学力問題と授業
学力低下論が現場を席巻した結果、学校は授業をする場所ではなくなった。ド
リルと忍耐によって受験準備をする場所となった。学力低下論は、その事実問題
の不確かさにもかかわらず、世間を席巻し、教師をもその担い手にしてしまった。
その結果は、考えるよりも記憶するための教育にしてしまった。
しかし、他方で学校の中に構築されているのは、多元的能力主義の推進である。
これこそほんとうは、「ゆとり教育」であった。「ゆとり教育」とは教えない教
育ではなく、多元的能力主義だと以前から指摘していたことが現実となった。す
なわち、習熟度別教育の推進であり、小学校期からの多様なコースの設定である。
ほとんどの学校がこれを実施している。
他方、習熟度別教育の推進を合法化し、教育の方法を統制する役割を担って変
えられたのが、学習指導要領であり、その最低基準化である。
最低基準化は、二つの意味がある。一つは最低限という意味であり、二つには
基準以上を教えるということである。最低限を設定して、子どもによってそれ以
上も教えるという構想なわけである。こうして能力主義的多様化は貫徹し、本来
の意味の「ゆとり教育」はできあがった。この考え方の合理性を示す根拠は何も
ない。
そうであるにもかかわらず、教科教育研究者も教師も、何が何故に最低基準た
る「基礎・基本」なのかを議論しない。学習指導要領に書いてあるからとしか読
みとれない。同様に、「発展問題」「補充問題」という言葉も頻繁に使われてい
るが、それが何故に「発展」や「補充」なのかは議論しない。これは、正しい意
味で、「思考停止」と呼ぶしかない。最近、この思考停止を問題化した文章をい
くつか目にするようになったのは、朗報なのか、それとも事態の深刻さを示して
いるのかわからないが、ここを越えていきたいものである。
さて、こうした動向に向かい合う実践は、以下の方向ではないか。
1)できるよりわかる
2)わかるよりも個人的・社会的意味に基づく学び
例えば、数学教室5月号は、かけ算のすべてという特集をしているが、その内容
的分析を示しつつ、佐賀の吉田修は「算数を通して社会を見る授業を」と主張し
ている。こうした方向が2)の実践方向である。
子どもは何を学びたがっているかを見ないで、教科教育実践は今ありえない。
そう思う。着地への圧力に抗して。(2004.6.23)