンスタインの音楽も探さないといけないし、宮本亜門の演劇も探さないといかんなと思う。(2005.8.30)


Magazine215:夕凪の街桜の国 

 こうの史代、双葉社、800円と税金。

 手塚治虫文化賞をとった作品。

 まず夕凪の街。印象的なことは、「死ねばいい」と言われたものが生きていていいかと問う場面。そんな風に問題を設定することが可能なのだという発見をした。その発見の意味は、「生きていていい」ということは、そういう問いへの肯定としてあるという発見だったのかもしれません。いい方が回りくどいけど、生きていることが善であるということが言えるのは、死んだ方がいいと思う人がいたとしても、そうでない関係性や事実があるということの確認だということ。そんなことを思った。

 桜の国。原爆症を抱えながら生き残った者の暮らしを世代を継いで描いていて面白かった。名前が、広島市の町名から採っているような気がした。霞、皆実、翠みんな見覚えのある町名だ。皆実は、私の通った大学のあった所だ。登場人物の皆実の家のある所は、基町の市営住宅などが沢山建てられた所付近じゃないかと思う。

 佳作と言えるマンガだと思う。(2005.8.27)


Magazine214:性の授業死の授業 

 金森俊朗・村井淳志、教育史料出版会、1500円と税金。

 もうだいぶ前に刊行された本だが、今書いている原稿の都合で読み直した。その後に刊行された『いのちの教科書』、『希望の教室』の前段階となった本である。生と死という二つの授業の進行としては、本書の方がよくわかる。

 「生と死にまつわる教育がこんなことを通じても教えられるのか」という風に思えるのは後の二冊。そういう意味では、金森さんの全体像を知って、自分の取り組めそうなことを見つけたい方は後の本がいいのかもしれない。

 金森さんほどの人でも、人が生きるとか人が死ぬということを考えるときには、文化のバイアスがかかっていることを読みながら発見した。そうしたバイアスは、家族の見方に特に表れているように思われる。生き死にとって、家族とかそれにまつわる感情とかいうのは不可欠なんだろうか?個別具体的にはキーパーソンになることもあるだろうが。

 それでも、大瀬ほど危険な掴み方ではないのかもしれない。ここは慎重に考えたいとは思うけれども、「不可避」というとやはり違うのではないかと思う。

 この辺り、意味不明に書いてあるのは、意図的にそうしました。生活指導11月号に論及するつもりなので、興味があって忘れなかったら読んで下さい。(2005.8.25)


Magazine213:教育の平等と正義 

 ケネス・ハウ、東信堂、3200円と税金。

 平等という概念が、時にはアクセスの平等を意味し、時には結果の平等を意味するというように、人によって異なる意味で使用されている現状を示し、この違いを、およそ三つのタイプに分類してそれぞれの見地を批判的に検討している。

 一つは、リバタニアリズム。二つには、功利主義。三つには、リベラル平等主義。三つ目の立場にもいくつかあるのだが、その中の一つを著者の基本的立場としている。

 一つ目の立場としてノージックが取りあげられる。この立場ではいかなる貧困の下に生まれようとそれは不運に過ぎず、不公正ではないとされるが、選択のチャンスにそれが影響を与えており、自由で公正な選択がありえないことを示し、この立場が破産しているとする。

 二つ目は、要するに、ヘッドスタートのようなプログラムをその経済的価値の観点から判断する見地である。この立場は、経済生産性の最大化を目的として資源の分配を行おうとするために、教育結果の平等を安定的に確保することはしない。だから、教育の平等を本質的に保障するものではないと批判する。

 三つ目は、リベラル平等主義としてはロールズが有名であるが、著者はこの見地を批判的に乗り越えようとする。それは、従来のリベラリズムが文化やジェンダーなどの要因に注意を払わなかったことを批判し、そうした立場の人の参加をつくり出すことによって平等を実現する道を開こうとする。

 この基本的見地から、ジェンダー、多文化主義、セグリゲーション(人種差別や能力差別)、テスト、学校選択の問題が検討されている。

 百マス計算的なあるいは階層格差補償論的な教育論への批判の書としても読むことができる。読み書き計算が必須だとして、文化的リテラシーを教え込むべきだとするとが、それ自身がすでにマイノリティに負担を強いるものであることなどが論述されている。あるいはまた、成果主義批判の書としても読めることを記しておこう。(2005.8.21)


Magazine212:生活教育8月号 

 日本生活教育連盟編集、686円と税金。

 今書かねばならない原稿との関連で特集記事「ともに生き、ともに学ぶ教育を」を読む。江口は、障害を持つ生徒がその障害を受け入れられずにいる状態を読みとり、それに対して自分自身のいる位置を理解するように話しを聞いていくことの重要性を提案している。なかなか感動的なのだが、どのような対話をしているのかが記録から読みとれないのが残念だ。

 長谷川の6年生の倍数の授業は、メトロノームによって、2拍子、3拍子、4拍子が2の倍数、3の倍数、4の倍数だと導き、さらにカスタネットで2拍子、タンバリンで3拍子を同時に打っていって、2と3の倍数で一致する場所を見つけていくという学習活動を行っている。これは面白そうだ。公倍数の意味が「経験」される活動となっているように思われる。

 大森実践の公園についての学習は、世間の道徳主義の箸にも棒にもかからない実践と違ってちゃんと研究になっている。また、社会とつながろうとしているように思える。本筋でないかもしれないけれど、子どもが池のゴミを集めたいという意味は何であったのかを知りたいと思った。

 本谷のスイミーの読みをめぐる里佳の記録は、少々興味深い。一つは、子どもが作品を読みながらカードに疑問を書いて発表し、その疑問に他の子どもたちが応えていくという授業の構想についてだ。授業の全部が記録に書かれているわけではないので全体的判断は差し控えたいと思うけれども、子どもが自分の疑問を提出しながら授業をつくるということに意義を感じた。それは、教師に導かれてのみ読むこととは違った世界を提出する可能性があると思われたからである。他方で、作品を細切れにすることなく読むことが可能なのかどうかについては記していないので判断は保留。

 もう一つこの読みの記録をめぐっては提起されていることがある。金馬は現象学で理解できるとしているが、私は読むという行為そのものから考えた方がいいと思う。リライトと実践者が言っていることの方がいいだろうと思う。作品を読むということは、その世界を知り、その世界に参加する側面が一方にあるが、他方で、参加する主体は白紙の人間ではなく、別の世界を生きてきた固有のものの見方をする人間である。だから、その固有のものの見方をする者の側から作品を描きなおすと、原文世界の見え方とは違った世界が、原文世界と係わりながら生まれてくるのだが、それをリライトとして表現する実践となっているのだと思われたのである。これを小学校2年生で行っている点が興味深い。他方で、幼児教育関係者には知られていることだが、幼児が自分の物語を語り続ける時期がある。このことと里佳はつながっているかもしれないとも思った。(2005.2.19)


Magazine211:沖縄「戦後」ゼロ年 

 目取真俊、NHK出版、640円と税金。

 この本は読みやすいし、面白い。

 一つは、今、保守派が沖縄で日本軍による住民虐殺はなかったなどという宣伝をしているわけだが、これへの批判としてタイムリーだし、軍による虐殺があったことを具体的に記してもいる。保守派の議論は大体、軍による命令の文書があったかどうかだけを問題にしていることが多くて、歴史の事実を文書資料に限定する特異なものだ。目取真は、これに対して石原昌家らの調査と自身の調査聞き書き体験を踏まえて論述している。(私は、十数年前に石原の講義を沖縄で受けたことがあり、丹念な調査だと思ったものだ。)

 二つには、沖縄における戦争の過去と今をつないで、そして沖縄を絶対化することなく、日米の戦争犯罪だけでなく沖縄自身の戦争犯罪も射程に入れて議論をしている点がいい。

 三つには、特攻の標的となったのが沖縄を包囲した米軍艦船であったが、日本では繰り返し特攻を美化する動きがあるが、この死の美学に対して、その多くの死に方が美とはほど遠いものであった事実を示し、実際にはどのように死んでいったのかを直視すべきだという点もいい感じ。

 四つには、沖縄の癒し言説批判が簡潔でいい。ちゅらさんイメージ、堺正章の沖縄の男イメージを批判している。つまり、ものごとにこだわらないというのは、家族や社会の問題について複雑に捉えないということであり、明るいとは暗い現実や負の感情に触れないことだと批判する。具体的には「ホテルハイビスカス」という映画とその監督を批判しているわけだ。

 現実に目を背けずに行くことは、しばしば、気の重い作業と見られているわけだが、必ずしもそうでないこともどこかにあることをなんだか感じさせられた。

(2005.8.17)


Magazine210:戦後和解

 小菅信子、『戦後和解』中央公論新社、740円と税金。

 戦争の結果としての戦勝国と敗戦国が生まれ、戦後処理がなされていく。しかし、日本はとりわけ戦争への反省のなさが国際的にも批判されている。ところが、批判されているにも係わらず、「いつまでの批判されるのか」「日本だけが悪かったのではない」という言説がいつもつきまとう。これに対して、現代世界では、「過去を忘却するのではなく、これを見つめることが赦しと未来に向けての相互理解へとつなぐのだ」ととらえられるようになってきた。

 それでも、戦勝国の犯罪は未だ裁かれていないし、公正とは言えない裁判もあったではないかという声が広く存在する。この声に含まれる一部分は未来の世界の有り様を代表し、残りは過去の戦争の正当化という過去の世界を引きずった声である。この未来の世界の有り様を考える上で本書は、今の日本に渦巻く言説を腑分けする基準線を提供してくれている点があると思う。

 戦後和解というのは、先の世界大戦のことを指すのかと当初思ったのだが、本を読み進めていくと違うことが分かる。主要には先の大戦を指しているのだが、問題意識は、戦争後の和解ということがどのようなものとして理解され、取り扱われていったのかを確かめ、人類はどの地点に今いるのかを示そうとしているようだ。

 だから、当初、神の名において講和が行われ、したがって何でもありだったものが、次第に、「人道的な戦争」へと変わり、ルールのある戦争という方向へと変わってきたことが叙述されている。ルールある戦争の内で、戦勝国による敗戦国の即決処理ではなく、国際軍事裁判という方式が採用されるようになったことが示されている。先の大戦における処理は、このロンドン協約の延長上に位置している訳である。

 以上のような歴史的変遷を概略した上で、小菅は、現在の戦後和解の仕組みを特徴付けながら、課題を指摘している。まず、世論へのアピール、過去の忘却の否定、恒久平和の強調が語られるようになったが、その重要な課題の一つが、「感情的になりやすいことである」と。(35頁)

 つまり、過去を忘却しないということが、過去を際限なく断罪することになっていたり、過去の歴史をひたすらに政治化することになっていることがある。あるいは、かつての敵への偏見と反感を再生産することになっていることがある。近年の動向を見れば、感情的な敵愾心に満ちた行動が頻発していることが例証している。こうした事態は、今日の日本の保守勢力に典型的に見ることができるが、彼らばかりではない。こんな問題を念頭に、過去を忘却せずにどこで和解を成立させる可能性があるのかないのかを探っているわけだ。小菅は特にイギリスの事例を成功例として取りあげている。

 私は、イギリスの例では十分ではないと思うけれども、加害者と被害者という線引きと正義と不正義のバランスという視点を導入することで、戦後和解の相対化という視点を鮮明にしている。この点で、読んで良かった本。(2005.8.8)


Magazine209子ども集団づくり入門

 全生研常任委員会編、明治図書、2100円と税金。

 全生研は、学級集団づくりについて『入門』と『二版』、その後、『新版学級集団づくり入門』の小学校と中学校の本と入門のつく本を刊行してきた。そのように数えると4度目の本となる。従来と異なることがいくつかある。

 一つは、それまでの本は理論あるいは従来の理論を新しい観点から説明するという傾向が強いが、今回はだいぶ違うということだ。これまでの叙述は、理論の言葉の説明もあったし、実践的手法も体系的に述べるという傾向をもっていた。これに対して、新機軸という点もあるのだが、実践への具体的な指針を中心に叙述されていることだ。

 二つには、それまでが「学級集団づくり」という言い方であったのに対して、今回「子ども集団づくり」とその視野を広げたことである。これは、その取り組み領域を意識的に拡張していると見ていいだろう。

 三つには、集団の指導、組織の指導についての論述もあるのだが、その指導の中での力点が移動していることである。それは、子どもや教師あるいは親たちのものの見方考え方を、その言動と関係の仕方から読み解き、その関係の仕方やものの見え方を問い直す実践を中心に置いていることである。以下大項目の目次だけ参考のために載せておく。

 第1章 わたしたちが教師であり続けるために

  1 子どもたちのメッセージ
  2 子どもとつながる 子どもと子どもがつながる
  3 子ども集団の物語を紡ぐ
  4 保護者と教師が出会うとき
  5 教師の自立の決め手になるもの
 第2章 子ども集団づくりをどう進めるか

  1 学級における子ども集団づくり
  2 バラバラな学級 ――学級地図を作る
  3 豊かな活動をつくる(小学校)
  4 豊かな活動をつくる(中学校)
  5 学級で事件が起きたとき
  6 「荒れ」と集団づくり(小学校)
  7 「荒れ」と集団づくり(中学校)
  8 不登校の子どもの指導
  9 特別なニーズを持つ子どもと子ども集団づくり
 第3章 学びと子ども集団づくり

  1 はじめに ―生活指導が追求する学びとは何か―
  2 集団づくりと学び
  3 授業で追求する学びと集団づくり

 第4章 学校づくりと子ども集団づくり

  1 学校づくりをどうする
  2 教職員がつながる
  3 保護者・地域とつながる
  4 子どもが参加する学校づくり
 補論 子ども集団づくりがめざす世界

 今、第二章の冒頭がMLでは話題になっているのだが、そこ以外にも議論を誘発したり、実践的な取り組みとして興味深い論述がいくつかある。

 トロイ同盟の実践における対話、保護者と一緒に悩むという小見出しの短文、佐伯隆の「勉強が嫌いだ」という子どもたちとの対話、生活現実をメディアで読む実践、お互いを自己責任の重荷から解放するという観点の文章など。詳しい記録は、本文中の文献などを読む必要があるが、広く検討されることを期待したい。(2005.8.6)


Magazine208:子どもとつくる対話の教育 

 鈴木和夫『子どもとつくる対話の教育』山吹書店、2400円と税金。

 鈴木さんの実践は、絶えず注目され続けてきた。本書には90年代から0年代に特に注目された実践記録が納められている。一つは、Tというキレて暴力的になってしまう子どもを中心にした一番新しい注目の実践記録。二つ目は、「ノブ」を中心とした「私たちは平和的に生きられるのですか?」という実践記録。三つには、これまた有名な「カンコーヒーから日本を見る」の実践記録。四つ目には、「風の谷のナウシカ」の実践記録。

 このように並べたからといって過去の実践記録を集めただけだと理解してはいけない。生活指導誌などに掲載された記録よりも詳細に描き直されていて、授業の計画や授業の過程がずっと詳細になっている。また、その記録の前後に、その記録に関する問題意識や構想の意味が書き下ろされていて、実践記録としても提案の文章としても刺激的であった。さらに、千と千尋の神隠しの実践や、ごんぎつねの授業など余り知られていない記録も収められている。

 

 以下、私が注目した文章や記録の部分について記しておく。

 一つ目。「学級を舞台にして起きるトラブルやもめごとは、その当事者間の問題であり、かぎりなく私事化され、個別化され、中略、しだいに<市民的公共>から乖離し、崩壊していくのである。」(35頁)こうした現状に挑むように、「よそよそしい関係」としての市民的公共を主として班を舞台に展開していく。この班の位置づけは面白い。「班をつくりたいと思うものは、自分にとってこういう班がなぜ必要なのかをみんなに話し、理解してもらうこと、どんな班にしたいのかを真剣に考え、みんなに提案し、了解してもらってから班を編制するよ」という教師の説明に表れている。何が違うのか。それは、「班ありき!」と対極の位置にそれをおいたことだ。班とは何かあるいはその役割や機能について学んでしまった教師は、その役割に相応しい位置づけを最初からしがちだ。しかしそうではない、子どもにとって必要な班の位置を明確にするところから始めている。ここにも、公共性とはその担い手が構築するものという観点が貫かれている。

 二つ目。「私たちの『生活指導』は、子どもたちの行為・行動のあれこれに介入して、お仕着せの態度を子どもたちに注入することではない。自分たちの行為・行動をとおして意識化されたコンテキストを変え、新しい価値世界をつくり出し、自らが生きていく世界を新しく変えていくことである。」その力が本当の「学力」だといっている(109頁)。新しいコンテキストを生むこと、自分たちの物語を授業でもつくり出すことが学びだという点が、今日のどうにもぶつ切りにされた授業、マニュアル化された授業が横行する中で、最も重要な視点だろう。先日の佐賀の中野実践におけるソバの実践もそうだ。そこに子どもたちの物語を新に誕生させていっていた。

 三つ目。ナウシカの物語から環境問題の学習へと入っていた時に、とあるグループに向けて語られた教師の言葉。「いや、感心しているんだよ。『政府が悪い』『車をつくったやつが悪い』『車使うやつが悪い』と言っていて、なんていうか、きみらは『あいつらむかつく!』という程度のケンカしかしないのかとおもってたからさ」ケンカに知性がいることへの発見であると同時に、公共的なケンカの発見となっている。

 四つ目。実は、ひょっとすると、この点を私は一番注目している。授業づくりとは、教師が発問などの指導言をつくることじゃなくて、子どもたちが探求するテーマをつくり、仲間と共同して探求していく学習過程とスキルを持つべきなのだと言っている部分だ。(235頁)その具体像をいくつか示しているのだが、その一つが、私が学部の講義で行う授業づくりの手法と似ているような気がするのだ。おしゃべりが授業となる手法なのだが、従来の授業づくりの発想と異なる枠組みで、およそ従来の指導案のかたちになじまない。多様に検討する価値のある本が刊行されたと思う。

(2005.8.3)

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