2006年7月1日 (土)
| Magazine318:高校生活指導169 |
高生研、青木書店、1200円と税金。 第一特集はどんな子がリーダー?となっているが、私の関心は、学校評価に関する第二特集。その第二特集の巻頭は小野田論文。学校評価が教師集団を破壊していく様を具体的に描き出している。現状で進行している学校評価ではなくて、相互に学校についての共通理解をつくり出すことの重要性とその具体例を提出している。子どもの弁当の時間が変更になったことをめぐってトラブルとなった事例を提出し(離婚して父親が子どもを育て始めたが故に弁当をきちっと持たせようとしていた親とそれを知らずにいた学校との齟齬、そうした事情を理解する中で了解が生まれたという話し)、それぞれの意図や思いを理解することの重要性を語っている。 いくつかの学校評価の事例がその後に続くが、私の目を引いたのは京都朱雀高校の事例。全校で取り組んでいるという方向の取り組みには懐疑的な私にも、この学校の場合、個々が授業アンケートを行っているように見えたからだ。私は、一斉に行うと意義より弊害だけが登場すると考えている。 高生研の44回大会基調提案がのっている。今回は望月さんが執筆したようだ。公共圏を編み直すとして、普通を問い、排除されたものを問い返しながら、主権者・地域市民・地球市民など多様なレベルでその関係の仕方などを育てたいと。この点で、注目は、絹村さんの実践。116頁のF子の発言は印象深い。「みんなにはそれぞれ居場所があると思う。その居場所を自分から小さくしている人がいると思う。中略。私は○×だけど別にみんなといっしょって気持ちになってほしい。相手に自分を合わさせようとすると無理が出る」と言っている。ある種の居場所論を批判していると思った。他方で、これは公共圏の作り方を示した言葉かもしれないと思った。 (2006.06.29) |
| Magazine317:数学教室6月号 |
数学教育協議会、国土社、781円と税金。 分数の授業研究が特集。特に、折り紙算数の北陸グループが提案している。折り紙で、例えば、二分の一と四分の二が同じことを操作しながら確かめていく。授業そのものは出だしは、ちょっと不調に見えるが、途中から折り紙で同じ分数をつくる付近は絶好調。後の検討会で強調されているように、ただタイルで確かめるのとは違って折り紙で折って確かめる作業は有意義そうに見える。 山岸論文が、折り紙の意味を佐伯を批判する形で論じているが、時間差が少しあり過ぎかもしれない。 京都の中学校教師大橋の実践記録も面白い。一元一次方程式の導入としてそのしゃべりのトーンとあいまってこれは楽しい。段ボール天秤をつかって天秤が釣り合うところを使って、右と左が等しくなるところをうまく表現している。 増島の2のn乗の数字以外で3以上の数字は連続した自然数の和で表せることを証明する授業を示していてこれをなるほどという感じ。こういうのにのめり込むことが必要な時がある気がする。例えば、次のようなことです。20=2+3+4+5+6 (2006.06.26) |
| Magazine316:発達106 |
ミネルヴァ書房、1200円と税金。 特集は、教師のうつ、そして、障害児の自己意識と自己肯定感を支える支援。教師のうつが特集だったので購入しようかと手にとって見た。これは、増えている実感があるということもあるが、仕事の絡みで、中島論文がデータを挙げていてくれて使えるときが来るという予感から。 そこには、教師の病休者総数が、1992年で4000人弱、そのうち精神性疾患によるものが29,8%で実数1111人。これが、04年度には、病休者総数が6000人を越えて、精神性疾患が56,4%になっていることなどが示されていた。総数も増えているけれど、とりわけ精神性疾患が増大していることを示している。精神性疾患のうち多いのがうつというわけである。その原因だが、教師の場合は圧倒的に職場のストレス。さらに、その中でも「生徒指導」、管理職や同僚との人間関係が続く。対策が対策じゃないなと思われましたが、心理系の人たちだからやむを得ないという感じ。教師の仕事を全体として考え直すことがないと難しい気がした。 それよりも実は、特集と関係ない論文が実は目を引いた。それは、「子どもの社会生活能力評価について」という柴田の論文である。このいかにも危険なタイトルが目を引いたのである。期 待通りではなくて、危険を結構わきまえていそうだと思った。能力評価を横にではなく、縦で考えるということもあったし、絶対じゃないと断っているからだ。個別の項目で見ると、それは生活能力かな思われるものがあるのだが、通過率としてグラフ化されたものを見ると、それぞれに発達の筋道があるのかもしれないと思ってしまったりする。このグラフも使える。また、能力という言葉を、ここに挙げられたような意味で使うとあんまり罪がないなと思う。思考力とか表現力なんていう風に使い始めると、罪が大きいなと思う。その中身がないのにでかい顔しているからだ。(2006.06.24) |
| Magazine315:教育基本法「改正」を問う |
大内裕和、高橋哲哉、白澤社、1000円と税金。 教育基本法改定案が国会に上程されて、緊迫した状況の中での緊急出版である。だから、二人が対談の形で、主に与党案のどこが問題なのかを浮かび上がるように議論している。対談形式だから読みやすい。その後に、民主党案の批判が高橋によって行われ、与党案の逐条的批判が大内によって後半になされている。 徐々に、教育基本法改定案の問題点に関する出版物も刊行され始めたが、全体的で読みやすいという点では、学習会の参考文献に手頃でしょう。 対談の中で、これまでの教育基本法にある「不当な支配に服することなく」が,行政が不当な支配に服することなくとなって意味が変わってしまって、行政が不当な支配をすることを容認するように変わった点を取り上げた21頁の部分が目を引いた。つまり、行政が不当な支配かどうかを評価・判断する主体に変わってしまっていることを端的に指摘している。 同様に、個性的とか自由と言っても何がそれに該当するかは行政が決めるのであり、愛国心もまたそれを保持しているかどうかを評価/判断するのは行政という位置に変えられている点を批判している。ここが重要だと思う。 また、46頁以降で、高橋が、競争と評価で走らされているが、それに疲れてしまっていて「国力」の巨大な空回りになっていると指摘している点も印象深い。評価を受けるために労力を使い、その評価を受けたからと言って予算が増える訳でもなく、教育/研究活動が前進する訳でもない。この方針こそが政策の失敗だと述べている。勤務先のことを考えると同意せざるをえない。 早く廃案に、そして方針転換を促したい。(2006.06.21) |
| Magazine314:世界7月号 |
岩波書店、743円と税金。 特集が、「教育基本法が変えられてしまったら?」。大江は、故サイードとの対話から始めて、教育基本法が意味を発揮していた時のことを想起しながら、国家と郷土というものと文化の違いを静に語る。教育を国家に従属させることを現行2条との関係で語る。 尾木と西原の対談では、西原が法案が通ったら「国民が持つべき意識」を次々と指令してくるだろうという趣旨の話しをしている。当面の問題はたぶんこれだ。 苅谷剛彦は、本書の中で唯一、教育基本法改定案賛成論を語っている。愛国心などは書き込むべきでないというが、予算削減の中で、文科省が教育振興基本計画を17条に設定したので、これで予算確保の大義名分ができた点を活用すべきだという。だから、振興計画は法律として通すべきだという。教育振興基本計画こそがもっとも危険な条文であるにもかかわらず、苅谷はこれこそ通過させるべきだという。世間にもよく彼の立場がわかったであろう。 成島の論文は改定案の逐条ごとの批判をコンパクトにしているので基本線はわかりやすいだろうと思う。 特集に入っていないが、広田の「安全対策」とりわけ子どもの安全に関する最近の議論の問題点は一読に値する。地域パトロール、監視社会的学校と地域の連携など、危険な教育動向を判断する上で読んでおきたい。 (2006.06.17) |
| Magazine313:「性愛」格差論 |
斉藤環+酒井順子、中央公論新社、700円と税金。 本書は、斉藤の「はじめに」を読めば、他には読むべき新味はないかな。私にはそう思われた。「はじめに」における、斉藤の格差社会論批判は、格差社会論が勝ちと負けに世界を二分して越えられないかのように説明することに異議を唱え、希望学なんて言うのも特定の価値観を根底においていることが見え見えだと批判する。 山田昌弘や玄田らの議論における宿命論と現在の価値観を前提とした議論だという批判に賛同する。私が過去にこのコーナーで取りあげたり、ブログで取りあげてきたのもその方向での批判であった。まだ、少数派だが、この点で斉藤と見方が一致していると思った。 ただし、その対抗軸が性愛かどうかは私には不明で、過剰な期待のようにも思われた。残りの章の議論は本当にメイドカフェでの雑談のよう。(対談をそうした場所で行ったらしい。)話しの切り口にはなっても深まりには影響しないらしい。だから、はじめにを立ち読みしよう。 (2006.06.15) |
| Magazine312:愛知の高校教育32号 |
「愛知の高校教育」編集委員会編、値段不明。 先日送っていただいた。第一特集は、高校の職場はまとまっているかというアンケート調査の結果とその分析。「まとまっている」とする回答は若手に多く、ベテランの方が少ない。これが回答の一つの特徴。もう一つは、平和や民主主義は時代を超えて伝えるべき価値観だという設問にイエスが少ない。 分析の中にもあるが、「まとまり」という団体主義的な用語が回答を難しくしている気がする。一糸乱れぬまとまりというのを肯定的捉える人は、今や少数派だ。他方で、合意をつくらずに教育ができないことも明白だ。この団体主義的な、したがってきわめて統制主義的な画一的対応や教育ではなく、なおかつコミュニケーションのとれた職場を捉える言葉として「まとまり」というのは適切でないのだと思う。 次は、「先生の通信簿」という取り組み。教師の授業などに関する生徒の評価のことだ。これはずっと前に実践があったものからとってきていると思われる。確かに、生徒の声を聞きながら教育活動はするものだ。そういう意味では必要な視点だ。しかし、これを制度として始めるとうまくいかない。個々の教師が、自身の教育実践の一部に取り込むと機能する。ここが教育の機微で面白いところ。制度として始めたりすると、生徒としては色々いったのに結局授業は変わらないという結果に評価の意味を失い、適当に記すことになる。他方で、教師にとっては聞きたい生徒の声かどうかわからない「画一的なアンケート項目」の結果に、授業改善の意欲はそがれる。結果としてあまり機能しない。また、新自由主義な職場が沢山出現している現代においては、積極的にはお勧めでない手法だと思う。教師の実践的な取り組みが自信の首を絞めかねない。 最後は、中西新太郎講演のテープ起こし。その後に実践がのっている。激闘日本の夏なんていうのがあって懐かしい。(2006,06,13) |
| Magazine311:カフカ『断食芸人』<わたし>の・ |
三原弟平、『カフカ「断食芸人」<わたし>のこと』、みすず書房、1300円と税金。 理想の教室シリーズの1冊。カフカの断食芸人と取りあげながら、カフカ論と私小説論を提出しているらしい。 読み終えてもう一度『断食芸人』を読んだら、確かに、読むところが違ってきた。そういう点では、カフカについての情報がひどく増えた。三原はカフカに関する情報を相当集め知っているんだなと思わせられることが文中に沢山登場する。 しかし、この人は、論を順番に語ることは苦手らしい。いろんなことを知っていることが災いしているように思われる。 断食芸人の文章を解釈するならその解釈を途中で終わらせずに書ききって欲しい気がした。途中で終わらせている気がする。カフカ論ならカフカ論としてもう少し全体を論じてくれるといいなあと思った。3回の講義という形式だから、水林のように論じる方が良いんじゃないのという感じだ。(2006.06.11) |
| Magazine310:迷走する若者のアイデンティティ |
白井利明編、ゆまに書房、3500円と税金。 ニート、フリーター、パラサイトシングル、ひきこもりなどの心理に焦点があるが、通常の心理学のアプローチと異なっている。より社会との関連で考察されている。半分は、心理学的分析というより、社会的データも使いながらの言説の検討に当てられていると言ってもいい。 それは、ニート等々に浴びせられるステレオタイプ化された批判へのデータに基づく反論となっているからである。例えば、キャリア教育における「やりたいこと」言説の間違いを説得的に指摘している。つまり、キャリア教育は本人の「やりたいこと」を重視した言説を流布して「自己実現」などと言っているが、それよりも適正や可能性をリアルに見つめることが重要ではないかと指摘する。 また、他方で、やりたいことのあるフリーターはよいフリーターで、それがないフリーターは悪いフリーターといった区分が生まれていることなど、その意識の分析を行うなど検討すべき問題を、社会に還元することなく提出しもしている。 各種言説への批判を通じて、こうした問題が社会状況と連動して発生していること、そして、それをアイデンティティ問題として見れば若者の大人への移行の問題としてあること、そのために他者の存在が重要となっていることを総括的に記している。 各種基礎データも配置されているので、それぞれの問題領域に関心を持つ人にとっては基本文献という役割も果たしてくれるはずである。 (2006.06.08) |
| Magazine309:証言の心理学 |
高木光太郎、中央公論新社、740円と税金。 冒頭は、人の記憶がいかに危うく脆弱なものであるかを、実験研究や裁判における証言の実例で示していく。この本の面白かった点は、三つある。 一つは、人の記憶はネットワークに依存しているという指摘である。これは教育学とりわけ教育方法学という分野で組み換えて使うことができる指摘だ。知識の個人的蓄積論への批判ということもあるが、より積極的な意味を内に持った指摘と読んだ。つまり、人の記憶がその当該の人を取り巻く人との関係やコミュニケーションに依存して構築されるという点が興味深いわけだ。だから、記憶は経験した事実と同じでないということになり、いかなるネットワークを持って生きているかが重要と言えそうだ。 二つには、証言が危ういが故に、先に答えを知っていて実験して証明しようという心理学の特権化を排除しようと努力している点である。 三つには、浜田の手法を批判的に継承して、証言におけるコミュニケーションの構図を描くことで、証言の真実性や意味を明らかにしようとしている点だ。この点は教育学が既に関連したことを行っていると思いながら読んだ点だ。誰が誰にどのような関係と状況の下で語っているか、あるいはその証言者との関係を含んで語りの構図を描こうとしているらしい。この点も教育学研究者は、相対化しつつ読んでいいだろうと思った。つまり、子どもの発言を分析するときには、子ども同士や教師と子どもの関係がどのような状況にあるのかを見ながら解析するという、これまでに教育学が行ってきた手法があるのだが、それと似ていることをしている思われたのだが、全く同じかというとそうではないかもしれない。その違いを意識しながら読むと参考になることがあると思われた。いつかもう一度、その観点から読み直して確認しておきたいと思った。 (2006.06.06) |
| Magazine308:18歳の今を生きぬく |
乾彰夫編、青木書店、2600円と税金。 東京都の二つの高校卒業生、約100人のインタビュー調査を元に、近年のニート・フリーターバッシング言説への批判的かつ実証的文献。 「ニートになるのは軟弱だ・甘えている」、「若者は親にパラサイトしている」、「やりたいことを追求しすぎだ」、「やりたいことを見つけられるように勤労体験学習を」、「若者自立塾があれば大丈夫」、こうした若者の勤労観や労働意欲に還元する言説への事実による批判となっている。 高校を卒業して、やりたいことがあってその職業に就いているものは少ないことーつまり、やりたいことに拘ってニートやフリーターになっているわけじゃないという反論。むしろ、一日12時間から時には14時間に及ぶ仕事、深夜に帰って早朝に出勤させられたり、いわゆるサービス残業、職場におけるいじめなど、このインタビューを読むと、若者が過酷に働かせられていることが見えてくる。 こうした事実は、小杉礼子らの議論、山田昌弘らの議論が必ずしも正しくないことを示している。まして、行政の対応、あるいはキャリア教育の一部の勤労意欲を育てるなどという対応がずれていることを示しているように思われた。 さらにまた、前回取りあげた高原のような「直接的な公共的援助の増大というよりも、個人的な対処のできる個人を作り出す社会的なインフラを構築する」というのも、インフラとしての公共的支援のシステムは必要ではあるが、「個人的な対処のできる個人を作り出す」という目的がまちがっていることをも示している。 乾らの調査によれば、この過酷な18歳から19歳を生きぬいている若者にとって、彼らの再生や最大の援助となっているのは、彼らの私的なネットワークにあることを示していたからである。個人的対処では生きぬけないというわけだ。この私的なネットワークは脆弱であるが故に必ずしも十分な支援を得られていないことを示してもいた。 とすれば、公共的なネットワークを作り出すことが一方に必要だが、それはネットワークの担い手に若者自身がなっていく道を構想するものでなければならないだろうと思われた。個人で頑張る若者を作るとか、過酷な労働をになう孤立した正社員をつくる方向ではないということだ。 親子や家族、大学や専門学校への進学、地域に生きるという観点などからインタビューが紹介整理されているので、それぞれの関心に応じて読んでもいい。これはお勧めの本。 (2006.06.03) |