|
クレイマーと学校の責任 (生活指導2004年12月号所収の改訂版)
十二月は、成績や進路をめぐって、保護者と接触の多い月である。だから、保護者とどのような対話をしたらいいのかとりわけ思案する月でもある。最近では、自己責任とか、説明責任という言葉が学校内でも頻々と使用され、保護者に「キチン」と説明できるようにと、各種書類を整備し、成績の付け方についてもその基準を「明確」にした文書を備えるようになった。これらの基準に準拠して、保護者と対応するように言われる。 ところが、容易に説明できるようになったかというと、実際にはそんなことはない。むしろ、学校や教師と保護者・地域住民とのトラブルは頻発しており、対話が一層困難になってきている事態も見られる。互いに不信の念を募らせてしまうこともしばしばである。 そうなる学校側の原因の一つは、政策担当者が企業でも必ずしもうまくいっていない手法を教育に導入し、学校目標の数値化だとか、実態としては相対評価のような絶対評価などを持ち込んだことにある。強引に持ち込んだために、形だけ整えた「説明」や「目標」・「基準」とならざるを得ず、実際には曖昧であったり、逆に、奇妙に具体的すぎて融通が利かないものとなっていることもある。 こうした文書を持って教師が保護者に向かい合うと、一方的に書類の説明に終始し、学校側の方針を語るだけとなりがちである。二つには、教育と家庭の国家管理が推し進められているために、「学習指導要領で決まっている」あるいは「義務教育は国家の責任」という言い方を通じて、教育の内容について真摯に対話しようとしない。 学校評議員制度といっても一部の意見を形式的に聞くに留まり、逆に「家庭」の責任を言い立てる所もある。これでは不信を生むことにならざるを得ない。 他方、保護者の側に問題がないかというとそんなことはない。商品について法外な文句を言ってくる人のことを「クレイマー」と呼ぶそうだが(香山リカの『<私>の愛国心』ちくま新書、参照)、教育・学校についても同じ傾向がある。苦情を言われて当然という問題を学校が抱えていないことはない。しかし、あまりに非常識な苦情が持ち込まれることもある。 クレイマーについて、香山の特徴付けによれば、悪いのは相手で自分は被害者という前提から主張し、「自分以外はバカと決めつけることで、自分はバカでないと自己確認する」傾向があるという。しかし、そうなるのは、勝ち組と負け組にいつも分類される不安の中にいて、自己を守る手法として身につけていったものだとも述べている。共感の眼差しを持つ香山と違って、棋士の教育委員の中には母親の言うことは聞くなと言って歩いている者がいるが、一方が他方を制圧するやり方では何も解決しないことは世の常識に属する。したがって、互いが相手をクレイマーとレッテル貼りを続けても意味がない。 そうではなくて、教育の道理に即して不当な要求を拒否することも必要だが、仮に クレイマーであったとしても困った人という見方を一旦やめて、不安の中に暮らしているのではないかという想像力を働かせることが必要である。別の困難・状況を抱えているかもしれない。共感できる点を相互に発見していかなければおそらく対話は成立しない。クレイマーと決めつけることに意義はなく、対話を成立させていくことが課題だからである。 学校全体の方針と保護者の期待とが矛盾する場合、間で困るのが教師である。しかも、保護者の主張に理がある場合に悩む教師も多い。 この場合の第一原則は、一人で抱え込まず、教師集団の前に問題を投げかけることである。 第二原則は、当面の妥協的な最善の具体策を互いに確認しあうことである。これがその場しのぎのご都合主義に陥らないためには、公的な確認を担保することが不可欠である。その場しのぎを続けるとトラブルは泥沼に陥る。 第三原則は、学校のシステムにかかわる場合には改革の戦略を共に考える見地に立つことである。システムは簡単には変わらない。長期展望が必要である。 こうして見てくると、学校にとって重要なことは、説明責任であるよりも、「聞くこと」なのではないだろうか。誰が誰の声を聞いたかが、プロ野球労働争議の勝敗を決したのではないだろうか。 |