2006年6月3日 (土)
| Magazine307:不安型ナショナリズムの時代 |
高原基彰、羊泉社、780円と税金。 まだ30歳だそうだけどがんばった感じはする。その主張は、現在のナショナリズムのうちで香山リカが言う「プチナショ」は経済的な流動化が起こった結果生まれたものだ、ということにある。だから、彼らにナショナリズム批判をしても通じないし、問題の処方としても間違っているのではないかという主張である。そのことを、日本の雇用形態の変化と関連させてまず議論し、ついで、韓国内におけるナショナリズムの分類を行い、そこでも社会の流動化によって反日感情を持つ階層が登場しているのだという。中国についてもほぼ同様な分析をしてみせている。 ここで問題はいくつかあるように思われた。一つは、社会不安がナショナリズムを生み出しているという分析は、すでに行われている。一橋の渡辺治、中西新太郎などの議論に存在したように記憶する。 二つ目は、途中に「文化性善説」に左翼はたっていたという話がでてくるのだが、この論証がない。 三つ目には、ナショナリズムの問題を経済の問題と連動させてとらえて行くことは重要だと思うけれど、依然としてナショナリズムの問題は残り続けるのではないか。他ならない経済がナショナリズムと結託し続けてきたように。 四つには、高原の結論としての処方箋が、山田昌弘にならって「直接的な公共的援助の増大というよりも、個人的な対処のできる個人を作り出す社会的なインフラを構築する」といい、「国家を使いこなすことの必要性についての認識である」となっていることである。こうして高原は新自由主義的な個人の自立を前提とした世界で、国家を乗りこなして行く私と私の利害のぶつかりあいを想定する。高原の場合、国家とは公共ではなくて、私益ということになりーそれは一面でこれまでもずっとそうであったがー公共を作り出すという方向は永遠に存在しないものと位置づけられているが、私益に還元できない世界を他方では作っても来たのではないか。 これでは処方箋としては、「すごくまっとう」とはいえないだろう。 (2006.05.31) |
| Magazine306:シェークスピアの男と女 |
河合祥一郎、中央公論新社、1800円と税金。 『じゃじゃ馬馴らし』から『お気に召すまま』までシェークスピアの作品に登場する男と女の描かれ方を当時の歴史的文脈に位置づけて見るとどうなのかを示そうとした本。だから、そうした歴史的社会的状況を視野に入れることで、これまでの作品の解釈のされ方を検討したりしていて教えられることが多い。 本書では女性性も男性性も構築されるものとするのだが、河合は男女という二項区分について疑義は差し挟まない。そうではあるが、しかし、社会歴史的にそれを位置づけ、さらに、同一の社会の中でも多様な男と女がいたんだと把握していくので、しかもそれを作品のセリフなどとともに示してくれるので素人にも興味深い内容となっている。なぜ多様なシェークスピア解釈が生まれてくるのかが少しわかった気がした。(2006.05.28) |
| Magazine305:村上春樹論 |
小森陽一、平凡社、780円と税金。 これは、村上春樹の「海辺のカフカ」を読み解きながら、村上の暴力の容認論による癒し論を批判した本である。 これは面白い。「海辺のカフカ」が、オイディプス神話の構造と似せながら、その行為をやむを得ないものとして承認することによってその暴力自体への免罪構造を持たせているが、その理由とされている事柄が冷静に考えてみれば誰もが体験する行為であり、特異なものではないことを作品とそして村上が持ち出したオイディプスコンプレックスの議論に即して批判していく。 こうして、村上の作品が、戦後日本が免罪してきた戦中の犯罪を意識に一旦のせながらすぐに消去することになっていることを示していく。だから、2002年9月11日に発売されたのだという。9.11に対するテロとの戦争の合理化を意図し、この暴力に加担するものを慰撫する作品として書かれていったことをその作品に即して解き明かしていく。 戦後日本社会が、天皇の戦争責任や社会運動・市民運動の抱えていた一面性を指摘するものともなっている。 上記の村上春樹論自身の妥当性の問題とは別に、文学の読み方の問題としても興味深いと実は考えている。国語教育論は、こうした視点をもう何年もどこかに置き忘れている気がしてならない。そう思った。(2006.05.26) |
| Magazine304:季語集 |
坪内稔典、岩波書店、860円と税金。 俳句の季語の基本の意味や先達の俳句でいかに詠まれたかを春から冬まで解説した本。 冒頭に、日本は四季があると言うけれど、それは中国から入ってきたものの見方で、それ以前には二季だったと書いている。つまり、四季以前は、農業を基準に冬と夏があっただけとある。そういう見方が輸入され、構築されて四季があると考えられるようになったのだとある。四季という眼差しがなければ、四季の風物詩等というものの見方もなかったのだと指摘している。 このように指摘されるとすれば、当然、季語も変わるという話しになる。この辺が、今日はやりの日本文化論とは違って購入してみたきっかけである。 春一番という季語は、これは新しい季語だそうで、一九五九年の平凡社の歳時記に宮本常一が記したのだそうな。ずっと昔からあったのだろうと思いがちだが、そんなことはないと裏切ってくれる。春の風邪では、幸田文が引用されて、風邪を引くと、咳が出たり鼻水が出たり、熱が出たりと、出るものばかりなのに風邪を引くというのは合点がいかないと記していることなどが紹介されている。あるいはまた、筍が春ではなくて夏の季語だとか、石川啄木は金田一京助と<すき歩き>に出かけて、雨が降って失敗したなどというエピソードが記されていたりする。 社会の風潮を読みまちがっているように思われる話しもあるけれど、興味深い事例、話題で埋められているので、時折開いてながめるにはいいでしょう。 (2006.05.23) |
| Magazine303:図表で見る教育(2005年版) |
経済協力開発機構、明石書店、6800円と税金。 正確には、『図表で見る教育 OECDインディケータ(2005年版)』という。PISA調査に基づく国際比較も載っているが、それ以外の様々な興味深い数値が掲載されている。例えば、学歴別所得格差。国によって格差の幅は異なるが、学歴によって所得は大きく異なる。所得の男女差もルクセンブルクで86%、OECD平均は50%台後半。 公財政教育支出の割合は、当然日本の場合低い。1学級当たり生徒数では、韓国が最悪で次が日本で30人を超えている。一番良いのは、スイス。 あるいはまた、今話題の教員の給与。米ドルに換算して、一番良いのはルクセンブルクで約8万ドル。日本は約4万5千ドルで5位。アメリカは6位。給与と授業時間数を計算すると、日本の教師は授業時間数が多いので給与としては5位だが平均の中に入ってしまう、などと解説にある。いろいろ使える数値が並んでいるので便利。難点は、ちと高い。(2006.05.19) |
| Magazine302:コミュニティ |
ジェラード・デランティ、NTT出版、2400円と税金。 コミュニテイという概念やその意味を古代ギリシャの時代から今日まで、おおむね社会学理論の中でどのように用いられてきたのか、とりわけ現代における理論の違いを整理しながら考察した本。出だしは社会学理論の古典や全くなじみのない世界の議論の紹介だったりして理解できない点も多かったが、章を下がるとともに、現代の問題についての著名な論者のコミュニティ概念の違いが記されていて、参考になった。 オーソドックスなリベラリストとコミュニタリアンの論争から、90年代のラディカル多文化主義の議論まで批判的に考察されていて有益。本書の特徴は、コミュニティとソサイアティとのちがいを意識しながら、社会学理論を超える議論も射程に入れていることだろう。 コミュニティと差異、ポストモダンとコミュニティなどの章が特に面白い。 (2006.05.16) |
| Magazine301:世界6月号 |
岩波書店、743円と税金。 特集は、憲法にとって「国」とはなにか。これに関連する記事の中では樋口陽一の記事が一番良いでしょう。国家との統治機構・行政などを意味するステートと土地や生まれと関連したネーションを区別して、ステートの社会契約論的把握を育て上げようという観点から議論を行っている。ネーションという把握をすれば、愛国心などの問題を無意味に抱え込むことになるから、樋口のこの方向が基本だろうと思う。ただ、樋口は、国家が愛国心を強調して「国民」に愛されたいと強調するなら、その国家の側も身辺を正すのが当然だというが、私はこの点には必ずしも同意できない。1901年の頃の竹越与三郎の『人民読本』を持ち出して、日本の非なる所を認めて行くことが愛国だという文章を紹介しているが、新旧のナショナリストが日本をこよなく良いものといいたがることへの批判としては適切だが、それでも、結局、愛の対象として位置づけてしまうように思われてどうかなと考えた。 他には『朗読者』で有名なシュリンクのインタビューが気になったが、期待ほどではなかった。熊沢と本田と矢野の対談も一読に値する。若者の仕事と教育をめぐる議論として説明不足ではあるが有益だろう。熊沢、本田、矢野という順番に話しが面白い。ただ、教育の問題についていうと、その結論が過去に主張された方向と同じことが語られている気がした。それで良いのかどうか。(2006.05.13) |
| Magazine300:新英語教育5月号 |
新英語教育研究会編集部編、三友社、695円と税金。 とっても久しぶりに購入した雑誌。今月号は、「1時間の授業をみる」が特集号となっていたこと、その「見る」に掲載されている丹下さんの授業を、私もその日に見ていたので購入することにした。 冒頭は秋田論文。概ね首肯しながら読む。ただ問題は、対話をつくるとか知識構築するような授業をという主張だが、授業研究というのは、それをいかに作るのかを研究してきていたような気がして、ちょっと時代が戻ったような錯覚に襲われた。 丹下実践については私のサイトのどっかを探すと記したことがある気がするが、「国際語」というポリティクスの存在を子どもの疑問に答えるように展開していて、つまんない小学校英語に夢中になるより有意義だと思った。 丹下さん以外はたぶん生え抜きの新英研メンバーなのだろうが、今号に並んだ授業に関しては今の英語教育の動向にはまっている気がしなくもない。結構広まってしまった息もつかせぬ脅迫的な英語ドリル学習ではなくて楽しそうなのだが、言葉による世界のとらえ直しに迫る授業があってもよかったなと思ったりした。ただ、そういうこととは違うけれど、大半が英語を嫌いな生徒を前にした高校の英語の授業は興味深かった。(2006.05.09) |
| Magazine299:憲法と平和を問い直す |
長谷部恭男、筑摩書房、680円と税金。 本書は、立憲主義とは何かという観点から、今日の憲法改正問題を検討した本である。 私が注目したのは、実は、その部分ではない。民主主義とは何かを検討した部分を読んでおきたかったからである。直裁にいえば、多数決に関する長谷部の議論を押さえておきたかったのである。簡単にいえば、多数決はなぜ正統化(正当化)されるのかというその論理をただただ押さえておきたかったのである。それについていえば、自己決定の最大化にその原理があるという指摘がそこにあった。 もう一つ知りたかったのがコンドルセの原理とは何かというただその関心から購入した。コンドルセはフランス革命の時期の政治家というのは知っていて、当時の公教育の原則を考えた人ぐらいは知っていたのだが、数学者だったというのは記憶になかった。ともかく、民主的決定に関心のある方にはおすすめの1冊。(2006.05.04) |
| Magazine298:暴力 |
上野成利、岩波書店、1300円と税金。 戦争と政治をめぐる暴力の問題から始まって、法と暴力、自己と暴力についての論考である。シュミットの議論を中心に、アーレントやベンヤミン、アドルノらの議論らを参照しながら考察している。 ちょっと前に、ブログにヤヌスとして記したのもこの本から。暴力が友と敵に境界を設定することで生み出されていることを示し、その枠組みを打ち破る可能性がどこにあるのかを考察していて参考になる点が多々あった。 上野の場合、一元的な友と敵という枠組みでなく、多元的にとらえ、かつ排除の暴力が作動していることを隠蔽するのではなく、その闘技として展開されていくことに期待する。無限に昂進してしまう暴力からの脱却をコノリーの示唆に重ねて把握しようとする。ただ、コノリーの議論は、非対称的な力関係の下で発動される排除に対して、その排除への異議申し立てとして闘技の場所が与えられている場合に成立するという風に思われるために、極めて限定的意義に留まるように思われる。隠蔽するのではなくというわけだが、暴力は隠蔽を伴って展開されることも多いので、可能性に期待し過ぎなようにと思ったりした。法策定以前には暴力が作動するという問題なわけだが、なお未解決なように思われるのである。(2006.05.01) |