以下は、学力低下を憂い、読み書きさんを中心とした学力徹底論を信奉する見地を批判すること、
さらに、その見地を含めて文科省の政策動向を読みまちがっていると思われる見地を批判するために
執筆した。
学習指導要領見直しの意味 (2003年11月19日原稿)
学校教育のキー・ワードは、「確かな学力」となった。これは、10月7日に発表
された中央教育審議会の答申「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・
改善方策について」において打ち出された言葉である。この見直し答申は、教科内容
の「はどめ規定」を見直したり、総合的な学習の時間の充実、習熟度別教育の推進な
どを打ち出したものである。これらを貫く考え方はまさに「確かな学力」にある。
人によっては、この言葉のイメージから「ゆとり教育」を見直し、「基礎学力」を
徹底する方向へ修正したのだと想像するだろう。実際、学力低下が叫ばれたのでそれ
に対応して文科省も公式に方針を変えたに違いない、などと理解する教育関係者もい
る。
しかし、その理解は正確ではない。いや、間違っているといってもいいだろう。見
直し答申によれば、「確かな学力」とは、「知識や技能はもちろんのこと、これに加
えて、学ぶ意欲や、自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、より
よく問題を解決する資質や能力等までを含めたもの」と定義されている。そして、
「確かな学力」は、学習指導要領が作成された時のスローガンであった「生きる力」
を知の側面からとらえたものだという。そうだとすると、百マス計算的な学習によっ
て知識や技能を詰め込む教育へと見直されたのではない。むしろ力点は、創造力や思
考力、問題解決力など、元々の教育課程審議会答申に示されていた「ゆとり教育」の
方針へと回帰したのである。ここで誤解してならないことは、子どもに甘い教育や教
育水準を下げることが「ゆとり教育」の本質ではないことである。それは、早くから
能力に応じて多様化された教育を組織することであった。だから、回帰した先は、ま
さに「ゆとり教育」の一形態なのである。
答申の作成側は、「確かな学力」という言葉の印象を利用したのでだろう。「学力
低下」という神話化された言説が蔓延し、学校でも授業時間を増やし、知識の記憶を
眼目とした授業へと激しく揺れ戻している中で、その圧力を考慮したのである。しか
し、旧い「基礎学力」の徹底という画一的な記憶中心の教育で、新規産業の開拓や独
創的な研究開発が求められる21世紀を見通した教育とはなりえない。記憶中心の授
業で身に付けたひからびた読書算程度の力で、働いていくことは難しい。グローバル
化の中、異なる価値観を持つ人々と共に生きていくことも難しい。そこで、実際には
学習意欲、思考力や創造力を重視した内実を持つ「確かな学力」へと言葉を生み変え
たのではないだろうか。
実際、答申は知識の記憶を否定はしないが、思考力・判断力・学習意欲を高めるこ
とを強調している。だから、「確かな学力」を形成する具体策として、学習指導要領
を「最低基準」だといい、そこに示されていない内容も教えることができるように
「はどめ規定」を改訂したのである。教育水準の低下を見直して「はどめ規定」を改
訂したのではない。習熟度別教育の推進が具体策だが、その場合に「できる」グルー
プの教育水準を高める障害とならないように「はどめ規定」を改訂したのである。
「確かな学力」の中心は、「基礎学力」の徹底ではないのである。
はっきりしてくるのは、形成される「確かな学力」が、子どもによって異なること
だ。言葉は同じでも処遇は異なる。最低基準の知識を反復記憶する「補充的な学習」
で終える者と、「発展的な学習」によって思考力・創造力などが期待される者とに分
けられている。「ゆとりの教育」の本来のねらいであった習熟度別という名の能力別
教育を早期から導入し、「確かな学力」の教育を数値で評価するという単純で危険な
方針となったのである。
だが、この見直しが前提にしている考え方は実証されていない。小学校1年生から
子どもの能力を判断することは不可能であり、教育の権利保障の観点からも適切でな
い。さらに、習熟度別に学ぶと学習効果が高いという前提も実証されてはいない。こ
の間に宣伝されている調査は、誘導的質問を含む意識調査であって、学級規模や教育
方法を統制した信頼できる調査とは言えない。思考力などの力が世界一とされるフィ
ンランドでは能力別教育を行ってはいないという。むしろ、異なる認識、異なる考え
方をする人々の中で対話的・活動的に学ぶことが推進されている。とすれば、「個に
応じた指導」を実証されたことのない習熟度別教育は間違いである。むしろ、個性が
発揮されるのは共同活動の中である。とすると、記憶中心の「基礎学力の徹底」や能
力主義の多様化という「ゆとり教育」でもない道、異質共同の対話と活動的学びを重
視した教育こそが求められる。個々人の存在が意味を持ち、互いの認識の違いが交流
される学校であってこそ意欲も諸能力も育つ。