2007年11月1日 (木)

Magazine473:現代思想11月号

 青土社、1238円と税金。

 偽装が特集。読んで面白かった論文は、一つ目が、さくらい・すすむのフィクションとしての偽装。青年の捉え方が否定形だし、直近を捉えていないかもしれないけれど、その前までの一断面を描いている気がする。もう一つは、朝田佳尚の偽装されたセキュリティ。多くの論者が自前のデータや調査なしに論じている中で、監視カメラ設置の商店街調査をベースに論じている点が最大の好感度理由。(2007.10.31)


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Magazine472:心の中にもっている問題 

 長田弘、晶文社、2000円と税金。

 副題に「詩人の父から子どもたちへの45篇の詩」とあって、これが詩の内容をおよそ表している。私の感覚と一致するもの、ちょっと異なるものいろいろある。感覚が違うと思うものは二つだ。一つは、長田は空いた時間に街をふらつくらしいこと、もう一つは、私より年が一世代以上上らしいその感覚の違いを感じるところがなんだかある点だ。

 みじかいし、混乱しているけれどいいと思ったのが、「れきしの話」。

 世界は紙っぱし。

 海はインクで、

 木が鉛筆。

 ことごとに

 ことごとしいことば。

 戦争が消しゴム。

 れきしってやつ、

 それが?

 飲み食いの話はなし?

 うわあ、

 ドタマ掻きむしりたくなる

 一千回。

(2007.10.28)


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Magazine471:子どもの力は学びあってこそ育つ

 金森俊朗、角川書店、724円と税金。

 金沢の小学校を今年退職した著者が、今の学力低下論や子どもバッシングに対して、子どもをどう見たらいいのか、効率重視の授業とは違った、学び合いのある授業をどうつくってきたのかを縦横に語っている。

 例えば、ヤンキーのように見える女子高生も、大人がどのようなまなざしを送るかで全く違った姿を示すことを例示し、今のバッシングにおける冷たく厳しいまなざしが子どもを追い込んでいることを明らかにしている。子どもがそもそも悪いというのではなく、まなざしを送る側の姿勢で全く違ってくることを各所で具体的に示していく。

 あるいはまた、55ページには示唆的な一言があったりする。「小学校で求められているのは、複雑なものを複雑なままに実在の文脈の中で捉えさせることである。」基礎とされたものを百ます計算のように競争して覚え込ませるのではなく、基礎を発見させるなどとも書いている。

 そうした学びは、子どもの生活や学校での暮らしの中にいくらでも転がっていること、それが見つけられないのは「視点」がないからなのだという。例えば、給食の時間。「みんな何食べた?」と聞く。その時に「給食」「食べ物」という答えで終わるのではなく、そこから命を食べていることを見つける対話へと発展させたりしている。

 縛られ、管理された時間を「視点」があれば超えていけることを多彩に示している。是非とも読んで欲しい1冊(2007.10.24)


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Magazine470:悪口学校 

 シェリダン、岩波書店、定価300円(絶版で実際は200円で購入)。

 18世紀後半のイギリスの劇作家の作品。悪口にも知性がないとちっとも面白くないということを実感できる本。購入した動機は、以前に読んだ本にこの本の冒頭が引用されていたことを書店を徘徊しているときに思い出したから。

 内容は、道徳家と偽善家の微妙な違いを描いているというのが普通の読みだろう。しかし、それよりはやっぱり言い回しの面白さにある。(2007.10.22)


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Magazine469:非線形科学 

 蔵本由紀、集英社、700円と税金。

 非線形科学というのは、単純に一定の比率で推移する量や現象ではなく、混沌としているように見える諸現象についての解明を目指す学問らしい。安定と不安定のそのどちらかが表れるのかがわからないその境目だとか、決定とゆらぎ、対称性の破れなどのその境目を説明する公式を探求しているらしい。

 わかりやすかったのは、蛍の発光の同期のメカニズム、同期の学問の変遷の部分。本書には数式がほとんど出てこないけれど、用語と現実の現象との間にはまだ距離があって、理解できてないことが大半だ。だが、読み通せてしまった。

 なお、本書のおしまいに、科学の大系を一本の樹木にたとえて理解する考え方を批判している部分があって、ここがおもしろい。つまり、樹木の根元に根源となる素粒子物理学を置き、その次に根本原理の応用、枝葉をそのまた応用と考える科学観を痛烈に批判している。そうではなく、末端の錯綜した現象の世界に踏みとどまってそのレベルで統合を試みること、そういうレベルに不変構造があるのだと、そのことを非線形科学は明らかにしつつあるという。この発想と確信が本書の収穫。(2007.10.18)


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Magazine468:科学的読みの授業研究会研究紀要\ 

 科学的『読み』の授業研究会「研究紀要」編集委員会編、定価不明(会内誌)。

 内容は、豊田ひさきによる宮崎典男の教育論の検討が巻頭。宮崎についての検討論文はこれまでにたぶんないのでその点は新鮮なのだが、そこから引き出してくる論点に新味は見いだせなかった。次の田中実による池田晶子を素材に旧来の反映論と言語論的転回の問題点を指摘しながら、言葉を使って読むということの原理を語っている文章は、語り込み方として興味深い文章だった。

 次のこの会代表である阿部昇の文章はPISAのリテラシーという視点から見たときに、メタ的読解力の弱さ、推理力・推論力の弱さ、自ら考え・自ら判断する力の弱さの三つがあるとし、これに対して読み研のこれまでの手法の意味を対置している。読み研の読みがリテラシーという観点から確かに一部は批判的と言っていい気がするが、批判的多文化主義という枠組みからすると疑義が残る。また、読みにおける批評の問題が本当は一番重要なように思われるのだが、この点はこの団体の追求の歴史はどの程度だったのか、いつかちょっと振り返ってみたい気がした。ともかく、その後にも、学習集団論、注文の多い料理店やごんぎつねの実践などを意欲的に試みた論考が並ぶ。それぞれ力作と言っていいと思う。

 送っていただいたことに感謝。(2007.10.16)


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Magazine467:開発教育2007 

 開発教育編集委員会、明石書店、2200円と税金。

 特集が、参加型開発と参加型学習。巻頭にこの協会の代表による、「開発」における参加に関する論考があって、次に、参加型学習の系譜をこの協会との関連で明らかにしようとしているので、参加型学習やワークショップについて研究しようとする人には参考になる。次に楠原がフレイレと開発教育の関連を示しながら、フレイレの教育方法の一部だけが一人歩きしている現実を批判している。

 その後に、小中高校の実践記録が並び、地域の教育と開発が日本とタイの事例などで紹介されている。さらに、研究論文に戦後日本における新教育と開発教育の特質を比較考察した野村の文章があったりして、視角としては、検討したいテーマが取り上げられている本だ。

(2007.10.13)


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Magazine466:日本語の源流を求めて

 大野晋、岩波書店、820円と税金。

 この本は、米寿となった著者がタイトルのような問いを持った少年時代から書き始めて、研究の原点や途中の議論を折り込みながら記した本。語るように書かれてあって読みやすい。なにより、60歳から始めたというタミル語の研究を踏まえて、日本語との比較を国語学(日本語)や歴史などとの知見を織り交ぜて書いてある。近年の研究までかなり踏まえて記していることが私の関心のある領域の部分を見るとそれとなくわかる。個別の断定は、それでいいのかどうかまでは私にはわからないことが多いが、博学だと思う。

敬意を表した記述だが、日本語というものを歴史的変動などは視野に入れながらも、どうもその中心部分を固定的に考えている節が随所にあって、そういう部分に連なる叙述は括弧に入れているというのが私の読み方。(2007.10.09)


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Magazine465:ナショナルヒストリーを学び捨てる

 酒井直樹編、東京大学出版会、2500円と税金。

 この本は、全体としては成功していない。タイトルに相応しい論考を期待すると、もの足りない。というのは、長めの酒井による小序の後に、ひろたまさきの近代における民衆の発見は、コンパクトだがもの足りない。キャロル・グラックのアメリカにおける日本の歴史研究については私が知らないことが多かったのでまずまず。横田とデヴッド・ハウエルのは、個別素材へのアプローチなんだけど、何が学び捨てられたのか判然としない。

 これに対して、酒井の昭和史論争における亀井勝一郎の批判についての検討、昭和史の執筆者のその後の応答の検討、さらに、従軍慰安婦等から呼びかけへの応答責任についての考察などには考えさせるものがある。ただし、現在の政治の中でポリティカルに考えることにおいては、原理主義的で粗雑に見えるところもあるかもしれない。それでも、亀井の人間イコール日本人あるいは人類というどうしようもない偏狭な粗雑さを批判している点、昭和史執筆者グループが、支配者と被支配者に区分して、「国民」を戦争責任から免罪した論理立ての議論の部分は検討に値するストーリーになっていると思う。(2007.10.06)


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Magazine464:リテラシーと授業改善

 日本教育方法学会編、図書文化、2000円と税金。

 リテラシー問題をどう捉えるかが第一部。ここに佐藤学がPISAのリテラシーを21世紀の学力と定義していいかどうかを検討し、そこに社会との関係、階層的な対応関係があるかもしれないとする。続いて、土井捷三と山住勝広がヴィゴツキー理論におけるリテラシーを検討する。その後には、教科とリテラシー、批判的リテラシーと授業改善に関する論考が並ぶ。この中では松下佳代の論文は読んでおいた方がいいだろうと思う。また、寺岡の冒頭の科学的リテラシーについての議論も踏まえるべき論点を提出している。総じて、今、日本で進行しそうなリテラシー教育の実践を、そもそもから考える時には読んでおくべき文献の一つだと思う。

 ただし、また、リテラシーとは何を指すのか、その形成の筋道についてまだ議論すべきことが多い。批判的リテラシー一つを取っても、取り上げられた事例は、果たして批判的リテラシーの中心的な問題をついているのかどうか疑義が残ったからだ。

 (2007.10.03)


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Magazine463:「尊厳死」に尊厳はあるか

 中島みち、岩波書店、700円と税金。

 主に、富山の射水市民病院で起こった当時の外科部長による呼吸器取り外しによる「尊厳死」事件を事例に、本当にそれは尊厳死なのかを追求したルポルタージュ。

 医者や看護士は、それを「尊厳死」だといい、マスコミも「尊厳死」を広く認めるべきだという論調で記事や番組が組まれているが、実は、そこに他ならぬ専門家の錯誤や思いこみによって、患者にとっての尊厳死でないことがありはしないかということを相当丹念に明らかにしている。メディア・リテラシーの素材になりそうな本。(2007.10.01)


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