2006年2月1日 (水)

Magazine267:歴史のなかの天皇 

 吉田孝、岩波書店、780円と税金。

 天皇がまだ天皇でなかった時代、王とか大王と呼ばれ位置づけられていた時代から、今日に至るまでの「天皇」の役割、権能、社会的位置づけを記した歴史書。

 天皇と類縁の言葉、天使、王、国王、皇帝などとの違いも初めて意識した。中国の始皇帝との関係でものを見てみたり、知らなかったことがだいぶあった。知ってはいても、何に由来するのかを知らなかったこともだいぶ教えられた。

 例えば、歴代天皇と呼ぶが、天皇と呼び始めたのは1925年からだとか、皇帝というのは、本来、それに従う王様たちがいる場合に使用する言葉だとか。天皇に従う王様がいないのに皇帝と使っていて笑われたことがあるというのを初めて知った。

 あるいは、姓と名字の違いについては考えたこともなかったので、初めて知ったこと。かばねである姓は天皇から与えられたもの、名字は土地や風景から自然と生まれたものが始まりだった。地獄に堕ちた天皇もいたんだ。

 天皇が神道に一元化したのは明治以降のことで、冠婚葬祭はながく仏教もしくは神仏習合だったことなどと明らかにされている。すると、今日は、外務大臣が靖国に天皇が参拝すべきだみたいな発言をしたと報道されているが、天皇の家の「伝統」からすると「すべきでもない」ということになる。そんな観点で読んでみると、あの人たちの「伝統」の浅さが見えてくる。古ければいいということは断じてないけれど、「伝統」という言葉には重みは一切ないとも言える。(2006.01.29)


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Magazine266:小説家が読むドストエフスキー 

 加賀乙彦、集英社、680円と税金。

 これは、本当にタイトル通りだ。ドストエフスキーの小説の作り方、人物の彫刻の仕方を代表的作品に即しながら語っている。文字どおり語ったものを文章化したものらしく、所々反復されているが、語り口や音が文章から想像させる所がある。

 私がこの本を選んだのは、昨年、悪霊を読むという本を読んだ所為だ。そこに読み込まれていたことと、加賀の読み込みを比較したかったのである。この期待は、ちょっと外れてしまった。加賀にとっては、ドストエフスキーの文章の作り方が関心であったから、その作品そのものをどう読むかは二次的な位置に置かれていたからである。亀山郁夫とは年齢も関心も違うのだからこれは期待した私の間違い。

 しかし、悪霊の章が私は一番濃くのある文章だと思ったのだが、そのなかに、作品をつくり出す手法として、例えば、一人の人物に矛盾した要素を持たせたり、それでもなおその作家にしか描けない人物を登場させるという指摘がある。ここにバフチンが持ち出されているのだが、作品そのものが複数的に描き込まれているということは、それを読むということはその複数性を読むということだなと納得したりすることになって、思わず自分の本職に近づけて読むことになってしまった。この点では得をしてしてしまった。

 するとだが、作品が複数的な要素を込めて描かれているという意味でもあるわけだから、それを読むという作業のこれまでの在り方は、とりわけいくつかの読みの教育論は強く反省を迫れることになるはずだ、とも思うことになった。(2006,01,26)


Magazine265:絵の教室 

 安野光雅、中央公論新社、980円と税金。

 NHKの講座を新書に再構成したものだという。絵がカラー印刷されているので、紙の質が普通の新書とは違う。そうした外形も珍しいのだが、この本の主題は、多分、創造(性)と技術、もしくは真実と事実、リアリティとバーチャルの話しをしているのだと思う。

 絵や音楽の世界では、芸術家に近い側は、技術ではなく創造性という。素人の側から言わせると、そういう人に限って技術を持っていたりして、その主張が信じられないことが多い。そういう一般的傾向がある中で、両者の関係を具体的な絵や創作に係わって論じている。

 例えば、「写真みたい」は絵の上手下手を測る物差しにはなりますが、絵の善し悪しを測る物差しではなくなった。(28頁)もっと前の頁には、島を見ずに描く、古びたガーゼをこれまた見ずに描くというようなことをしながら、ないものを描き、描くということは、見たままを描くことではなく、しかし、対象から全く離れてしまうのでもないことを示していく。

 そのための、美術史やゴッホなどの遍歴にふれながら、写実と絵の違いを示そうとしている。創造は勝手な断定とも違うと言う。(196頁)

 結論は、イマジネーションが創造性につながるといい、それは小学生時代にあるというはなしに落ち着いてしまっていますが、途中の論述には、結論以上の指摘が転がっていると思われた。

 冒頭の課題は、美術教師は是非試して欲しい。学校教師を経て画家となった経歴を持つ安野の設定した課題だけに、いろいろな発見がありそうな仕掛けを持たされている。そう思われた。(2006.01.22)


Magazine264:数学教室2月号 

 数学教育協議会、国土社、688円と税金。

 今月号は、世界から見た日本の数学教育が特集。実際は、PISA調査の数学の部分の分析を行っている。小林道正論文と松下佳代論文がPISAの英文と日本語訳として流通してるものとの比較をしているので参照すると、文科省的受け止め方ならびにジャーナリズムの受け止め方の問題点が浮かび上がる。

 つまり、数学についても学力低下言説が流れているがPISA調査からはそのように判断できないことが一つ。もう一つは、知識量重視と結果重視の数学の力のつかまえ方の歪みについてだ。さらに、そこに示された視点で、最近、文科省が創造力や思考力を育てる試みとして計画している動向の問題がもう一つ浮かび上がる。それは、数学の社会や現実との結びつきという観点である。文科省のプログラムはそれを意識的なのだろうが、それを薄めている。

 空間図形と形、変化と関係、量の各領域についてメンバーが問題分析と調査結果の分析を行っており、是非参照されたい。上に述べたことが具体的につかまえることができる。

(2006.01.19)


Magazine263:ジェンダー・フリー・トラブル 

 木村涼子編、白澤社、1800円と税金。

 執筆者のお一人に献本していただいた。新旧保守派によるジェンダー・バッシングとりわけジェンダー・フリーという言葉自体の使用も含めて攻撃する動向への批判の本。

 本書の特質は、男女平等の教育や性教育への批判にもなっていない攻撃に誠実に反論した本という点にある。あるいは「伝統的な家族」への回帰を叫ぶ妄言に、事実に即して反駁した本という点にある。どの論文も、さほど難しいわけではなく、教育関係者ばかりでなく一般市民が、新旧保守派の国会議員や都議会議員レベルの根拠のない発言に対して、どこがおかしいのかを丁寧に解説した本ということができる。

 1章から3章までは、主に、このバッシングが男女性別役割論、もしくは男女分業論にたっていることを示したり、フェミニズムを保守派はなぜ恐れてしまうのか、彼らが恐怖に駆り立てられる仕組みを論じている。

 6章は、個人単位で考える社会という観点から、家族論を展開し、新旧保守派の家族論の歪みを丁寧にかつ、保守派の人にもなじみやすいように記している。

 それ以外の、4章、5章、7から9章は教育におけるバッシングへの反論となっている。ジェンダーという視点の必要性、ジェンダーフリーという言葉で含意されていた本来の意味、並びに一部にその単純化のあったこと、家庭科教科書への攻撃の不当性をその記述に即して反論しながらそれらが憲法改正動向とつながっていること、東京都における性教育の禁欲主義的特質とのその無意味なこと、逆に性教育のこれまでと国際的動向がどこにあるのかを示している。初学者にもわかりやすい内容となっていると言えよう。研究的には、海妻論文、日野論文が私の関心からすると良かったと思う。

 ブログに書いた「男の絆」の破綻というのは、海妻論文に登場する言い回しである。青テント排除と収容という政策を理解するには、この観点が必要だったかも知れません。それで思い当たることの一つに、青テント暮らしの人たちのほとんどが男たちだという事実。こんなところにもジェンダーが作動している。何のことという方は、本を読んで下さい。

(2006.01.17)


Magazine262:心を育てる学級経営2月号

 明治図書、762円と税金。

 実は、その存在さえ知らなかった雑誌。

 だいたい、明治図書から私に原稿依頼は基本的に来ない。『生活指導』は明治図書発行だが、企画などは明治が行っていないから来ているわけです。来ない理由は私のスタンスから明瞭なのだが、それにも関わらず来た理由もまた明瞭。しばらくするときっと業界の人なら分かることになるでしょう。

 
 さて、巻頭論文の元文科省の方の主張は、一人一係がみんなに出番があることだという単純明快な話し。二番目の文章は私で、三番目は後輩の文章。
 以後、実践技術的な話しが様々な場面に関わって記されています。そういうこともあるよなと思われる実践技術を記しているものもなくはないのです。

 しかし、観念的スローガンとしか思えない文章が実践家の論文なのにちょっとあるなと思ったり。他方で、子どもを特定の活動に仕向ける手法を書いているものもあったり。なかでも、「そんなことでいいの!」なのが、「自習時間に終わらなかったら宿題だ」、こういえば自習時間真面目にやるという風にしか読めなかったのもあったり。

 これは脅しに過ぎなくない!子どもに脅しには屈服しろと教育したいらしいと思ったり・・・。こういうのが毎号続いていたのだろうか?もっとなんとかしないと、これじゃ面白くないだろう。
 この雑誌は、その実践的主張の選択がいまいちじゃないかと思ったわけです。(生活指導2月号の実践の広場と比べてみましょうね。その落差は歴然としてません!)アピールポイントを間違えている気がした。教師は何を期待して雑誌を開くのか、もっと優れた実践を発掘するように多様なアンテナの設置がのぞまれると瞬間的に思った。こんなことを思うから依頼はこないのかも。

 なお、この雑誌に掲載された文章は、雑誌が店頭から並ばなくなったら、ネット上にアップしてもいいらしい。通常は、3年間が出版社の著作権なんだけど。

 今回は、ブログ風の文章にしてみた。ミキシーの文章の改訂版だから。まあ、私の文章だけは読んで下さいというお知らせでした。(2006.01.14)


Magazine261:生活指導2月号 

 全生研編、明治図書、724円と税金。

 巻頭の高橋さんは、ドイツの子ども同士の調停の試みに始まって、子どもの抱える困難を生きづらさと捉えて、それと教師はどう関わって指導していくかが特集。虐待やパニックを起こす子どもとの関わり方の発見の過程が記録として描かれている。

 非常勤講師として働いている経験が二つ目の特集。多分、この記事を書いている人の中、二人は私の知っている人。一人は経験は長くはないが、タバコの臭いさえさせなかったらいい感覚の持ち主の体験。もう一人は、ずっと非常勤という困難を抱えながら誠実に勤め上げてきた人の重みのある言葉。他に、直接面識はない人だと思うけれど、生活保護をうけながら教師を続けている記録も、歴史に残る事実だ。

 先日、一ヶ月10万円生活というテレビ番組に登場していた淺野さんのスローな生活入門の文献紹介は、ちょっと興味があるけれど、当面私にはできそうにない。久しぶりに名前を見た杉浦さんの紙面評は、考えてみたい一言。つまり、リーダーというけど、それは核のことを指していないかという指摘。実践の広場は元気がいい。アイデア勝負という感じはするが、アイデアはとっても重要だ。

 (2006.01.12)


Magazine260:実存から実存者へ 

 レヴィナス、筑摩書房、1100円と税金。同じく、小泉義之、『レヴィナス』NHK出版、1000円と税金。

 年末に話題になった人物について、雑誌の特集で読んだことしかなかったので、まず最初期の作品から読み始めた。それが、『実存から・・・』だ。実存とか疲労とかを突き詰めて考察するタイプの人だったんだという印象を持って読むことになった。もう一冊の方に略歴があったので、何となく合点が行ったことがいくつかあった。一つは、ユダヤ人哲学者であったが戦争を生き延びたことが、生き延びたことの意味を考えさせることになったらしいこと。また、ユダヤ教的世界観がいろんな所に顔を出しはするけれど、そこを問題にするよりは、他者が自己の生や善を証明するという考察に学ぶことがいいだろうと思った。

 他者に応答することにおいて自己の生の意味が生まれるという指摘などは、高橋哲哉責任論と同じだということを浅学なので初めて知った。そういえば高橋は本来フランス哲学だ。

 他者と他人の区別についてもやはり違い考察する人はいるものなんだ知ったのが収穫。自分の論文で他者と他人のどちらかの単語を使用するか迷ったことがあるのだが、自分の語感にしたがって勝手に使ってしまったことを後悔した。

 他者とは、「自分のために生きる私たちが、そのために生きたいと願う相手」のこと。

 他人とは、「顔を向き合わせて共に生きたいと願う相手」のこと。

 違いは了解されましたでしょうか。(2006.01.08)


Magazine259:歴史地理教育1月号 

 歴史教育者協議会編、648円と税金。

 まず読んだのは、大塚英志。初詣が「伝統」かどうかを少し前までの慣習に則して短く論評している。1907年の神社合祀によってそれまで共同体の産土に初参りをしていたものが変えられたことを指摘し、今日の神社仏閣への初詣が「伝統」ではないことを指摘している。農村生まれの私からすると大塚の指摘は少し正確ではない。私の生まれた千葉では、60年代末ぐらいまでは、産土に詣る慣習は残っており、正月に詣でることもそして寺に参ることも両方行われていた。もっとも寒いときには行かないのが普通だったし、それが元旦とは限らず、記憶では別の時季に寄り合いが営まれていたように思う。ともかく、今日の初詣は「伝統」ではない。少なくとも昔からの「伝統」ではない。

 実践記録としてそういうのもありかなと思わせてくれたものは、ベテランの川島さんのノート持ち込み試験のすすめ。春名さんのデンマークをこう教えたいも情熱が伝わってくる感じ。

 疑義を感じているのは、何度も指摘するけれども、小学校低学年の私の物語。タイトルから分かるように昔は「家族」への感謝に満ちあふれていた点を、修正してきているがやはり疑義を感じる。それは、「家族」への思いこみが依然としてそこにあるように思われるからだ。

 実践記録として面白いと特に思ってしまったのは、長野の飯島さんの地域の戦没者調査。これはよく調べたと思うし、中国帰国生の「中国人は中国に帰れ」という常套句への批判は重みがある。個人を国家に還元して投げつけた悪意への批判の文章は吟味すべき論点を提出している。(2006.01,04)


Magazine258:脱アイデンティティ

 上野千鶴子編、勁草書房、2500円と税金。

 論者は多様で、意見も多様。研究分野も社会学ばかりというわけではない。このところの心理主義やアイデンティティへの過剰な傾斜を批判的に捉え直すにはいい本だと思う。ブログに触れたように、目次には「まえがき」があるが本文がない。多分、目次の印刷ミスなのではないかと思う。これが気になったのは、今とある本の「あとがき」の原稿を書くことになっていて、本文よりそれが気になっていたから。

 上野周辺の人々は、構築主義なので、したがって本質主義を原理的に否定する見地にあるわけだから、アイデンティティをそれぞれの人間が固有に持っているという見方はずっと前からとっていない。アイデンティティは人の行為の後に表示されるものという見方をする。そうした構築主義以前に、アイデンティティという言葉がエリクソンによって提唱されて以後、とりわけ社会学の世界でどのように理解されてきたのかを辿ったのが上野の論文。これはこれでなるほどと思いながら読んだ。ただ、最後の部分で統合失調症を例に挙げて、人格の多層性を本来そういうものと見るという論述があるのだが、人格の多層性と統合失調症を並べられても、その幻聴に苦しむ側の人もしくはその治療にあたる人々からは賛同を得られない気がした。複数ある人格を調整して使い分けられることと、その調整がうまくいかないこととの間はまだ距離があるからだ。

 次の、伊野論文は、ホモ、レズ、ゲイ、同性愛者、異性愛者など、関連する類語の使用をめぐる政治を検討していて、センシティブにそれらの言葉を使用できるようになるかも知れない。他に、淺野智彦、小森陽一、鄭暎惠(チョンという字が少し本当は違います)の論文が特に興味深いです。

(2006.01.02)

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