2007年8月1日 (水)

Magazine444:実践的なシティズンシップ教育の・

 生活をつくる家庭科第3巻、実践的なシティズンシップ教育の創造、ドメス出版、1000円と税金。

 荒井紀子他編著で、シティズンシップの教育に関連した仕事をしている宮本みち子が執筆していたので購入。読んでみたら、そこよりも編著者の荒井の整理した「シティズンシップを発揮するために必要な能力の全体像」の図が使えそうな気がした。

 荒井の整理では、品川区の市民科などの事例がそれとして取り上げられていたが、品川と全体像とは整合的ではない。品川の方がひどく貧しい内容なのだが、そのことがよくわかるのでいいだろうと思う。それは、宮本の報告や望月の実践報告を見るとそのことがはっきりする。

(2007.07.29)


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Magazine443:ユリイカ7月号

 青土社、1238円と税金。

 石井桃子特集。くまのプーさんの訳者として有名だが、100歳になったんだそうだ。前世代の人には、「ノンちゃん雲に乗る」の方が有名かもしれない。

 今江と内田の対談は、いくらか差がありすぎて対談としては面白くはない。何人もの人が石井のことについて文章を寄せているが、もの足りない感じが全体としてする。だが、目黒強の文章は抑制的な批評になっている気がする。

 それらよりは、石井の作品が二つ再録されていて、こちらの方が読み応えがあった。さすがに石井というべきなんだと思う。特に、「子どもの読書の導きかた」は読んだことがなかったので教えられることがいくつかあった。年譜や作品目録があるので関心のある人は持っていてそんのない本ではある。(2007.07.25)


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Magazine442:護憲派の語る「改憲」論

 大塚英志、角川書店、686円と税金。

 小中高校生が憲法前文を書くという試みを行っている大塚英志の新書。その書いた憲法前文や前文を書くということに関する投稿が載っているという理由で買った本。

 大塚の主張は比較的明快だ。改憲派は考え無しに改憲と言っている。だから、護憲派も考え無しに護憲というのではなく、自分なりの考えを持って憲法を守っていこう、変えるなら一人一人が公共性をつくり出すように議論しながら進めようということが一つ。もう一つは、改憲派が憲法が古くなったと言うけれど、そうではなくて憲法がきちんと使われてこなかったのだという。憲法をきちんと使うということはどういうことかを事例を挙げて論じていく。

 例えば、「自己責任」という人びとは、自分の自己責任は放棄して、他人の自己責任だけを言挙げしていくことなどが明快に論じられている。

 年金は積み立てではなくて再分配の税なのだ、なんて言うのは若干の間違いがあるけれど、方向としては間違っていない。(年金保険と税制とは同じでない点で間違いを含んでいる。)

 (2007.07.22)


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Magazine441:教育8月号

 教育科学研究会編、国土社、667円と税金。

 全国学テが特集で、まず、この学テが実施された日がどんな日であったかの現場の声が座談会という形で記されている。私が集めた情報でも同じだったのだが、中学生は受験に関係ないという情報を得るやかなりの生徒が机で寝たという話しがある。これは、学テの無意味さを示す側面もあるだろうけれど、受験に関係があると聞くという在り方は、学テと無関係に深刻な能力主義的プラグマチズムだと思う。深刻な事態だと特集とは無関係に思った。

 論文で読むべきは、田中昌弥論文だ。文科省の基礎学力徹底論同調者に対してPISAのリテラシーを高く評価しすぎる動向を批判した論文だ。PISAやデセコが新自由主義的性格を持っていることを指摘し、単純に高く評価する議論に反撃している。確かに、新自由主義的性格を持っていることは明らかだ。だから、私もリテラシーというときに批判的な多文化主義の見地と接続させて議論させてきた。PISAの問題とリンクさせてもう少し議論すると一層説得的になった気がする。

 それぞれ関連の論文も短期集中編集なのだと思うけれど、早く出した点に意義はある。

(2007.07.19)


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Magazine440:生活指導8月号

 全生研編、明治図書、752円と税金。

 「子どもの生きづらさと暴力に向き合う」が特集で、49回大会の基調提案も載っている。

 生きづらさの表現としての他者に向かう暴力とリストカットという自己に向かう暴力が取り上げられ、これにくじけそうになった教師の記録や学年全体の方針概要を記した文章などが続く。副題には「自治の教育を通して」とあるが、この点ははっきりしない。むしろ、教師と当該の生徒を中心とした応答が中心に据えられている。荒れの絶頂期には、一方に自治の仕組みを置きつつも、当該の生徒との対話が優先せざるを得ないのか、それともそういう取り組みが問題ということなのか。それは検討の余地がありそうだ。

 それよりも、生徒との対話自身においてもう少しつっこんだやりとりが必要なように思われた。この点が課題のような気がした。

 基調提案について、私の見地から一言いうと、つまり、学びに係わって言うと、「教師の支配的で権力的な指導を問い直し」、「生活現実を意味づけ」ていくというのだが、それはそうなのだが、そのための手がかりが示されていない気がする。生活現実を学びの対象とするところは出発に過ぎない。その先が問題なのだ。その先において子どもの生活現実の掴み方が交流される学びとなるのかならないのかが、権力的指導を越えられるかどうかの分かれ目のような気がする。この点では、言説批判の手法は、その手がかりなのだと思う。「教え込み」主義を越えられるかどうか分かれ目と言ってもいい。(2007.07.16)


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Magazine439:読む人間

 大江健三郎、集英社、1400円と税金。

 ブログの方に触れたので、ひどく短い感想を追加したい。一つは、齢を重ねたのでこれまで読んできた本にわかれを告げるべく書かれたという発想は面白い。

 私は、何度も触れてきたが、大江の小説を面白いと思えない。戦略に満ちている気はするが登場する人物の誰にも違和感を持ってしまう。明治以来の小説家となった人たちの一つの奔流そのままを継承している感じがしてしまう。「武満徹!それだれだ!」というような人はずっと見えない気がしてしまう。(2007.07.13)


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Magazine438:満州事変から日中戦争へ

 加藤陽子、岩波書店、780円と税金。

 タイトル通りなのだが、加藤の問題意識は、軍と国民の関係にありそうだ。軍の暴走という表現が本書に出てくるが、必ずしも軍だけが暴走したのではなく、国民もこれを扇動する事態があったことなどが示されていく。

 本書は、文章としてわかりにくい。難しいというより分かりにくい。それは、課題の設定の意図が「おわりに」に至ってようやくはっきりする、そういう構成となっているからだ。

 また、本書は、日中それぞれ「事情」を抱えていたことを示そうとする。だから、それぞれ「事情」はわかるけれど、しかし、事情ならいくらでも積み上げられる。けれど、その事情は事情を持ち出すことによって、正当化可能な議論であったのかどうか、その基準ははっきりしない叙述のように思われた。また、事情を優先するからだろうか、その論理は日本の中国侵略を正当化できるかという視点をずっと留保する。しかし、事情を正当化する発言が所々に浮上する。例えば、上海事変を受けて、国際連盟にその規約10条と15条で訴えられると、「日本にとっての不幸であった」などと書く。

 とはいえ、それぞれの側に立った論理を引きだそうとしている本ということはできる。

(2007.07.09)


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Magazine437:わかりあう対話10のルール

 福澤一吉、筑摩書房、680円と税金。

 論証された議論のための技術が書かれている。ただし、論証された議論であれば、「わかりあう」というのは、間違っていると思う。相手の言っていることが「わかる」ことは合意とは限らず、むしろ、相手の不当さを「わかる」ことでもあるからだ。

 立場の違い、利益の違いということを福澤は十分に捉えていないと思われる。小学校英語の導入の是非を例に、分かり合えるかのようなモデル対話を示しているが、そこでも利益やものの見方の違いは捨象されている。論証された議論のスキルとして参照に値することもあるのにおしい。(2007.07.06)


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Magazine436:起きて、立って、服を着ること

 正木ゆう子、深夜叢書社、2600円と税金。

 俳句の批評をした本。私は、俳句番組を時々見る。正木はNHKの番組の選者として時々登場している。その時の批評の仕方が、他の選者よりも好きで買った本。俳句の選者の批評は、過去の俳句や世評あるいは常識に依存して句を批評することが多い。例えば、長谷川櫂などは、ソフトだが「らしさ」に囚われて断定しているなと思うことの多い批評をしているようにおもう。これに対して正木は現代批評の理論を取り入れていると思われる言葉が織り込まれ、少ない時間のなかに多くの読みをいれようとしている。そういう感じがいいと今のところ思ったりする。

 TVの言葉の使い方と、本書の批評の仕方はだいぶ違う。好き嫌いもあるのだろうが、冒頭の星野立子以下数人の俳句についての批評は肯定的言葉が並ぶ。ところが、本書のタイトルとなったところで取り上げられている俳人の句への批評になるとかなり辛辣となる。この差は俳句そのもののできによるだけがどうか、それはわからないが、辛辣な言葉遣いも悪くない。

 本書のタイトルの意味は、「使えばその言葉を体験しているような気持ちになる。しかし実際には身丈に合った言葉でなくては一句のなかで機能しないのだ。起きて、立って、服を着ること。言葉を記すとはそういう行為である。」による。

 確かにそういう面がある。しかし、身丈に合うとは、何だろう。少し大きめでないと身丈に合わないこともあるかもしれない。(2007.07.04)


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Magazine435:「上越教師の会」の研究

 二谷貞夫・和井田清司・釜田聡編、学文社、3000円と税金。

 1950年代の地域の民間教育研究団体の始まりから、その経過を辿り、その意味を現在に置いて探った本。この団体は地域の団体だが、長く続いていることにまず注目したくなる。地域的事情もあるだろうし、全国的な研究団体や社会状況との関連もあるだろう。この点で、全国に影響されながらも、上越の生活や子どもの受け止め方を問題にし続けてきたことが、第一の長く続いた理由のような気がする。

 この団体は、一方に、科学主義的な発想を持つと共に、生活教育的な発想をもって実践を進めてきた。この二つの併存が社会状況的には理解されるが、なお解かれるべき課題として残っている気がする。ともかく、前半のどちらかと言えばこの団体の研究史を全国的な研究動向に位置づけた諸論考が示してくれる。中盤から後半は、その担い手たちの実践史、実践構想の紹介と検討となっている。

 本書は、実践の意味づけに力点があって、どのような実践であったのかが後半に行かないとなかなか分かりづらい。資料編は膨大すぎて掲載できなかったのだろうが、少々残念な気がする。それでも、こうした地域的な実践史を整理しておくことは地味だが、大事な仕事だと思う。

(2007.07.01)


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