神仏から家族までー教える内容の政治性
今年の夏は、来年度からの教科書を決める夏だった。二つの地区といくつかの
県立学校私学で扶桑社の中学校社会科教科書が採択された。この会社の教科書
は、突出して過去の戦争肯定の論調で、日本とその軍隊の美化を一方的に宣伝す
る構成となっていた。だから、これを採択するということは、諸外国とりわけ日
本が侵略した国々の人々にとっても認めがたい行為であった。また、今後日本が
再び戦争をする国家になるための備えとしての教科書となることを避けたいと思
う人にとっても許しがたいものであった。
だが、この教科書採択の攻防は、さらに広がりを持った問題である。
それは、教える内容の持つ政治性ということだ。扶桑社ばかりがひどいわけで
はない。そこそこに採択されている会社の家族記述は、「家族は最も身近な社会
集団であり、人間形成の場、いこいと休息の場、消費生活の場、養育・扶養・介
護の場などのはたらきがあります。」となっている。この記述を当然だと思う人
も多いのかもしれない。しかし、当然だろうか。例えば、家族が老親を介護して
いなかった場合、これは家族の機能を果たしていないと見なすことになる。市場
化された介護サービスを利用するのは、その責任を金で買っていることになり、
公的な介護はそうした家族の不在をやむを得ずカバーしている慈善事業となって
しまう。権利としての福祉という見方さえ危うくする記述だ。
先の教科書記述は、家族の機能を固定的に定め、社会集団の基本単位として位
置づけることになっている。それは、今日の市場化を容認しつつ、他方で保守的
家族像を再生産することになっている。しかし、本当は、多様な暮らしが広まっ
ているのが実態である。そうした暮らしを認めない立場に教科書はなっている。
そこに教える内容をめぐる政治がある。これは一例に過ぎない。
私は、教えている内容の中にこうした政治性があることに敏感になっていく必
要があると考える。日常の何気ない言葉の中にも、例えば、仏教徒の子どもに
「天国から見守っている」と言ってしまうようなことの中にも、そこには政治が
ある。いま、とりわけ、保守と新保守の側からは、愛国心と自己責任をめぐるイ
デオロギーの注入は激しいものがある。自由を互いにつくる学校と教室であって
ほしいものである。(2005.9.2)あいち民研通信89号