2005年11月1日 (火)

Magazine238:マルチチュード 下

 アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート、日本放送出版会、1260円と税金。

 上下2冊で刊行された。ただし、上は、私の趣味から遠かったので、まず、下。マルチチュードという概念が掴みづらいので、しつこくこれも買って読んでみることにした。それは、多数多様なものでありながら、他方で共同的なもののことを指す概念で、公対私という世界の掴み方に対して異議を唱えるものというあたりまでは理解できたかなというところ。

 下の部分が私の世界に関わる領域に近い話しをしているので読んでみた。下は、私的所有としての私と主権国家における公という掴み方で世界をみてきたが、新自由主義のもとで、その主権国家を越えるものとしての「自由」が世界を凌駕しつつあるその世界をとらえ直そうとする。特に、民主主義というイメージの転換も目指しているようだ。

 公を越える私としての「自由」=グローバリズムが、他方で国家の再建を目指すという矛盾に目をむけて、それとは違った世界の胎動を見いだす試みのようだ。まだ、共のイメージが掴めてないので、この理論についての判断は今回も留保。

 (2005.10.30)


Magazine237:クレスコ11月号 

 クレスコ編集委員会、大月書店、476円と税金。

 今月号は、佐藤学インタビュー、岩川直樹の学力テストについての文章、久田敏彦の競争と学力形成の動向批判、犬山の教育についての中嶋哲彦の文章がおすすめ。

 佐藤の話は、最近の義務教育費の地方移譲が国の責任の放棄だという話しと、地方分権化による統制の強化の問題を話している。学びの共同体論はどうでしょう?

 岩川直樹のテストについての動向批判には同意することが多い。階層格差の現状についての認識と階層格差論を展開する人への批判の目差しにおいて近いなと思う。また、テスト向け学習がはびこる学校になってきていることへの批判と、学校の区切りの変更をめざす動きへの批判についても穏当なところ。

 久田論は、学力政策の動向を批判的に捉えながら、学力形成だという取り組みが本当にそれで学力形成となっているのかという眼差しで見ると、そうなっていないことが見えてくるということを指摘している。

 中嶋論は、教育委員としてはそういうだろうなと思いつつ、確かに、能力主義の動向を拒否したという市教委の基本方向を支持しつつ、しかしそれでも、ドリルなどは拒否したはずの発展問題と基礎問題風に作成されている現状がそこにある。そういう事実もまたあるという風に読まないと違うということも指摘しておかねばならない。(2005.10.27)


Magazine236:ご臨終メディア 

 森達也・森巣博、集英社、680円と税金。

 二人が日本のマスコミの堕落ぶりを語り合っている本。マスコミの堕落ぶりを語り合うということは、他方で、市民の自律的判断の放棄、停止、依存ぶりを語り合うところにつながるのだが、そこに二人のとらえ方の異なるところがある。

 森の方が、マスコミが世論をつくりながらも世論にマスコミが依存しているという両義的なつかみ方をしている。森巣はマスコミこそが自律的判断を停止し、世論操作を行っているという方向に傾斜している。

 何であれ、どこにマスコミによる世論操作機能が発揮されているのかをそれぞれの得意分野に関わりながら皮肉たっぷりに語り合っている所が本書の特徴。例えば、石原慎太郎はあれほど日の丸君が代を掲揚・斉唱するように人には強制していながら、ウルトラナショナリストであるにも関わらず、自分の家では祭日に掲揚してなかったなどと。

 他愛のないことも飽きさせないように織り込まれているが、サダムフセインのやったことは「拷問」と表現し、アメリカ軍のやったことは「虐待」と表現するマスコミなどと、そこの自己規制が働き政治が作動していることを、多様に気づかせてくれる。マスコミの堕落ぶりと合わせて語られていくけれども、自己にも帰ってくる問題として本当は深刻だ。

 こうした列挙の中には重要ではないこともあるかもしれないが、二人の批判精神はまだ大丈夫だと思われた。(二人の著作を他にも読んだことがあって。同じネタが使われるようになると、賞味期限だと思うことにしている。私自身は、論文には違うことをどっか入れることにしているけれど、同じネタも使っているから・・・かな。)

 「弱い者に強いマスコミ」になぜなったのか、元々そうだったのか、同じ心性を市民(300万東京都民)がなぜ持つに至ったのか、その解答は本書にはないけれども、その心性の危険性と論理の問題性だけは読むことができる。(2005.10.24)


Magazine235:『銀河鉄道の夜』しあわせさがし 

 千葉一幹、みすず書房、1300円と税金。

 理想の教室シリーズの一冊。私にとってはこのシリーズ3冊目か4冊目。234の石原も一冊書いているのだがまだ読んでいない。

 タイトルにあるように『銀河鉄道の夜』を中心テクストとして宮沢にとってのしあわせとは何であったのかを問いとして、それに応え、それを通じて「しあわせ」とは何かについての話しをしている。

 農民芸術論にある「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉。この言葉は、文字通りに受けとると、現実的にあり得ない話しをしているように思われるわけだが、このことの可能性を要するに議論している。中盤までは、作品に密着して、終盤一挙に千葉のこの点に関する読み方が示される。その主張の一番良いところを以下に若干の掴み方は捨象して記しておきたい。これは、11月号に書いた生きることに関する議論とつながる。箇条書き風に上記命題に対する回答を並べてみる。

1)現実の世界では、世界中で戦争や飢餓、殺人など不幸が渦巻いている。だから、あり得ないテーゼと見る見方。

2)人のために自己犠牲的行為を果たすことが幸福への道とする見方。

3)だが、自己犠牲が第三者の不幸を生む場合、幸福に至らないとする見方。

4)いや、幸せがわからない間の不幸は、試練として甘受すべきだ。

5)いやそれは、全体のために個人を犠牲にするファッシズムだ。

6)問題が残されたままの場合、全体のための死という自己犠牲は自己満足であって、実際にはすべてのものの幸せのためではないという見方。

7)自己犠牲による死は、犠牲によって救済された側への負担を課す行為として肯定できないという見方。

8)いや、個別のものへの犠牲(愛)ではなく、しかも類への愛のような博愛ではなく、個別的な愛をすべてのものにと捉えることができよう。賢治はそう捉えていたと。

9)しかし、個別的な愛を第三者が仮託されてしまう問題を持つ。

10)贈与された自己犠牲を負担として返済するのではなく、他者の犠牲を自己の生への肯定として受けとめ、次へと遺贈するということ、それが幸せではないか。

 最後の10)が千葉の把握。少々の迷いながらの私の読み取りによれば、他者からの犠牲的な行為を、言い方を変えれば、迷惑をかけながら生きていることに対して、自己犠牲によって生きると捉えるのではなく、あるいは死によって迷惑をかけることから脱出することではなくて、ましてファッシズムのように全体のために個人を犠牲にするというのでもなく、他者からの働きかけを自身の生の価値として受けとめ、他者へその生が価値あることを示して行くことなのだということであろう。

 さて、こうして生の肯定を他者との関連でも見つけ出すことができた。だが、事柄はそう簡単ではない。具体的に生の肯定を他者との関連で見つけ、遺贈していくことはたやすい道ではない。しかし、死を肯定する議論が過労死でも靖国でも、そして「純愛ドラマ」が流行る中では知性が一層必要なようだ。(2005.10.20)


Magazine234:国語教科書の思想 

 石原千秋、筑摩書房、680円と税金。

 本書は、国語教科書の道徳教育としての仕掛けが、選択された作品と課題に配置されていることを小学校と中学校の例で示そうとした本だ。他にも、道徳教育として国語(文学作品や説明文)を使うのではなく、情報の伝達だとか作品の批評だとかを中心にすべきだとかと論じた本である。

 環境問題を扱った松永勝彦『魚を育てる森』のような作品に「私たち」という言葉が頻繁に使用され、環境問題が個人の問題に還元されているというようなことを示していく。「こころのノート」批判においても、「やるべきことをやらずに自分の権利ばかりを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか」という文章を批判して、それは厭な奴に過ぎないし、「やるべきことをやって、自分の権利を主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じる」というような文章や、「やるべきをやらずに他人の義務だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか」というような例文をしめして、その文章の批判をしている点などに共感を覚える。

 しかし、構造主義的な手法のうち、その構造を成り立たせているものについては、批判がない。例えば、共生という趣旨で取りあげられている作品が、実は共生でも何でもなくて、人間のご都合主義に過ぎないと批判する。これは、おおむね正しい。しかしでは、共生とは何であろうかという問いは立てられない。それは、自身の共生についての把握でお終いだ。構造主義の問題点とされてきた点は残されたままのように思われる。文学の世界ではテクスト論というらしいが、私にはそれが構造主義に影響を強く受けているものらしいことぐらいしかわからないけれども、その点の吟味に踏み込んでいたらもう少し違った評価になったかも。

 もう一つ、PISAの読解のリテラシーの成績不振の問題を取りあげて、鍛錬論的な学習を推進してもムダだということを論じている部分も全体として賛同する。しかし、石原もまた「ゆとり教育」という言葉を間違って理解している。「みんなが満点」という思想だったと掴んでる。それは間違いだ。多元的能力主義の教育政策が「ゆとり教育」だ。

 最後にもう一つ、情報のやり取りの力を強調するのだが、現行の教科書において情報のやり取りに重点をおいた中身になってきている中で、その情報発信の相手が不在だとか書かれてあった点はその通りだとも思うが、私から見ると、情報を発信する主体も不在のように思われる。なぜ伝えたいのかを問わずに、他者も、内容もないではないか。

(2005.10.18)


Magazine233:脱「中央」の選択 

 苅谷剛彦ほか、岩波書店、480円と税金。

 鹿児島県教育委員会の基礎学力についての方針と「総合学習」の方針を主たる素材に、文科省のそれらに関する方針とは異なる独自性のある方針が生まれていたことを示そうとしながら、教育における地方分権の可能性を打ちだそうとした本だ。

 この本の主張は、中央支配の教育に対して、地方が専断的もしくは独立に教育をというのではなく、下から上へのフィードバック機能を持ったネットワークモデルが鹿児島県教委にはあったと言いたいらしい。その方針は、簡単にいえば、「基礎学力」重視の方針を教科学習と総合学習の部分に打ち出したということだ。

 独自性について断定できないと色んな所に留保を付けているが、全体の色彩は県教委の方針にそういう点があったという指摘になっている。

 しかし、本書の主張はいくつかの点で怪しい。

 例えば、新学力観や「生きる力」という文科省方針に対して、鹿児島県教委の方針が反旗を翻したかのように論じているが、それは事実誤認を含み、かつ苅谷の学力低下論へのご都合主義的な回収のように思われることだ。むしろ、ながめて見れば、文科省の方針どおりとしか見えないのである。

 さてその理由だ。

 九州・沖縄では、苅谷らが取りあげた時期以前から、基礎学力徹底の取り組みが進学率などと関わって追求され続けていた歴史がある。

 また、鹿児島県教委の方向転換なるものは、苅谷あるいは一部財界関連などによるすでに始まっていた「学力低下論」にのった方針記述であることが推認される。総合学習の体験主義批判もそのころすでに始まっていて、我々のグループが1999年に刊行した『共同でつくる総合学習の理論』フォーラムAでも指摘しているところである。

 その後の学校の総合学習の研究冊子の記述についても、文科省公認の方向と軌を一にした内容であり、ねらいを明確にするという方針や教科との関連を記すというのも同じである。

 だから、独自だというのだが、それが独自には見えない。むしろ、苅谷らの「学力低下論」にのって、学びを貧弱化する方針を近年の動向と同じく打ち出したものに見えるのである。

 あえて言えば、地方分権のネットワーク型状況が生まれたのではなくて、文科省的方針だけで地方の方針が作成されるのではなく、マスコミの情報操作にものりながら作成されるようになったという方がいいのではないかと思われた。

 さらに、学校や教師の視点からいえば、それらとも違った世界があって、ネットワーク型モデルでは捉えられない実践世界の要請があると思う。(2005.10.15)


Magazine232:生活指導11月号 

 明治図書、760円と税金。

 今月の特集は、いのちを学ぶ、そして、管理主義・成果主義に立ち向かうの二つ。

 いのちを学ぶの特集の実践記録は、これは面白く、切なかった。豊田実践は、アスペルガーと診断された子とストレスで目が見えなくてしまった子との対話を中心に記されている。学校なんてなくなればいいという子がB。

 豊田のアプローチは、

 1)Bに楽しかったことを聞く。

 2)親との対話。安心を生み出す方向での対話。

 3)身体活動への着目

 4)関われる子探し

 米澤実践は、荒れる子どもたちに「容貌障害」の方を教室に呼んでの対話。生きづらさを生きた人から学ぶ実践と位置づけるといいのだろうか。

 安村実践は、アルコール依存から離婚、暴力から避難しなければならない中学生がいるということを提出している。いることの哀しみは受けとめられたように思う。さらにそこから、その先に何を学んでいくか、シェルターの問題、社会的支援の問題、失業問題、働き方の変化の問題などいくつもありそうだ。

 相変わらず坂田論文は読ませる。評価しながら課題を厳しく出してます。

 私の論文は、大瀬実践については評価しているところを慎重に読んでもらうといいんだけれども、金森実践については内容の分類を書くところまで終わってしまった。

 成果主義の現状が率直に吐露されている。どう立ち向かうかはまだまだ作戦会議が必要だと思った。(2005.10.13)


Magazine231:社会の喪失 ほか

 市村弘正・杉田敦、中央公論新社、780円と税金。

 市村の10数年前の論文に杉田が議論をふっかける「対話」からなっている。ある種のリメーク本だ。

 対話の部分では市村の話しの方が面白くて、杉田の話は問題を深める方に向かわない。なんだかかき混ぜてるだけのように見える。思考のフロンティアシリーズの『権力』を面白く読んだ印象が消え去った。だから、市村の話ももともとのテキストの方が考えさせるところがある程度の話しへと低下させられている気がする。買うんじゃなかったと後悔。それ以上に他の本を読む方が良かったと思ったり。

 説明できるほどに理解していないからここに単体で取りあげないけれども、『相対性理論』岩波文庫はジュゲムに触れたように読んでよかった。途中で計算式を確認するのが面倒になってそれは放棄したけれども、読み切った(読み切ったと言わないか!)。

 「異なるスピードで運動する座標系を捉えるには、他者の座標系の時計と、自己の座標系の時計だけでなく、最低限もう一つ他者が異なる座標系にいるという仕組みを明示する時計がいるということ。」これは、相対性理論そのものの理解としては誤りを含んでいる気がするのだが、この論理が使われている説明の部分に以前に見たこの理論を説明した映像とが合致したのが収穫。また、アインシュタインとほとんど同じ把握に迫っていた人がいたにもかかわらず、それを物理学全体の解体にいたらずエーテル論を保守した人との違いはどこにあったのかなどと思いをめぐらしたのも収穫であった。(2005.10.9)


Magazine230:クォータリー1号

 太田出版、950円と税金。

 太田出版だから、そこに顔を出しそうな人が書いている。バナナから見える世界が特集だったこと、上野がケアについてその概念の詮索をしているので購入。

 バナナは、鶴見良行の岩波新書が有名で、その後に論及してくれていることを期待した。岡のベルギーでの議論の紹介と石川のバナナの世界地図という文章は、期待に沿うものだった。しかし、秋山と堀田の対談は、フェアトレードの歩みは分かるが、深まりをその世界に見いだすことができなかった。全体として、フェアトレードへの歩みが続いているが、鶴見の分析した世界が今も変わらず存在していることを確認した。

 上野のケア論は、その定義は中立的ニュアンス。ジェンダー化と脱ジェンダー化について、その政治の作動を理解したうえで、そこに構築されるポストケア世界が見えない印象を受けた。現状の割り振りにおける川本批判に留まっていたと一読。連載されるようだから、きっと後日、本にするだろう。それまで買うことのない雑誌となりそうな予感。

(2005.10.6)


Magazine229:働きすぎの時代 

 森岡孝二、岩波書店、780円と税金。

 90年代から0年代における働きすぎの実態を示した本だ。それがもたらされた原因を、4つ挙げている。グローバル資本主義、情報資本主義、消費資本主義、フリーター資本主義と名付けている。現象に対応した名付けなので、従来の概念と比較してなんだかんだ詮索するのは、詮索する方が間違っている。

 むしろ、グローバル化の中で労働時間が長くなっているとか、情報化が進行したのでどこでも職場になって労働時間が長くなっているとか、消費欲求に応えるためにコンビニのように労働時間が不規則かつ長時間となっているとか、フリーターという不規則労働者の急増などがタイムデバイドを拡大する中で広がっていることなどのことを指している、と理解した方がいい。

 実感的な言い方だから現象を理解するにはいいなづけかもしれない。しかし、データ、事例がいっぱいあるのだが、そしてデータとしてまとまっているので便利なのだが、その世界をすでに生きている人にはちょっと面倒だったかもしれない。

 高校の先生が、資料として引用するには便利だ。個別の人の体験というよりは、数量的なデータが多いだけに、しかも直近のデータまで入っているので、時代的にはぴったりという感じだと思う。本書の後半に行くと、特に、働きすぎの時代と社会を変えることが今こそ必要だという思いが伝わってくる。

 蘊蓄話。アメリカの研修医のことをレジデントと呼ぶのは、病院に泊まり込んで帰ってこないから。日米ともひどいものだ。

(2005.10.3)


Magazine228:いまどきの「常識」 

 香山リカ、岩波書店、700円と税金。

 堅く言えば、新自由主義と新旧保守主義が跋扈する中で生まれているものの見方の批評をした本である。香山の専門に関係なく、社会/人間評論である。

 その批判の内容において多くに同意する。「ゆとり教育」批判の批判の中身も私とかなり共有する。ジェンダー重視批判も同じ。多様性を認めないジェンダー重視批判として簡潔だ。三世代同居建築の思想のインチキさもその通りだ。

 「何もしないで得する人だけが得する」自己責任論という批判もわかりやすい。「弱い人たちだけが暮らし難く、強い人たちだけが暮らしやすい社会」そんなものがあるのだろうかと言う批判も言い回しがいい。

 「人は死んでも生き返る」という現代の掴み方の批評も面白い。これはさらにつっこんで考えたい部分であった。読みやすく、話しが多岐に渡るので飽きることがない。若い人に薦めたい一冊。

 一点だけ見方が違うのは、最後の平和運動についての見方。その記述以前のナショナリズム批判には異論がない。一つに、村上龍の長編小説は平和運動が現実を見ていないという揶揄だというのにそれへの批判を平和運動の側がしていないという指摘は当たっていない。岩淵さんが新聞でこの小説の批判をしていたと記憶する。

 二つには、平和運動の仕方として今風に変えていくことが必要だという点では同意する点もあるけれども、現実を見ていないという断定は間違っていないだろうか。香山の見ている現実とはでは何だろう。

 (2005.10.1)

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