2006年9月4日 (月)

Magazine338:大学と教育43号

 東海高等教育研究所、大学教育出版、933円と税金。

 今回は、大学生の獲得すべき学力、リテラシーと将来展望が特集。

 橋本広信は、現代の学生にかつての学生にインタビューという課題を課しながら、その違いを追求させ、その結果から今の学生が全体としてはインサイドアウトな生き方となっていることを指摘する。つまり、社会的な上昇志向から大学生となっているのではなくて、自分のやりたいことを見つけて社会に接続しようとしているという。

 松下佳代は、「大学生の学力」という言い方に本源的な否定を回答として与えている。学力というのは標準化されたものがある場合に成立する概念で、絶えず教える内容が変化する所が大学であってみれば、そのようなものを想定して教育するということ自体が間違っているという指摘をする。論文の全体構成は、企業社会の求める能力の変化を明らかにしながら、その要求を相対化する力を大学は育てることが必要だという。これには基本的に賛成。ただ、これを相対化する方策は専門性の養成というのではたぶん相対化に至らない。また、コンピテンシー概念の発生について論及し、それとリテラシー概念の違いを示している。リテラシー概念に含まれるものとしてのコンピテンシーと押さえている。だが、その際、ピサのリテラシーを使いながら議論しているわけだが、同じOECDのデセコもコンピテンシーという概念を使用し、そこでは、より包括的な位置をコンピテンシー概念に与えているので、この辺は再検討が必要かもしれない。

 最後に、立命館の事務職員を主たる対象とした幹部養成プログラムがあげられていた。この取り組みは、内容構成に課題を感じる点もあるが、多くの大学で参考にされるべき内容があると思う。(2006.08.31)


トップページに戻る
Magazine337:洋燈の孤影

 高橋英夫、幻戯書房、2600円と税金。

 今流行の漱石論の一つ。漱石の文体、特に「吾輩は猫である」の文体を中心に、その写生についてのとらえ方を検討した文章から始まる。途中、子規との関係、虚子との関係などに触れながら論述された文章が中に配置されている。後半は、漱石の教養についてとらえ方、あるいは20世紀の始まりをどう見ていたのかなどに論及されている。

 高橋は、簡単に片付けずに考察をする慎重な筆運びで、漱石を高く持ち上げすぎたり、切り捨てすぎることを批判している。そうだろうと思うが、批判者への反論としてどうもはっきりしない。例えば、教養主義の始まりに位置することを確認しながら、その教養主義への批判にも論及しながら、漱石の何がいかに問題・課題であったかへと踏み入る前に筆が置かれている気がする。それでも、高橋は20世紀を理解の世紀と名づけ、過去を整理・体系化したが、言葉によっては捉えることができない世界でもあったとする点などには面白さを感じた。ともあれ、前半の文章を並べながら、その自然や写生についてのとらえ方を位置づけて行く部分が私には興味深い内容の書籍であった。(2006.08.30)


トップページに戻る
Magazine336:国語授業の改革6

 科学的「読み」の授業研究会編、『国語授業の改革6確かな国語力を身につけさせるための授業づくり』学文社、2300円と税金。

 ブログに書いたことに若干の加筆がある。

 私の論文「超歴史的読みから状況的読みの構築へ」も掲載されている。

 冒頭は、代表の阿部昇による「線引き」についての論文。クライマックスを意識して線引きをというのだが、それ自身をいかに見つけるかという問題が登場するので、トートロジーというか循環論的議論にも見えるのだが、教師の教材研究を前提にした授業の実施場面だけのことを言っていると読めばいいのかもしれない。

 次は柴田義松による佐藤学の授業論に関わる批判。佐藤批判でもあるが、実践上は浜之郷小学校の授業というか、「学びの共同体論」的授業への批判である。柴田は、発問あるいは教師の介入の重要さを指摘し、それらが佐藤の主張や浜之郷の授業にはないために深まりのないものとなっているという指摘を行っている。言葉を吟味し合う対話・討論のある授業をいかにつくるかという点で、浜之郷も問題だが教師の発問によるそれでいいのかどうかは議論のあるところだろう。

 以後は、小学校から高校までの作品ごとの教材解釈と授業例が、「確かな国語力」をつけるという観点から並ぶ。この団体の場合、子ども自身に読みの手法を教えていくことを意識的に追求しているので、その手法を作品に即して提出している感じの文章が並ぶ。

 その後は、国語の授業でいかに対話と討論を組織するのか、その実践例が並ぶ。この点もこの団体の特徴だ。子どもの読みをめぐって、討論をしない授業、させられない授業が広く存在しているが、これへの実践的批判となっている。中でも記録として面白いと思ったのが、薄井の文章。正岡子規の「いくたびも□の深さを尋ねけり」の□に何が入るか推理しなさい、という問いと応答の記録。教師は、いくたびも尋ねるような変化するものは何かと助言。その応えの中に川とか雪(これが正解)と並んで、愛とつぶやいた生徒がいて、こっちが断然支持を集めたとある。薄井は、これを共感の深さを喚起する問いの問題として押さえている。私は少し違うが、実践の事実として面白い。違うというのは、尋ねた人は誰か、尋ねられた人は誰かということを考える必要があると思う。生徒は、それを考えていない。尋ねる側と尋ねられる側を意識すると、通常の読みと違う読みも浮上する。

 その後に学習集団あるいは授業への提言が並ぶ。ここは本来、学習集団論が特集だったから私の大先輩にあたる大槻さんといった人たちの論考が並ぶ。豊田論文は、向山や大森による安斎冬衛の「春」の授業を例に定石化の批判をしている。あの人たちは渡っていった海峡を韃靼海峡すなわち間宮海峡と信じて疑わないが、本当は違っていたのではないかという議論を紹介しながら、定石化の発想を批判している。

 これらの論文群の中の一つが私の文章。私のものは、論文タイトル通り、解釈そのものが社会的であって、正解とされる読みを理解することではないこと、解釈が社会的であるということはその読みの参加者による対話を通じて構築されるのだという発想からの議論をしている。
是非、買って読んでみましょう。(2006.08.27)


トップページに戻る
Magazine335:荘子

 福永光司、中央公論新社、720円と税金。

 この古い本(1964年刊)を読んだのは、ただ二つの理由から。一つは、自然と自然主義のとらえ方をめぐる本を読んでいて、そこに引用されていたから。こっちはたいした動機ではないがそれでも確かめておきたかったから。

 もう一つの動機は、「井の中の蛙大海を知らず」これに続きがあるという話しを聞いて、その出典を確かめるため。続きというのは「されど空の青さを知る」というもの。これは、日本で誰かが付け足したとされており、さらに、異なる表現もあるという。「空の高さをしる」とか「深さを知る」など。個人的には、空の青さがいいと思う。空の高さや深さでは、原典とあわないのである。原典は浅い井戸と言っており、深さというほど深くない。また、蛙がその高さを知る術は持ちにくいだろうということによる。

 荘子は紀元前4世紀後半の人らしく、その著書『荘子』も本人が書いたものとその後に書き加えられたものがあること、ただし、福永によれば、先の言葉は荘子本人の思想を体現する部分だということなどが確認された。また、私の理解によれば、万物斉同を基本とする荘子の見地からすれば、日本で書き加えられた部分が入っても必ずしも不整合ということはない。というのは、秋水編の原文も、叡智や洞察を欠いた場合に「井の中の蛙大海を知らず」ということだからだ。考察し続ける蛙であれば、ダメということはないのである。東海のウミガメが大水や日照りがあっても大海の水は増えたり、岸の水が枯れたりしないと応えたに過ぎない。

 そうした事実を知らなくても、蛙はその場所で生きてきた中で知りできることがあり、蛙の住む場所ではウミガメは生きられないものでもある。洞察することを止めない限り、未熟と否定されることはないのだと思う。誰が付け加えたのかは知らないけれど、されどの方がより良いだろうと思う。

(2006.08.26)


トップページに戻る
Magazine334:十二夜

 シェークスピア(小田島雄志訳)、白水社、690円と税金。

 ミュージカルを見たので、原作も読んでみた。

 原作と同じセリフもだいぶ使用されていたが、省略も相当あったし、追加もかなりある。全体としてはスリム化しているということが分かった。執事にまつわる話しが入っている割に、その取り扱いをどうするのかが、舞台の方は定まっていたのかいないのか、議論の余地があるかもしれない。

 以前に、河合の本を取り上げたときに論及したかもしれないが、登場人物の男や女の見方、身分の見方といったものがものすごく固定的だ。固定的な見方をいかに飾り立てて語り、表現するかに腐心していることがよくわかる。例えば、思いの深さは胸の大きさで決まるとし、女は小さすぎると公爵は断じる。とは言え、思いの深いはずの思いをその公爵は、すぐにあっさりと捨て去ってしまうから、皮肉が効いていると読むべきなのだろう。

 小田島の訳は定評があるのだが、その定評の一つは、ダジャレ。いわゆる親父ギャグといわれる水準のものもなくはないが、上手。たまにはこういう本もいいかという感じ。

(2006.08.22)


トップページに戻る
Magazine333:虹は七色か六色か

 板倉聖宣、仮説社、600円と税金。

 タイトル通りの授業書の一つなのだが、これは板倉の科学論をよく現している本だ。

 4人の科学者がほぼ同時期に、「アメリカでは虹を六色とし、日本では七色としている」という文章を書いたことを取り上げ、実際に自分で虹を見ずに書いたのではないかと疑い、日本とアメリカで虹を何色と書いた本がこれまでにあったかを調べて批判した本である。その調査によれば、日本では1835年の青地林宗の「気海観?」(欄の字のヘンが本当は、?)が最初で、それまでは色々だったとし、ニュートンの分光学の影響で七色になったという。他方、アメリカでは1800年代には七色と書いてあり、六色ではなかったことを指摘し、一九四〇年のヒューイの著書でインディゴをあげなくていいと書かれて以後のことなのだと指摘する。

 以上の事実から、「『ことばによって<見る>ものが支配される」という考え方にとらわれすぎて、『人びとの考えが歴史的に変化する』ということに目が行き届かなかったというわけです。」という。近代主義的な科学論の立場がよく見える。

 板倉の主張で確かに正しいと思われるのは、考えが歴史的に変化するということ。この点での論証はおそらく正しい。しかし、それでも、色の区分が言葉に左右されるということは間違っていない。板倉は取り上げないのだが、分光器で見ればわかるように、虹の色は本当は六色でも七色でもない。ずっとずっと多い。人が色を何色知っているかに依存して区分しているだけだ。赤いいろといっても無数に存在している。それを色の言葉に置き直すとき、色に詳しい人はより多くの赤系統の色の言葉を用いることができる。しかし、知らない人は、視覚に届いた多様な刺激を区分できない。知っている言葉に一定の範囲の色を同一視し、同一視するとそのように見えていると大脳に反映させていく。(2006.08.19)


トップページに戻る
Magazine332:サルトル『むかつき』ニートという

 合田正人、サルトル『むかつき』ニートという冒険、みすず書房、1500円と税金。

 サルトルの『嘔吐』という本の読み。人それぞれが宇宙を映し出す鏡と捉え、多くの人が多くの物や人に「むかついている」今をサルトルの「嘔吐」に読み込んでいく。これをニートになぞらえていいのかどうかは怪しいが、文学者の冒険だからとりあえず許可して読み進める。

 本文の中にもある通りだったので可笑しかったのだが、私も高校生の頃にこの「嘔吐」を読んだ。ほぼ意味を理解できなかった記憶がある。当時は、どんなものに異物や違和感をもてるかということに熱中していた。しかし、これは、全くの幼さだった。個人を相対化できていなかったなと思う。

 著者の合田さん、説明的文章はうまくない。『嘔吐』の文章のように話しが飛ぶ。しかし、ここに引っ掛かって読んでみたら面白いんじゃないか、そういう誘いのために書いた文章と見なせば、本の評価は違ってしまうのではないかと思う。

 所で、私は、サルトルの本を合田氏とは全く違う方向で読んでいた。本書では、「むかつき」を自他の醜悪さの投影と捉え、これを自他への暴力や憎悪の正当化で終わらせるのではなく、「むかつき」続けよという話しだったのだ締めくくる。(2006.08.17)


トップページに戻る
Magazine331:裁判判決で学ぶ日本の人権

 梅野正信、明石書店、2800円と税金。

 日本における人権に関わる裁判の判決から何が学べるのかを、個別の裁判の判決を検討しながら提案を試みた本。

 一つめの特徴は、教科教育研究の一つのあり方として今後も各領域で追求され続けるだろう方向を示していること。敢えてこんなことを書いたのは、教科教育の多くの人々が学習指導要領のエピゴーネン(模倣的追随者)となっている中で、開発的性格を持っている本だということを強調したかったからである。

 二つめには、人権を否定もしくは制限する意味の公共論が保守派から提出されていることを意識しながら、そんなとらえ方でいいのか、本来の公共論との違いを意識しながら人権を学ぶ上で欠かせない視点を打ち出そうとしている。この点で梅野の仕事は、積極的に評価されるべきだろう。もちろん、個々の判決の意味づけについては議論があっていいだろうけれども、何が学ばれるかという視点からの検討が教科教育の課題として存在するというだけでなく、その議論の方向としてこの課題意識を持つ意味は重要だろうと思う。

 それでもなお、この判決から学ぶその学び方は多様であることを忘れないでほしいと思う。これまでの判決から学ぶやり方は、次の二つが主流である。一つは、訴訟の経緯と判決を取り上げ解説するもの。二つは、ディベートを含む模擬裁判を開催するもの。判決に拘ると上記二つとなる。それぞれに意味はある。しかし、判決に関わりつつ、もう少し社会と交わる方向が開発されてもいいように思う。(2006.08.07)


トップページに戻る
Magazine330:日本生活指導研究所紀要19号

 日本生活指導研究所、1000円。

 全生研の中に付置された研究所の紀要だ。全体として学校づくりに関わりそうな小論が並ぶ。そうした中で、私が注目したのは、服部論文。自身の生活指導教師として生きてきたその教育の掴み方をその歴史を意識しながら論述している。全生研の理論と実践の時間的流れを意識したときには、参考になる点があると思う。そうした本筋の流れとは別に、真面目な教師が教材研究をして子どもを引き回す授業を行うことを批判している。私もこれに同意する。教材研究では授業は創れない。それとは別の論理がいるのだと思う。

 もう一つ面白いのは、城丸論文。改憲勢力は愛国を言って自分たちへの忠誠を強制しているだけではないかと指摘している。最近の話題で言えば、脱税や各種隠蔽工作をしている企業、具体的にはトヨタ、キャノン、オリックスなどの幹部は、「愛国」を本当に理解しているのかどうか怪しいというわけだ。

 また、戦前の軍人と官僚は斉唱に参加しなかった。それは、歌を受ける側だったからだとか、戦前の男子中等学校以上では儀式で歌を歌わなかったのだそうだ。男子たるもの女々しいと言うことだったらしい。それもすごいジェンダーバイアス。また、旗についても、天皇家の旗ではない日の丸の由来と、その明治以降における意味の変化を記している。学校の中に日の丸が入ったのはサンフランシスコ条約以降のことだとしている。それまでは、軒先につるして忠誠を誓うものだったと。そんなこんなでいろいろ発見のある論文。(2006.08.04)


トップページに戻る
Magazine329:第2言語習得のメカニズム

 ロッド・エリス、筑摩書房1000円と税金。

 第二言語、つまり、一般的には外国語を習得するメカニズムに関する学説を概説した本。修論で、言語習得に関わる文化の問題を取り上げる院生がいるし、小学校英語が話題ということもあって、読んでみることにした。定評のある概説書だと訳者あとがきにあったが、確かに、どのように考えられてきたのかを基本に論述されていて、理論の流れを掴むのに便利。例えば、日本ではコミュニカティブアプローチが比較的に声としては大きいのだけれど、本書によれば、それは欠陥の多い議論として反証されていると。つまり、文法を一切取り立てて教えない行き方は、第2言語学習にとって不利だと言う研究が紹介されていたりする。

 ただ、この習得というのは、主に話す聞くという領域に関わってのことであって、書くことについてはあまり取り上げられていない。この領域の研究は、始まってまだ30年だそうだからこれからということかも知れない。

 なお、説の紹介が中心となっているからかもしれないが、「○○が証明された」という文章が大変多いのだが、その証明されたはずの理論が次の項では反対の見地の説がまた「証明された」と記述されていて、どういうことだと思ってしまう表現が出てきて混乱する点がある。読むときには注意が必要だ。無茶の小学校英語の導入に腹が立っている人で、原理から考えようとするときの情報入手のための本としては持っていても良いと思う。最後に、参考文献一覧がある。

(2006.08.02)


トップページに戻る