2005年10月1日 (土)

Magazine227:高校生活指導166号 

 全国高校生活指導研究協議会編、青木書店、1200円と税金。

 今号の特集は、生徒にことばが届くときと進学校の明暗の二つ。

 全体として今号は、前号より内容的に興味深い論考が多かった。教えたい派の高校教師は読むと良いことがあるかもしれない。言語記号・音声や映像にすると伝わったと信じている人のことをここでは教えたい派。だから、私を含めてほとんどの人が該当するでしょう。そして、無視という拒絶と反発にストレスを感じる人や、生徒に影響力を持ちすぎていると思っている鋭い人も読むといい気がする。

 さて内容の内のごく一部について感想。

 竹内論はモノローグとダイアローグ(対話)の違いをバフチンの言語理論から、「対象に対して話し手と聞き手が横並びになる」対話でないと教師と生徒の関係はいつまでもモノローグだと。つまり、届かないと。届かない言葉は街頭のスピーカーでうるさいだけということ。

 原田論文は、これが読ませる文章。私のブログに香山の本に引っかけて書いたことが、原田論文の冒頭と響き合っている。子どもの声から耳をそらす教師がいるという指摘だ。「小学生がそんなことするなんてぞっとする」というような発言だ。原田自身にもそういう事態に陥る危険があると自覚しているから怖い。「教師が聞いて、質問し、肯定する」それが、子どもの声が聞こえ、教師の声が届く始まりのようだ。始まりの後には終わりがこないといけないが、最後の部分に価値の探求の問題に触れている。これは、手法ということもあるだろうが、どんな応答をするのかが勝負ということだろう。

 表現すべき思いを持たないでいる生徒たちへの五日市実践面白い。創作四字熟語による自己紹介の谷実践など面白いと思った。これはいける。直ちに国語教師でなくても使える。

 筑駒の井上論文についてはブログに書いたので省略。エリート?!

 進学校における不登校とリストカット、自立的判断をしない生徒、他方で進学圧力という声が溢れた特集でまずまず。ちょっと違うだろうというのもあったけど、そう思ってしまう構造があるという風に理解すれば、あらま!と読める。

 (2005.9.29)


Magazine226:義務教育を問いなおす 

 藤田英典、筑摩書房、900円と税金。

 中教審の義務教育部会の委員でもあり、政府や中教審全体が行おうとしている教育の仕組みの改変に全体として反対の意見を表明している唯一の委員(唯一ということは他にいないということなのだが、これを断り書きする意味には結構厳しい私の批判がある。誰に向かってかというと、今日の教育改革に反対を表明していながら、なんか奇妙な編集となっている雑誌をみかけるらしいから。)と言っていいだろう人が藤田である。

 現在の新自由主義的で国家主義的(新旧保守主義)な教育改変は、競争主義と強者の論理と成果主義を基本原理としているが、これらの議論の誤りを条理を尽くして語った本である。データも示しながら書いているので、現在の教育改変について大きな声で語りたい人は一読が必要でしょう。

 戦後の教育の原理や原則に則して、現在の改変に根拠がないことを示しているので長いけれども読んで頂きたいものである。その結論的な主張は、私のスタンスと重なることが多い。

 ただ、学び論、授業論に係わる論点になるとひどく違う。

 例えば、「成績がよくなれば、興味・関心も高まり、楽しいと感じるようになる」という因果論に立つという(281頁)。逆の因果論に立てと私は主張しているのではない。この二つをたてて、一方を採用したときに、そこにある学習へのある種の見方に異論がある。

 確かに、他方で、その興味は子どもの行為の中で生み出されるという指摘もおこなっている(290頁)。しかし、定型的な知識の学習への参加と努力がこの分野については濃厚に要求されている。内容そのものを捉え返す視点、学ぶということの多様性についての視点がないとはいわないが、古いように思われるのである。他の委員よりはずっと優れているとおもうけれど。この点については問い直しがなされていないのではないかと読んだ。

 (2005.9.26)


Magazine225:なぜ加害を語るのか 

 熊谷伸一郎、岩波書店、480円と税金。

 日本の軍隊や過去の戦争を美化したい人たちは、残虐なことはしてこなかったとか、戦争ではお互い様だからと言いたがるので、それに同調しそうな人には読んで欲しい本である。満州で下士官、兵隊、憲兵として戦争犯罪を犯し、抑留され帰国した人々の集まり「中国帰還者連絡会」の歴史を縦軸に、そのメンバーたちの証言をちりばめた本である。

 以前に取りあげた『BC級戦犯』は、その裁判、処遇や結末が中心で、戦犯たちの証言が少ないし、戦後の暮らしをカバーしているわけではないので、こうした本とセットで読むとより実像に迫ることができるような気がする。

 本論と関係は薄いが、本書の冒頭に絵鳩という東大出の初年兵教育係が中国人4人を突き殺させたと証言している話しがある。加害の事実、加害を語ることの困難と、加害者になってしまうことの事情が本論として重要なのだろうが、ふと別のことを思い浮かべる。

 それは、和辻哲郎という名前によって引き起こされたのだが、当時も、そして今も、いや今の方がひどく不公平な感じを持っているのだが、軍国主義の巣窟としての大学と言えば、京都帝大が引き合いに出される。実際、思想的な中核としての役割を果たす人物がいたことも事実なのだが(京都学派と呼ばれることもあり、その中心は西田。近年擁護論が色々あるが、そしてリベラルという風にも評されるが、和辻もその一味だが、軍国主義の支柱という要素も併せ持っていたと考える。神風特攻隊の言論にはそうした思想のかけらではないかと思われる記述がしばしば登場する。)、しかし、思想統制の中核的な役割を果たしていたのは東大だった。教育勅語の公式の解釈を書き、解説して回っていた人々もここにいた。リベラルではなく真性の軍国主義であった人も多数いたし、リベラルとは戦争協力と同じ意味ではなかったのだろうか。横道の方が長くなってしまった。教育と思想に関わっては、東大・京大・東京文理大・広島文理大はほぼ同罪なのではないだろうか。加害を語るのは難しい。

(2005.9.25)


Magazine224:性的マィノリティの基礎知識 

 ヴァネッサ・ベアード、作品社、1600円と税金。

 本書は性の多様性を人権を求める闘争と位置づけるところから始める。だから、本書の巻末付近には、世界人権宣言が収録されているし、世界各国で性的マイノリティを非合法あるいは迫害する法律があるかないかなどの世界調査の結果が示されている。

 日本的なジャーゴンのマイノリティ用語はないけれども、英語圏のマイノリティ用語はほとんど解説が付いている(例えば、クイアというのは日本では異常性愛で、オーソドックスな同性愛も含みつつも「異常」に力点を置いて理解されている気がするけれども、本書では各種の同性愛やトランスなどすべてを含んだニュアンスで規定されている。)だから、入門的で基礎的な知識を解いているのかと思いきや、そうではない。

 一つの特徴があった。それは、グローバルな動向をフォローすることである。冒頭が、エルサルバドルの同性愛者などを20人も殺害した事件の今日的な対応=グローバルな組織の支援の下に国家もわずかながら保護をするようになったという話から始まる。

 以後も、アフリカ・インド・中国などあまり取りあげられることのなかった地域のマイノリティの事件、歴史、制度が取りあげられている。そうした地域の歴史についてはこれまた知らないことが多くて教えられることが多かった。当然、欧米諸国についても論及されている。

 ともかく、日本は今また偏見が厳しく渦巻く時へと突入しているだけに、こうしたグローバルな動向を踏まえておくことは、そこに展望と希望を見いだすことを可能にするだろうと思われた。(2005.9.22)


Magazine223:数学教室10月号 

 数学教育協議会、国土社、686円と税金。

 今月号は、あの小寺さんの授業記録が載っている。したがって特集も「身近な事象を比例で考えられるか」だ。算数の世界も数学の世界も具体的で社会的な意味を持った事柄と遠いと考えられている中で、ここ数年、数教協は逆の道を探求してきている。それは、子どもの変化と数学本来の意味に立ち返ってのことであろう。オタク的世界に浸りがちな一部の動向への批判意識でもあるだろう。

 さて、小寺授業は、風呂桶に水を貯めたときに何分で一杯になるかについての比例の授業だ。本当のお風呂は曲線があるので、直線にならない。しかし、それも比例として考えていくことができるという授業だ。単純な一次関数的な比例にはならないが、それでも比例と見て行くことができると言う授業であった。

 本人も指摘していたが、内容詰め込みすぎで期待通りの認識が全体としてできあがったかというとそうではないように思われるが、それでもこうした発想で授業を変える試みは明日を示唆していると思う。授業検討会の特に後半の落ちが今のところの到達点だろうか。

 20メートルの金網で面積最大のウサギ小屋をつくる問題は確かに面白い。また、単振動の問題も「数学ってすごい」という問題として面白い。

 小学3年生のわり算の井上さんの授業は、習熟度別に分けられた「できる子たち」の記録である。この学校は、最初から「習熟度別」クラス編成らしい。井上実践において、多様な子が混じっている授業の場合との違いは、記録を読む限り二つあるらしいと読んだ。一つは途中「できる子たちだから」と子どもたちの中にある掴み方の揺らぎをつめなかったらしいこと、二つは最後の問題づくりの部分。全体量÷いくつ分=1あたり量と全体量÷1あたり量=いくつ分の意味の違いについて十分に成功していない気がした。「できる」という思いこみが、揺らぎの振幅を大きくすることをさせなかったように思われた。(2005.9.19)


Magazine222:授業づくりで変える高校 

 竹内常一編著、『授業づくりで変える高校の教室2国語』明石書店、1800円と税金。

 社会の巻は自分で編集したのでここには取りあげない。趣旨は、高校における教育の困難という所から出発している。どの巻もこの発想から出発している。

 本書について、高校はどの高校も同じで、教育の原則として大切なものは変わらないという感想を目にしたことがある。そう確かに変わらない。

 しかし、変わらないとしかいわない人の言説(と人)を私は信じない。いつも人を、固有の人を見ていないからではないかとも思うし、教えと学びを新にとらえ直すことがないからだと思われるからだ。

 そうした言説(人)とは逆に、この巻も、生徒の声を聞くことを主張している。

 神林は聞き書きをしながら、まさに聞きながら自己と他者を重ねていく中に、生徒の声の在処を引きだし、社会とつなげようとする。

 札埜実践は、国語というナショナリズムとエスノセントリズムを解体する。国語の授業のその「らしさ」批判を展開している。大阪言葉を方言として位置づけた実践を開始した頃から、それを越えた地平の掴み方を説明する。その趣旨とおよその展開はわかる。ただし、札埜の記録はもっと実践的なやり取りが描かれていると良いと思われた。その点だけが惜しまれる。

 夜の水泳の谷実践は、普通の国語教師が一番まねしやすいかもしれない。作品を読むという一番ありふれたアプローチだからだ。しかし、この実践の仕掛けは、生徒の文脈とつなげていく読みというところにありそうだ。だから、ただ、作品を解釈することしかできない教師には難しいのかもしれない。

 今村は、「込み入った人間の内面」の断面を見事に取り出す。とりわけ、生徒の表現したもの、振る舞いを含めて見事に救い出していく。学生がこの実践がとりわけ面白いと言っていたが、その中身は聞かなかったが、そこいらにあるような気がする。サッカー部と天文部の二つに入りたかった高校生が、ひとつに集中すべきだというサッカー部顧問にしたがって迎えた3年の夏。引退した所へ天文部の顧問が1年の時のことを覚えていて天文部の合宿に誘う。「星を見たい」といった一言だけを覚えていた顧問に、夢をあきらめないことを教えられたと書く生徒。だから、中途半端を怖がらなくなったと書く生徒。これは、事実である。しかし、事実を救い出した教師今村がそこにいる。詳細は、本文を読んで頂きたい。また、教育学的な意味は竹内の解説を見て頂きたい。そう思う。(2005.9.18)

 


Magazine221:行為する授業 

 H.グードヨンス(久田敏彦他訳)、ミネルヴァ書房、3500円と税金。

 久方ぶりのドイツ教授学の理論書の翻訳本。1章と2章は現在の状況と理論的前提の議論となっていて読みにくい。3章は行為的授業の一つのモデル的形態とされるプロジェクト授業の構想が具体的に記されている。4章も理論問題に触れてはいるが、日常的な授業を行為的な授業へ変える時のそのポイントや理論的な課題が論述されている。そして最後に、久田氏によるグードヨンスの構想の位置づけと、日本における状況と結び合わせながら、その意味がどの辺りにあるか簡潔に紹介、提示されている。

 だから、解説を読んで、3章と4章を読み、それから1と2章を読むという順番が一番いい気がした。私は、前から順番に読んでしまったが。

 さて内容。実践的にわかりやすい言い方をしてしまえばこうだ。

 読んだり、書いたり、教師に問われながら答えていく授業を普通の旧い授業とすれば、そういう授業を行為的な授業に変えるという構想だ。プロジェクト授業は、問題の設定、生徒と授業の計画を立て、問題に行為的に取り組み、実際に検証していくというものだ。ここには二つの特徴がある。

 一つは、生徒と何を学ぶか、どんな風に学ぶのかという教師と生徒の共同決定が重要な位置を占めていることだ。これをデューイの民主主義論から根拠づけようとしている。

 二つは、行為的な活動の導入だ。例えば、教室の真ん中に線を引いて、独裁国家への援助の是非をめぐる討論を行う際に、その線を境に賛成や反対の程度に応じて立つ位置を変えて議論するという風にだ。行為化するというのは多様に考えられているようだ。

 このようにすることの根拠が2章を中心に述べられている。その根拠には、レオンチェフ以来の活動理論、構成主義の行為理論、デューイの理論、その他が用いられている。実践の問題としてはフレネの手法が大きく採用されている気がした。

 行為することと知的操作の関係、教師と生徒との関係など微妙な問題にも論及されていて、日本でも、そして私も議論してきた事柄に関わる論点がいくつも提出されている。全体として、グードヨンスは、微妙な問題に対して穏和な解答を与えているように第一読解としては理解した。

 活動的な学びあるいはワークショップ的な学びの一部にある「活動主義」を批判的に捉える上でも参考になる議論だと思われた。誤解を与えるといけないのだが、一部というのは、特定のワークショップには特定の限定された反応のみを認め、それ以外を制御しようとする動向である。こういっただけでそれがどの辺りのそれかが分かるあなたは素晴らしい。そうです。あの人たちの中にある傾向です。運動の生まれと関係があるのかもしれません。グードヨンスは日本のそうした動向は知らないだろうけれども、そんなものへの批判となる指摘を行っているではないかと読んだりした。

 ただし、翻訳は原文の表現を忠実に訳そうとしているためだろうか不自然な所や、一文が極めて長い所が散見される。その点は覚悟して読む必要がある。(2005.9.15)


Magazine220:コンビニ弁当16万キロの旅 

 ブログにも書きましたが、千葉保監修、太郎次郎社2000円と税金は、子ども向けの本だけど、教師の授業づくりにぴったり。こういう本から授業をつくるのが基本。詳細に調べ上げて授業をつくる道もありますが、一つのことしかしないで済むなんてことはあり得ませんから、普通の教師にはそれは不向き。むしろ、これで作れると思える人こそ教師としてはいいんじゃないかと思う。

 さて内容は、コンビニの店の数、売り上げ、コンビニの運営について、1章と2章で具体的に記述されています。3章では、コンビニ売り上げ1位の弁当の作られ方が示され、その材料のやって来方が4章(フードマイレージ。これはMagazinで去年一度取りあげたことがあります。)と5章(バーチャルウォーター。これは歴史地理教育の6月号で取りあげられていました。)に記述されています。

 コンビニは、一般に体に悪い弁当が売られてきましたが、そして今も脂っこいものが多くて私の趣味に合うものは少ないのですが、本書冒頭にあるように、それとは違った試みもあるようです。それは、am   pm。

 日本の食料生産の問題、食の問題を考える格好のデータが納められています。

 授業構想、実践記録を作ったり試してみた方は教えて下さい。(2005.9.12)


Magazine219:二〇世紀の自画像

 加藤周一、筑摩書房、780円と税金。

 ほんと色んなこと知っていると感心することも多い。戦後の加藤の暮らし方、発言してきた経緯を成田龍一が聞き出す形で書かれている。加藤周一著となっているけれども、本当は、共著だろうと思う。

 戦後思想について文学などを中心に語っている。それにしても博識だと思う。私が多少とも知っている極狭い分野については、まあと思うこともあるけれども、多分野に渡っている点が何ともと思う。

 他方で、私は、きっとこの人を良いと思わないだろうと思う。博識だし、結論的主張のほとんどに同意するのに、避けたいと思ってしまった。おそらく次のような類の発言の臭いが私の体質と合わないのだと思う。

 「彼らが何を言ってたのかということがないと、あまりにもバランスが崩れていると思ったんです。そこに個性があり感情生活の起伏があったにちがいない、人間ですから。」86頁

 この文の「彼ら」というのは大衆を指しています。大衆文学を文学史に位置づけるという話しをしているわけです。所が、逆に、いいからやめてくれと思ってしまった。他の話題の時にも、例えば、加藤さんは子どもにも十分な尊敬を与えていない、そういうニュアンスを私は読みとってしまう。そんなこんなで、なんだかね。(2005.9.9)


Magazine218:『悪霊』神になりたかった男 

 亀山郁夫、みすず書房、1300円と税金。

 一連のシリーズの2冊目。これも面白かった。水林のカンディードとは違った読み方でテキストを読んでいく。一種のドストエフスキー論でもあるわけだが、こちらは、文章の表現をその言語学的構成から読むのではなくて、その登場人物の描かれ方、他の登場人物との関係を当時の社会状況やドストエフスキーの創作過程と関わらせながら読んでいく。それぞれの登場人物の側に立ってみてこの作品世界を見るとどのように見えているのかと言うことを想像しながら読む。作品を複数性において読むというバフチンの理論をある種具体化したその手法は参考になった。と同時に、その想像があり得るかどうかを読みの確率として提出していくその手法と、読みの内容も面白い。

 一番のおもしろさは、従来の悪霊の理解とは違って、ルソーの告白を引用しながらその引用によって含意させたものを解き明かしながら、神の破壊を主題としたのではないのではないかと展開していく部分である。ここは一番良いところなので、自分で読んで下さい。

 そうした作品の読みとはすこし離れますが、「恐怖とは社会的」「憎悪は存在論的」といった指摘や、告白の意味の指摘なども興味深いものであった。文学に依拠しているので、その把握の理論的説明というわけではないが、掴み方がいつも具体的な作品を背景にしていることがわかって立ち止まって時々考えることになりました。(2005.9.7)


Magazine217:デイアスポラ紀行 

 徐京植、岩波書店、740円と税金。

 プリーモ・レーヴィへの旅などの著作で私の中では有名な方の新書。出だしは、韓国と朝鮮という言葉の国家と民族と国籍の関係の複数性についてである。工学部にいた知人が在日で、日本から出国した場合日本に帰れない可能性のあること、日本国内でもトラブルを抱えると日本にもいられなくなる可能性のあることを話していたことが思い出される。

 母語と母国語が違うこと、いや違う人がいること。あるいは祖国と民族と国籍などなどこれらが違う人がいること。違うためにどんなことに不都合や当てはめや差別があるかを主に諸外国への旅と、それぞれの地での様々なデイアスポラの足跡、作品などを通して記してある。そんなこともあるのかと気づかされることが多い。

 ただ一つ、音楽について誰かのあの時の演奏は絶品であったなどいう記述が所々に出てくるのだが、本書の本論には関係ないのかもしれないが、その理由を書いてくれてあると本当によかったと惜しまれる。

 デイアスポラでない人がマジョリティとして多数いることが当然の前提にされているが、そうなのかなと思った。デイアスポラを旅に例えていると思われるのだが、そこにかけるなら、デイアスポラだけじゃないだろうと不遜かなとも思われるが、思ってしまった。

(2005.9.4)


トップページに戻る