2006年2月28日 (火)

Magazine257:小さな命がくれた勇気

 キャシー・ケイサー、主婦の友社。

 チェコスロバキアの人口5万人の町で暮らしていたユダヤ人一家の日常から始まり、そこがナチのドイツに占領されて、迫害され、収容所に送られることになっていくプロセスをジョンの目差しで描いた小説。映画化されることも決定していると本の帯には書いてある。

 迫害とはどのように始まり、いかに大変なことなのかよく分かる。是非冬休みに子どもに勧めたい一冊。(2005.12.28)

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Magazine256:現代思想1月号

 青土社、1238円と税金。

 今号の特集は、災害。先日は、例の建築強度の偽装について「災害」と認定するという何とも奇妙な(業界と結託していた行政の責任を回避するための宣伝の臭いがどう考えてもひどくする単語なのだが)事態と対応する特集である。だから、災害を取りあげているが、耐震偽造問題への論文もあるし、米国におけるハリケーンの事例についての議論もある。

 さてまず、読むべきは短いけれど、村上陽一郎だろう。安心と不安の問題を取りあげ、不安は人がその機能を外化したものについて発生していると指摘する。多くモノのを持ちすぎて外化したモノが失われる事態に直面して不安に陥っているのだと。もう一つは情報の過多だという。情報は必要だが、多くの情報を得て、それに基づいて自分で選択判断しなければならない事態に直面して不安が増大するという。これも示唆に富む指摘だ。学校の安全と不安の問題はこの点に関わっていることがありそうだ。

 マイクのニュー・オリンズの出来事も政治的な前後関係が分かって、貧困層が見捨てられていく仕組みがおそろしい。それが共和党と民主党だと言うことであり、日本の与党と多くの野党だとおもった。

 建築史家の五十嵐の論考も興味深い。実際の地震が起きなくても崩壊することになった建物という出だしと、近代の目差しによって、建築物が強度として計測されるようになって、それが何をもたらしているのかを読んでいるようだ。つまり、法隆寺の五重塔は今では耐震計算できないので新に建築することは一般的にはできないのだそうな。古い建物は、基準を満たしているかどうかも分からないけれど、立ち退き命令は出ない。しかし、分かっているものにはそれが出る。そのことの矛盾と不安。さらに、耐震診断を全国的に進めるらしい政府の方針は、空前の建設ラッシュへと向かうことになることを予測させている。そんな議論もあってそこそこに楽しめた今月号。(2005.12.28)


Magazine255:ジュディス・バトラー 

 サラ・サリー、青土社、2400円と税金。

 バトラーの主張の解説本である。バトラーの本は、もともと読みにくい文章として定評があり、その翻訳も日本語として不思議といわれてきた。今回この本は、少なくともバトラーに寄り添った視点から、その理論の来歴と主張を解説してくれていて、バトラーより読みやすい。本の中に、何度も、この本でバトラーのことを分かったつもりにならないでという断り書きが出てくるが、多分バトラーよりもバトラーのいいたいことを明晰に言ってるんじゃないのと思ってしまった。

 バトラーといえば、ジェンダーやセクシュアリティについて構築主義の観点から議論を展開したことで知られている。その議論への批判は、各種の本質主義からの批判が多いのだが、その批判が生まれるのは、要するに、具体的なものと人間における認識の関係の問題についての説明に必ずしも成功してこなかったからだと思われる。少なくとも説得的とは言えなかったからだと思われる。言語論的展開といわれる理論展開を土台にしてきた。だから、認識において言語が主体を構築するというわけだが、その言語と認識の関係においてバトラーは主体の行為の結果を考察・分析することに向かう。そこでは事物の分析ではなく、その認識の分析に向かうことになる。その結果、事物と言語と認識の関係ではなく、人間の認識の分析に向かって発言することになってきた。この観点の違いは、かなり大きい。こうした違いや主体の行為遂行性についての掴み方、あるいはアイデンティティの解体についての掴み方などは、本書の記述が参考になる。

(2005.12.24) 


Magazine254:恋愛の不可能性について

 大澤真幸、ちくま書房、1100円と税金。

 文庫本になったので、15%引きということもあって購入。

 これは、他者とは何だろうという議論を考えるために買った本で、いわゆる世間でいうような恋愛本ではない。大澤がそんな本を書くわけがない。大澤は純化した形で他者を取り出そうとする。だから、そのプロセスでは、体験と行為の区別だとか、自己と他者の差異だとかについて、興味深い定義や指摘に出会う。例えば、愛が真実であろうとするとき、単一的であることを要求するが、私が単一的である時異和的な他者の単一性と照応させることになって、これが矛盾であると指摘する。(70頁)

 ブログの他者についての話しは、この本の5章に関わって記したものだ。それは、大澤の指摘が純化した形式で論述されることの面白さと同時に、そこに身体の歴史性と社会性がさしあたり消えているために、あるいは純化された部品で人間を構成しようとしているように見えるので、腑に落ちない人間行動の読みとなってしまうように思われる点も登場する。それは、自己をそもそも他者と区別された存在としてみることを前提にしているからではないかと思ったりする。(2005.12.22)


Magazine253:先生の元気のモト 

 大阪高生研、青木書店、1600円と税金。

 高生研の中でもとりわけ活発に活動を展開している大阪の著作。この著作は、内容上は三部構成だと理解した。

 一つは、冒頭の小野田正利(大阪大学)の巻頭論文。中学・高校の教師の1人あたり生徒数を日本とフランスで比較している。日本は、11,9人。フランスは、7,7人。この人数の差は、教育を重視するかどうかの違いもあるが、小野田の注目するのは、教師の役割の違いだ。日本の教師は総合職だという。授業だけして帰るフランスと生活指導や各種ケアまで行う日本の違いがあって、そうした仕事にフランスでは別の担当者がいるからだという。そういう意味で総合職として働いており、それは先進的意味があるのだという。例えば、日本の犯罪発生率が、イギリスの約五分の一、アメリカの二分の一などと述べている。こういうのは、日本の教師の力と考えて宣伝していくべきだと力説する。

 二つめは、日本の高校教師も自転車操業状態から「その日暮らし」状態の働き方になってきていることの中で、生徒ととの関わりを如何に作るのかが記されている。このその日暮らしという意味は、多忙ということを意味してもいるだろうが、私はそういう意味ばかりではなく、生徒の言動で何が起こるのか分からず、その場での対応がとりわけ求められていることを示しているように思われる。つまり、学級集団の組織展望、行事の取り組みプロセスについて従来のセオリーに基づいた応答をしていればよかった状況から、日々起こる事件の読み解きとそれに対応した応答こそ重要となっているという実践的提起のように読んでしまった。特に、元気のモト1や2の記録はそうした内容となっていると理解した。こうしたことが重要となっているとすれば、これに対応した展望をどう開くのかが研究課題となるし、それに相応しいサークルの討論も必要となるだろう。大阪の場合、この点では基本方向を持っているらしい。聞いて語る取り組みと、それを基本としたサークル運営。この話題は、構造表のようなものの位置づけに係わって執筆されている(最後の一文は業界関係者以外には意味不明だろうが、わかりたい人は業界関係者になってからでいい)。

 三つ目の柱は、法教育の試み。社会科教師が中心になっているようだが、他の教科や教師の取り組みにまで広げている。私が最近しばしば訪れている司法書士の小牧さんも執筆してる。この記述の中で、実践的なヒントを私は発見した。契約書の文書を読む授業という国語の授業という記述だ。小学校から説明文は、正直いって面白いと思うものはほとんどない。記録文や観察文など、説明文を読むことの意義を書いた国語関係の書籍あるが、本当に学ぶ側の観点から書かれたとは思えないものがほとんどだった。これに対して、日々だまされて契約書にサインをしてきている、あるいはその契約が有効な年齢にまもなく達するであろう生徒にとって、読みがいのある文章のような気がするわけだ。この発想は、もう少し広がりをもつかもしれない。各種取扱説明書などなど。

 前半から中盤まで、結構悲惨な状況が書いてあるのだが、暗く落ち込まない文書となっている。それは、関西系だからということではないと思う。思いたい!

 (2005.12.18)


Magazine252:生活指導1月号 

 明治図書、724円と税金。

 今月は、対話に関わる特集とジェンダーバッシングに関わる特集から構成されている。

 対話の特集で印象に残ったのが、三重の児嶋の記録と東京の記録。両方とも中学校だ。最近、中学校は疲れ気味で元気がなかった中でこれは実践の可能性を開くかも知れない。加納実践は、全国委員会でも取りあげられているので、会員には特に関心をよんでいる。これは、教師と子どもの世界が違っている中で、生徒のしきたり、言葉遣いの意味を教師がよくわからないので聞くということをしている実践として読むことが一つはできる。他方で、生徒のしていることが良いばっかりではないなかで、生徒の世界を意識化させながら、とらえ方を広げる試みとして読むことができるだろう。

 組織原則や民主主義原則をそれとして振りかざす前に、生徒の声を聞きながら、必要な知恵をつくっていっている実践なのかもしれない。

 もう一つの児嶋の実践は、マイノリティを取りあげて(ここでは麻薬に手を出してしまった人が自ら再出発を図るための組織としてのダルク)、そこと関わっていくことの意味を捉え直していく姿が描かれている。さしあたりは、遠い世界に見えるものと関わる中で、自分自身や生徒を取り巻く大人たちの見方も捉え返されている点が興味深い。

 もう一つは、ジェンダーバッシング。最近のこの動向の意味を浅井と山田が説き明かす。こうしたことにセンシテイブであるかどうかが、実は、第一の対話ができる教師かどうかの分かれ目じゃないかと思ったりする。等号で結ぶつもりはないけれど、まあ、実践的にはそうとしか思えない。この第二特集に関わる本を同じメンバーに他何人か集まって、春には出るはずなので、刊行された際には是非。

(2005.12.16)


Magazine251:ドイツの歴史教育 

 川喜田敦子、白水社、1900円と税金。

 この本は、ドイツの歴史教育というタイトルだけど、本当は、ナチの時代をどう教えてきたかという点に関わる歴史教育の第二次世界大戦後のドイツにおける変化を取りあげた本だ。敗戦後の歴史の教科書記述の変化やその位置づけを要領よくまとめている。読みやすいし、近年までの動向を丹念に記述してあるし、何より旧来の定型的な議論を越えている。ドイツの歴史教育に関心を持つ人よりも、日本における戦争責任とその教育を歴史教育において考えてみたい人には特にお薦めの本である。

 まず、ドイツにおけるナチとユダヤ人、ホロコーストなどがどう描かれてきたのかをその始まりから、つまり、ほとんど記述されなかった時代から、ナチを批判するだけの記述の時代、国防軍はきれいだったという神話の創設からその批判、ユダヤ人だけでなくシンディ・ロマなどの犠牲者を取りあげたり、すべてのドイツ人を加害者として位置づける議論への深化など、戦争責任をめぐって日本でも様々に登場してきた言説がドイツに即して取りあげられ、それらをどのように克服してきたかが簡潔に資料に即して示されている。

 特に、本書には考えたい問題が二つ提出されている、と私は読んだ。

 一つは、70年代後半のヒットラーブームの中で、ナチの過去を教える意義を、青少年の右傾化の防止におくようになったという記述である。(59頁)

 こうした目的の設定を川喜田は、単に事実としてここでは記しているのであるが、そのずっと後を読むと、こうした目的の設定が「当然だ」ではすまない事態を迎えていることが見えてくる。このような目的に収斂するようにナチの過去を教えることが返って、自主的思考を奪ったり、一面的なものの見方を育ててしまう可能性を生むという問題である。これは、俗論としての中立的に教えるなどという問題ではない。まして、事実を歪めて教えるというのではない。このような政治的目的規定を持って教えることの問題性についてである。

 二つには、加害や被害、ゲルマンとユダヤの迫害と共生というような掴み方では捉えられないドイツもしくはEUという社会的変化がその内部に起こっているという指摘である。つまり、旧来の議論の前提は、ドイツはドイツで一つ、ポーランドはそれで一つという前提で考えてきたことの崩壊である。しかし実際には、多民族化や多文化化の中では、ドイツ人だからナチの歴史を背負って学ぶという自明とされた前提が崩壊してきていることを明確に指摘している。

 この観点からしても、第一の点はそれほど自明でないという前提に立って、自主的判断を育てる観点からの歴史教育の再構築が必要ということだろうと受けとった。本当におすすめの本。

(2005.12.13)


Magazine250:多元化する能力と日本社会 

 本田由紀、NTT出版、2300円と税金。

 教育社会学者でニートと若者などの本を既に刊行している方で、本のタイトルに惹かれて買ってみた。90年代あたり以降、それまでの近代型能力(読み書き算的な力などを指すらしい)に代わって、ポスト近代型能力が要請されるようになってきたという、その言説に関する考察の書である。

 本書は、ポスト近代型能力がより重視されるようになってきたというデータを探し、さらにそれらがどのように形成されているのか、その要因を探すことを途中の章では行っている。それなりに面白いコンセプトだし、データの読み方として教えられることもいくつもあって、それはそれで面白かったのだが、基本的なところで疑問が湧き上がってきている。専門の違いで引っかかるところが違うのかも知れない。

 一つは、ハイパー・メリトクラシーという概念とポスト近代型能力の関係が一つ。従来のメリトクラシーがその内容において限定的(本田によれば基礎学力のイメージらしい)であるのに対して、ハイパー・メリトクラシーは多様で情動などを含むものらしい。この区分は気分的にはわからなくもないが、能力という従来の概念とは無関係のようだ。もともと、能力は何かができることを基礎に置いている。あるいはその転移可能性を指して、思考力や創造力という言葉を使用してきた(本当に転移するのかどうかというと転移しないという議論もあるが)。だから、対象のないつまりハイパーな能力という言い方はもともとの能力概念にそぐわない。例えだと言えばそんだけのことだが、名づけ方に抵抗感がある。

 仮に、ポスト近代型という場合にも、後の議論に使われている中身は、コミュニケーション能力のようなものが取りあげられていて、そこには対象がある。このあたりのことも疑義としてあるわけだが(従来の対象のある個々の能力概念が変容したという意味と多様な能力の複合という意味の二つでハイパーという言葉が使われている気がした。)、さらに、疑問が登場してしまう。つまり、世間の中に何でもかんでも「○○力」と付ける動向のことを指すのであれば、それはそれでお好きなようにということになるわけだが、もしそうでないとすれば、昔から、情動や思想・信条に関わること、対他者関係に関わることが問題にされ続けてきたという事実がどこかに消し飛ばされている区分なのではないかと思うわけだ。例えば、「期待される人間像」。近代ど真ん中の人間像に、そうした人間を全体に捉える志向があったとすると、それはハイパー・メリトクラシーということに成りはしないか。

 二つには、近代型能力が高いとポスト近代型能力も高いと言い、その形成に家庭環境が大きな要素となっているといい、そのそれぞれの能力を持つ者・持たない者の抱える困難について指摘し、家庭環境のような階層的要因によって決まってしまう社会が不幸だといいながら、それへのアンチが専門性の養成だいうのはどうも腑に落ちない。なぜなら、専門性というのは、具体的対象を持つという点で近代型能力に近い内実を持っていると思われるのだが、その近代型能力それ自身が階層的に規定されているわけだから、その養成という観点に立つと有意味なアンチテーゼとはならないと考えられる。

 三つには、学校教育は、近代型能力の要請しかできないと切って捨てていく点にも疑義を持つ。そうなると結局、近代型能力をつまり、基礎学力のドリル的徹底という学校教育を進めなさいという結論を引きだすにいたる。同じ教育社会学グループだから似ているのかどうか知らないけれど、これでは教師と子どもは変わらないじゃないか、という感じ。

 他にも、努力とは何か、等々基本的なところで規定がわからない点が多々ある。それは概ね、調査のための用語に関わる。若者が不当に扱われている点を批判するなど首肯することも多いのだが、私が私の分野に拘った読みをしているので批判的になってしまった。

(2005.12.10)


Magazine249:ナラティブの臨床社会学

 野口裕二、勁草書房、2600円と税金。

 とりあえずブログを参照してください。物語ることの意味を考えたかったり、心理主義批判をしてみたかったり、対話やコミュニケーションを考えてみたいと思う方は読んでみて下さい。学ぶべき点が本当に多く見つかります。時間ができたら書き足します。

(2005.12.6)


Magazine248:萌える男

 本田透、筑摩書房、700円と税金。

 意外に早く目を通してしまった。「萌える」という言葉の定義を知りたかった程度だったのだが、後半の章は、社会論の様相を呈していたので通読。

 本書は、各種思いこみを幻想といいながら、それぞれの幻想を肯定していることが多いので、「あらま!」とその不徹底ぶりに疑義を感じながらも読み通した。

 今日のセクシャリティの有り様を恋愛資本主義というシステムとして描いている点などは、手際がいいと思う。その恋愛資本主義、つまりかつての三高のような基準と、恋愛結婚正統論のような前提の崩壊が「萌え」の登場であり、電車男のような作品の大衆化が萌の評価の変化を示しているというような議論を紹介している。

 本田の主張は、201頁にまとめられているが、彼の議論の最終的結論「萌は恋愛および家族を復権させようとする精神運動であり、萌えが挫折すれば家族も滅びる」という点にある。現状として、萌が恋愛と家族の復権運動という把握は正しいと思う。近年の純愛路線の流行は、政治における保守化運動と連動していると思われる。その限りで正しい。しかし、その復権運動で復権した地点に、旧来の恋愛像と家族像が待っているとすると、それは、崩壊すべきものがまた登場するに過ぎなくなる。彼の議論はこれを越えられない。萌える男への揶揄に対する救済の書ではあるが、その先の地平を示し得ていないように思われる。

(2005.12.3)

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