|
税源の地方移譲と引き替えに国庫補助金の削減を進める小泉内閣と、これに必ずしも賛成できない全国知事会が対立していた。知事会内部でも対立があった。その一つが義務教育費国庫負担金をめぐる攻防である。当面中学校教員の給与補助を削減だが、翌年は小学校が予定されている。この問題自体は、地域間格差を広げ、教育環境の低下を確実にもたらすひどい方針である。
これに反対と報道されていたのが、タカ派の石原や愛媛県の加戸知事らである。彼らは、義務教育の「国の責任」ということを理由に挙げて反対していた。最後は、彼らも他の問題との関わりで賛成に回ってしまったが、最近頻繁に語られる「国の責任」論についても批判が必要だ。
国の責任をめぐる立場と意見の違いを並べると次のようになるだろう。
1)政府・財務省は、財政については「国の責任」を放棄し、その他の教育統制については国家管理に。
2)文科省は、財政を放棄したくないが、国家が教育を管理する仕組みを作りたい。
3)タカ派の知事は、できれば財政も含めて義務教育全体を「国の責任」としたい。
4)財政については国の負担維持。教育課程等については国家から距離をとる立場。
私はおよそ4)の立場に含まれるわけだが、その中身について個人・団体間で意見が一致しているわけではない。今その一致を求めようとは思わないが、「国の責任」論の危険性を短く指摘しておきたい。文科省は6・3制を市町村の判断で変えられるようにする義務教育の改革案を正式に発表した。
http://www.mext.go.jp/b_menu/soshiki/daijin/04081001.htm
ここでも、義務教育は国の責任ということが強調されている。これは、直接には、義務教育費国庫負担制度の維持を滲ませ、地方にゆだねたい小泉や財務省の方向に反発している側面をいくらか持っている。小泉政権と文科省がまったく一緒というわけではない。しかしながら、「国の責任」という点では、3者が同じなのである。財政を国の責任の範囲内に含めるか否かの違いなのである。
確かに、義務教育の義務の意味の一つは行政の義務である。しかし、それは、義務教育の一切を行政に委ねるものではない。にもかかわらず、彼らは「国の責任」を強調することで、教育の権利主体たる保護者ならびに子どもの声に耳を傾けず、教師の声も聞かずに、独占的に決定すると言っているわけである。
上記サイトの文書の中で、「国民に共通に必要とされる確かな学力、豊かな心、健やかな体を養うという義務教育の役割を再確認し、学校教育法や学習指導要領を見直し、義務教育の9年間で子どもたちが身に付けるべき資質・能力の最終の到達目標を明確に設定する
。」といっている。
これは、義務教育で子どもが身につけるべき資質・能力の最終到達目標を行政機関たる国家が決定すると明言している文書である。その恐ろしさは、国家による教育内容の決定という点にあり、国家による人間像の策定という点にある。本来、教育の権利は、市民・「国民」にある。先の明言は、国家による人の精神・身体への一面的暴力となるだろう。国家レベルの学習指導要領に大綱的性格のものをつくる必要はある。だが、これを行政機関が一方的につくることとはまったく別である。今日の状況は、大綱的な性格のものに止まらず、日の君問題にすでに典型的なように、思想・信条の侵害が確実視される。国の責任は別にある。財源をきちんと確保し、権利主体の声が届く仕組みをつくることであり、教師の専門性を正当に位置づけることである。
(この文書は、あいち民研通信82号に掲載した文書を改訂したものである。2004.10.04)
|