2007年10月1日 (月)
| Magazine462:歴史地理教育10月号 |
歴史教育者協議会編集・発行、648円と税金。 今月は、「いま、ルネサンスを学ぶ」が特集。人間復興みたいなとらえ方が長くイメージされてきたけどそうでもないさあ、という感じ。このあたりは、ここ20年近くの歴史研究の変動と連動した語り。そのポイントは、14世紀に起こったとされているけど違って、8世紀や12世紀にもあったし、場所もヨーロッパが起源のように見られているけどイスラム文化からの流入だし、芸術家としてダヴィンチなんかを高く評価するけどこれまた違うみたいだ、とある。詳細は、参考文献を読まないといけませんが、巻頭論文はコンパクト。 以下、今月号の最大の収穫は、河崎かよ子さんの実践記録的文章だ。実に文章が上手いし、教育実践としても素晴らしい気がする。子どもたちの遊んでいる「津の江グランド」が実は、遊水池であることを見つけ、他ならぬ学校が1967年から3回も連続的に冠水していたことを見つけて、これを授業にしていく話しだ。この授業の組み立ても、川の堤防が切れたときの様子を聞き取らせておいて、現場に出かけ、見学のまとめと聞き取りの交流。次に、小学校周辺の地図を示し、冠水したところをセロハンで示し、「なぜ、同じところばかりすいがいになるの?」と発問。子どもは低いところという。しかし、本当にそうか、と追求していく。ホントにそればかりではなくて、二本の川の合流点であり、一挙に水が流れるのは開発と関わっていることも示され、それぞれの原因を子どもが納得できるように示していくあたりは流石。 鉄砲伝来について種子島に初めて伝わり、そこから広まったという常識がこれまた違うよ、という論文もまずまず。 宮田の国民学校の皇国民錬成教育についての文章もまずまずなんだけど、一箇所どうしてもそれは違うなあと思う点がある。千葉の自由教育が教育方法の段階に止まったという判断の部分だ。内容優先の発想がそこにある。自由教育の方法こそ皇国民錬成の手法の一つと位置づけて欲しい気がする。(2007.09.27) |
| Magazine461:読解力向上に関する指導資料 |
文部科学省、東洋館出版、1200円と税金。 2年近く前の2005年12月に出された文科省の読解力向上プログラムという報告がある。それにPISAの読解力に関する調査研究を付加して作成された資料集。これ自体は、もう一年半前に刊行された本で、目新しさはない。上記、プログラムに関するコメントを私も2006年の正月にブログに書いている。今これをここに取り上げておくのは、文科省がPISAのリテラシーと学力を読みかえながら同一視していく資料だからだ。おそらく正式な刊行された資料としては最初のモノとなる資料だからだ。 これを記しておくのは、学力とPISAのリテラシーと全国学テB問題の関係をどう捉えるかの議論があって、文科省は読みかえて同一視する線を選択していることがこの資料ではっきりするからである。 当然のことながら、本当は、学力とPISAのリテラシーは同じでない。また、全国学テB問題は、PISAのリテラシーと同じでない部分を含む。さらに当然、それらすべては、私の批判的リテラシーと呼ぶものと質的な違いを持つ。 以上のことを忘れないためのメモ。(2007.09.24) |
| Magazine460:競争と抑圧の教室を変える |
全生研編著、明治図書、1860円と税金。 ここ2・3年この団体の中でもっとも注目されている実践家の記録を集めて、それぞれに短い分析的文章を集めた本。実践家の名前を挙げると、鈴木和夫、篠崎純子、柏木修、原田真知子、安子島宏、川辺一弘、加納昌美の各氏。 それぞれは、生活指導誌に載ったことがあるが、書き換えられている。時間が経った分、実践家本人の読み取りが加えられていて参考になる。 それぞれの実践の分析は別に論及したこともあるので、ここでは各実践に登場する子どもの様子にある種の共通する特徴について記しておきたい。 一つは、子どもが自分の行動について正確に意識化できていないことだ。トラブルの原因とその経過を丹念に辿る作業を経ないと、どんなことが起こったのかが教師ばかりか、当事者たちもよく分からない事態がそこにある。二つは、暴力ばかりでなく、お金やモノの貸し借りが脅しやたかりとなっていることだ。三つには、そこに親が介在するのだが、傷つき武装した親と対話的関係ができて来るにしたがって、子どもの問題は解決の方向が開かれる。そこにいたる部分が実践的な意味でも解明が待たれるところのようだ。 昨日の研究会の席でも述べたが、子どものストレスは、いわゆる勉強的世界でも、家族関係の世界でも、さらに友達関係の世界でも極めて高いことをそれぞれの実践記録は示している。これに対して、互いを承認し合う世界をつくること、そして、子どもがそれぞれ周囲についてどのように見ているのかを語り合う中でしか解けないことを示している。いわゆる小手先のストレス解消法ではさしたる意味を持たないことをそれぞれは示しているように思われた。 (2007.09.21) |
| Magazine459:生活指導研究24 |
日本生活指導学会編、エイデル研究所、2800円。 子どもの安全・安心・安定と社会的セーフティネットの構築については、鈴木がスクールソーシャルワーカーという位置から論文を寄せる。 第二特集は、生活指導におけるニート・フリーター・若者問題とは何か。乾と白井が昨年度の学会課題研究の論旨に即して論文を寄稿。この課題研究の司会をしていた私としてはこの二つの論文にとりわけ注目だ。乾は若者の危機の共通性と多義性という問題の立て方をする。政策的な単純化に対して、多義性を対置しながら、なおかつ焦点となる問題があることを打ち出すためなのだろうと思われる。白井は、若者問題を個人の未熟さに還元する議論を批判し、そうではなくて社会的争点に開いてみていくことの重要さを指摘する。 第三特集は、生活指導におけるケアと自己決定。横田と浦田と瀧澤がこの難題にアプローチする。これについては、今年度の課題研究として引き続き議論されていたが、まだまだ研究途上と言わねばならない。領域固有性もかなりあるかもしれないのだが、まだ認識の共有には距離がある。 私の本の書評も載っているので読んでいただきたいもの。(2007.09.19) |
| Magazine458:考える日本史授業3 |
加藤公明、地歴社、2200円と税金。 この本は3となっているが、関連する本を含めると、もう数冊になるだろう。前近代、特に古代を主たる事例として実践を発表し始めて、徐々に、近現代へと実践の領域を拡大し、さらに、一般理論としての社会科教育論を展開する方向へと発展させている。 今回の3は、「討論的授業」をデビュー作としての賀曽利の貝塚を素材にした新たな記録もあるが、従軍慰安婦や「集団自決」などの近現代の事例を冒頭に持ってきて、新たな実践的提起もしている。これについては後述するとして、最後は、社会科教育論としての事実認識、関係認識、全体認識という枠組みを提案している。最後の部分は、川合章の議論を想起させるがいつかこうした場所ではなくて考える宿題にしておきたい。 今回の本の最大に実践的提起は、事実さえ認めようとしない議論が高校生の中にも存在するようになっていることを踏まえて、中国人を日本人が虐殺したという日本人の証言の次の授業をどう展開するかを論じている事柄だ。つまり、そこでは、事実はこうだった、本当はこうだったというアプローチでは、単なる反発を生み出すだけで教育として成功しないことをまず指摘する。これに対して、実践的には、「平凡で善良な日本人であった山本さんを、中略、無慈悲で暴虐な加害者にしてしまったのだろうか」という問いで授業を進める部分にある。 つまりこうだ。「歴史について何が分かれば、自分としてもっとも納得できるか」これを探させ、そこに触れる事実や討論を行う必要があると指摘している。ここが重要だ。 「本当はこうだった史観」を越える道が新たに提起されたんじゃないかと思う。是非読むべき一冊となった。 (2007.09.16) |
Magazine457:高校生活指導174号 |
高生研編、青木書店、1200円と税金。 本の紹介だけをブログに書いたのでこちらには、もう少し内容について短評。 出だしの照本論文は、高校のホームルームのことを対象にしているけれど、これは私の見るところ、ホームレスの諸研究が下敷きだ。高校実践をもっと論文に反映させてもよかったかもしれないと思ったが、ホームとはなんだろうかと原理的に問いかける。 その後、西村さんは、高校教師を教科指導派とHR派に分けて、HR派の可能性を共同の問題として論じている。その後、4人の女性教師によるHR実践が肩肘張らずに語られ、望月論文では、生徒自身を能動的な担い手にするとはなんだろうと模索する。 教員評価については、中田論文が原理的考察をし、私の論文の趣旨と同じ見地だと思えることを二箇所その中に発見した。意外だった。その後に、各地の教員評価の仕組みと実状が並ぶ。 そしてこの所のこの雑誌の定番の「センセーのワザ」シリーズ。今回は席替え。 (07.09.14) |
| Magazine456:戦後教育のなかの<国民> |
小国喜弘、吉川弘文館、2600円と税金。 戦後教育の中で日本人像が右派や保守、あるいは行政によってだけつくられたのではなく、民間もしくは左派によってもつくられてきたことを主に社会科教育ことに歴史教育の民間教育団体の動向を取り上げて示そうとした本。 ナショナリズムを国家や保守の専売特許と考えるのは間違いだ。このことは、小国以前に何人もの人によって指摘されている。その新しさは、小熊よりは教育実践に近いところで取り上げたところにあるだろう。 ただ、石間わるしぶきの実践としての評価、その他の実践としての評価は見る視点の違いもあるからずれる点はあるけれど、ナショナリズムの存在を示したわかりやすい論考だと思う。80年代の歴史教育実践の評価は全く賛成できない。わかるとか楽しい授業が追求した子どもの主体性をもし捉えそこねているとすれば、それはまたある種の同化圧力を小国が是認したことにもつながる可能性がある。そういう点では終章の一部については問題含みだ。 また、日本人もしくは国民というのだが、その中身は教育実践史上の言葉の使い方の問題があるからやむを得ないのかもしれないのだが、時には、それは民族であったり、労働者階級を指していたり農民層を指していたり変化がある。さらにまた、民族と言いながら、民族をさらに労働者という階級概念で捉えていた時代などがあって、そこが明示的でないところもいくらかある。 あるいは、戦後の沖縄復帰運動の中にあった標準語教育運動をナショナリズムの問題として把握しているが、この運動は、戦前からの啓蒙主義などとも結びついて展開されていた歴史もあって他の要素との関係もう少し考慮されてもいいのかもしれない。 それでも、集合的名詞へ帰属させる力が作用し、そこに抑圧が深く存在していたことは間違いないと思う。そうした点で私は、小国のこの基本構想を共有する部分が大いにある。 (2007.09.10) |
| Magazine455:コミュニケーションと関係の倫理 |
種村完司、青木書店、2200円と税金。 出だしは、子どもの世界とモラルの問題、ついでオウム真理教における身体の問題など、90年代後半からの状況を対象にしていて読みやすい。ここでは、子どもの全体的な活動・交わりが失われて、物や人との交流が希薄となって、物や人を自己の内に取り込むことができにくくなっているのだと分析する。 第二部は、コミュニケーション論をハーバーマスや精神病理学的な議論を援用しながら検討している。理論的考察が中心。少々問題意識が私の今とずれるけれど、尊厳の話しは面白かった。 本書では、補論の位置に置かれているが、私の興味からすると一番面白かった。命の電話を受ける活動から引きだした、人と人が存在としてそこに向き合い、ついで我と汝となり、その声を聞くことの意味、声に共感することと迎合することとの違い、あるいは聞くことに徹するというロジャースの論を肯定しつつそこを越えていくことの意味を記している。 (2007.09.06) |
| Magazine454:天然コケコッコー |
下川香苗、集英社、477円と税金。 ものすごく昔ちょっと眺めたことがあるかもしれないコバルトブックス。映画の読み方が十分でない気がして脚本が含まれているので買った。 やっぱり、映画の見方として十分でなかった。思春期的なお話だから、確かに、住んでいるところと都会の対比の中で、その地域の暮らしの再発見という筋もある。しかし、それだけでなく、まさに思春期的な成長を自覚する物語という側面が他方にあったようだ。 コバルト文庫だからなのか、それとも下川という著者の力量なのかわからないが、人物の彫刻がわかりやすい。その少なくとも表層で読むと上記のようになる。 流れて生きてきた側からすると、地域の諸問題が一切浮かび上がらない話なので、ことほどさように田舎で暮らしていくのだと決意してしまう雰囲気には同化できないまなざしが残るけれども、そよのように思う瞬間もあったことも否めない。 (2007.09.03) |