『100万回生きたねこ』を読む 子安 潤
佐野洋子作『百万回生きたねこ』講談社は、1977年に刊行されて以来、版を重ね、学校教育の中でもよく読まれている作品です。特に、「生きる」「死ぬ」ことの教育に関わってよく利用されています。 この作品について、「生きる意味を考えさせられます」という感想が寄せられることも多く、いかに感動したかを記した文章も沢山あります。しかし、その意味の中身はなんでしょう?何に感動しているのでしょう? 人生の長さではなくて、どう生きるかだというのでしょうか? 愛するものとの出会いだというのでしょうか? 自分を好きなだけじゃダメだというのでしょうか? 子どもを産み育てることが大事だとでもいうのでしょうか?
私はどの理解の仕方にも不満をもつのです。考えさせられた中身が意外にはっきりしていないことが一つです。もう一つは、読みとりの仕方が違うのではないかということです。以下、私の読みとり方を述べようと思います。
百万年生きて、百万回生きたとありますから。平均1年で死んだことになります。ネコとしては、とても短い生涯です。ほとんど子猫の間に死んでしまったことになります。ということは、体験の多くは子猫の間に限られ、ねこの体験としても多くの場合浅いままに終えていったということです。おばあさんに飼われた時は長生きをしますが、抱かれたままでしたから、様々な体験をすることなく生きて死んでいったことになります。このことは、野良猫として生きるときと違う第一の点であるように思われます。そして、経験の深浅がこの物語の進行と関係があるかもしれません。
そのまえがきの次の頁からは、内容は違いますが、基本的に同じパターンの話しとなっています。つまり、愛されるとは一方的な思いこみを背負わされ、残酷なことだという話しです。このように読む実践に未だ出会っていません。この読みが私の場合基本となっています。 多くの人の読みとりは、後半の白いネコとの出会いによって、「愛された経験」だけから「愛した経験」をへて、そうして初めて死ぬことができたと読んでいきます。 そういう読みもあるかもしれません。しかし、白いネコは「そう」としか言いません。だから、とら猫に興味はなかったのです。しかし、側にいていいかという問いに「ええ」といっただけで、「愛した経験」をとら猫は持つことになるわけです。普通は、ここで逆転していくことになると解釈されていきます。ですが、私の解釈としては、それは「愛されていた経験」が白いネコになり、とら猫が飼い主に代わってしまった話しではないか。そんな風にも読めると思うのです。でもそう読む人を今のところ知りません。
同じ主張をもう少し詳しく読んでいきましょう。 読みの違いは、冒頭の頁にある「100万人の人が、そのねこが しんだときに なきました。 ねこは、1回も なきませんでした。」の部分に象徴されています。 多くの人は、愛されても愛するものがなかったから自身の死を嘆き悲しむことがなかったと理解するわけです。それが愛する側に変わったので、嘆き悲しむことができて死ねたのだと理解していきます。 しかし、私は、愛される側と愛する側とが断絶していたお話と読み、それが後半は入れ替わっただけではないかと読むわけです。 最初のエピソードは、戦争好きな王様のネコだったときの話しです。このエピソードは、戦争批判の話しとなっています。愛するものをかごに閉じこめながら、それでも戦争にかり出しています。これが何を批判しているのかいくつか読めます。一つは、国民を愛していると言っているようですが、結局その愛するものを殺してしまうのが戦争で、王様の愛というのは危ないという読みです。そもそもそういうものが戦争だと言っていると読むことができます。 また、死を嘆き悲しみながらも、その死をもたらす戦争を止めることができない王様が描かれています。これも戦争を遂行する者たちへの批判として読めます。 こうした戦争がこのエピソードでは一つの主題となっていますが、同時に、この王様がネコを愛していたことも間違いないでしょう。しかし、ネコは、冒頭にあるように、「王様をきらいでした」。だから、この王様とネコの関係は互いに一方的な関係であったことは明白です。
以後のエピソードである船乗りの話も手品使いもどろぼうの頁も同じ構造となっています。個別にはそれぞれが何を批判しいているのかに違いはありますが、愛の関係が一方通行である点で共通しています。 おばあさんが飼い主の時は、悲劇的なことは起こりませんが、一日中抱かれているという悲劇であって、通じ合わない典型と読めます。とすればこれも一方通行の話しとなります。 小さい女の子のネコの時も、無邪気の悪によって死にますが、一方通行という点で変わりありません。ことにこの頁には大切な一文があります。「ねこは しぬのなんか へいきだったのです」。女の子は愛していたので泣きましたが、飼われてはいても、ねこは関わりを持っていなかったので平気だったわけです。平気で死ぬということは、愛されていた証明ではあっても、愛していた証明ではないことを確認して次に行きましょう。
この後、白いねこと出会うわけですが、その前提は大切です。これまでは、飼われた誰かのねこでした。この後からは、誰のねこでもない野良猫となります。自分を生きることになるわけです。 さて、自分を生きるとはこの場合なんでしょう?エピソードの連続から、誰かの所有物であったときには自分を生きていなかったし、従属して生きていたということです。従属させていたのは飼い主たちでした。過去は、主従の関係であったから自分を生きることができなかったということになります。それに対して、自分自身を生きることになったわけです。主従の関係とは違って、自分で選択的に生きることになったわけです。 そうなった時、最初は、他者と関わりを持たずに生きることが自分を生きることだと思い始めます。それが、「いまさらおっかしくって」という意味だと考えられます。 ところが、自分に従属してこない、自分とは無関係に生きる白いねこに出会い、一方通行でない関係に入ることにします。それが、「そばにいてもいいかい」というセリフです。白いねこの側からの積極的な理由は何も書かれていませんが、「ええ」と承諾を得ます。しかし、前に書いたように、白いねこにとっての理由は示されていません。それを明示するエピソードもありません。 この部分を表層で読むと、一方通行ではない愛し愛される関係へと入ったと読むことになります。その後の「白いねこ」の喉を鳴らすしぐさなども、相互的な愛の関係を象徴するものとして読むことを支持しているように思われます。多くの人はそう読んでいると推定されます。その後も子どもを二匹で育てていきますが、人間社会に置きなおすとそれだけで平和な関係と読むことはできないと思うのです。 そうだとすると、違った読みが浮かび上がってきます。 つまり、白いねこがしんだ後にとら猫のしていることは、出だしの各エピソードの状況と実はよく似ていることです。死を嘆き悲しむわけです。しかし、白いねこにとって、とら猫はなんであったのかというと、子どもを産み育てたらしいことだけがわかるのみとなっています。これは相互的なのでしょうか。そこに疑問がどうしても残ります。だから、この文章のテーマは、「愛されるとは一方的な思いこみを背負わされ、残酷なことだ」と読むわけです。そういう読みも可能ではないでしょうか。 また、こんなことを持ち出したのは、愛するものを持ち、子どもを産み育てることが人生の目的だというような読み方を目にすると、それは違うだろうと思うからです。そういう選択を否定しているわけではないのですが、それしかないかのように言う読みを目にすると断固否定したくなるのです。人の生き方を狭く固定的に捉えすぎだと思うのです。 以上のような読みを試しにしてみました。 人生は人や物との関わりに意味があると思うのです。しかし、それを、特定の形態の場合にのみ承認しようとする文化観、人生観に出会うと冒険したくなるわけです。批判の論理を組み立てたくなるわけです。そう考えた方が人生の選択幅がずっと広がると思うのです。(2005、9,1)
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