学習指導要領予想図2

 今の時点で次期の学習指導要領の特徴となる点を二点指摘しておく。またその前に、現在話題の未履修問題の本質について論及しておきたい。

1、世界史未履修の基本問題

 富山で始まった世界史の未履修問題の本質は、受験の弊害とか県教育委員会の無能といった問題ではない。まして国家による学校の統制で決着させる問題ではない。

 最大の問題は、教養の問題なのである。高校卒業時に期待される教養の水準あるいはその内容をどこに置くかという問題である。多くの点で成人と見なされる高校卒業時点を一人前の市民として捉えたときに、その時点におけるこの社会を構成し生きていくために共通に必要な水準と内容をどこに求めるかという問題なのである。

 世界史を履修させなかった教育委員会・学校と教師、情報や家庭科・芸術教科などを飛ばした学校と教師は、それらを教養となるべきものと考えていなかったのである。代わりに受験に必要な時間にしていたのである。教養を育てるという発想がなかったのである。これは、受験圧力が学校評価の導入などによって強化された結果とはいえ、そこにだけ責任をきすことはできない。高校を中心とした教育団体の一部は「18歳を市民に」と取り組んできたが、その研究に学んでおく必要がある。

 これは、高校に限らない。中学校でも学習指導要領にある毛筆の飛ばしが報道されているが、それぞれの学校階梯で何を教えることこそ必要なのか、これを18歳を見通して、つまり、市民としての教養の中身を育てる過程という観点から考える必要がある。

 この問題は、もう一つ別の側面を浮かび上がらせている。学習指導要領を国家は法的拘束力のあるものと位置づけてきたが、文科省も飛ばしを知りながら放置してきたように、その教える内容は国家や行政が一方的に決定しても現実のものとならないということである。ナショナルカリキュラムだからといって、国家権力が一方的に決めても上手くいかないことを示した事例なのである。別の決め方が不可欠なことを示した。その意味で、力の弱い者にとっての希望ともなる事件だったのである。

2 愛国心の学習指導要領

 06年教基法案の行方にかかわらず、学習指導要領は間もなく改訂される。その特徴の第一は、愛国心に関連した部分が強化されることだ。実は、すでに学校教育法も現行学習指導要領も十二分に愛国心養成に傾斜した中身を持っているのだが、さらにそれが強化拡大されると推測される。例えば現在、学校教育法18条の小学校教育の目標の一つに「郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと」という条文がある。この部分は教基法案が通過すると改訂される可能性が高いのだが、上記のような記述程度であっても学習指導要領には国旗国歌の尊重強制が既にある。まして、法案通過をにらんだ次の学習指導要領は、いっそう愛国心養成に力を込めた中身となることが想定される。

 というのは、安倍や伊吹といった大臣がその方向を示唆しているからだ。だが、それだけでなく、中教審の議論にその新たな方向が示唆されてもいるからだ。

 中教審の学習指導要領に関わる各分科会の審議情報は7月時点までに留められているが、これは安倍内閣の発足並びに教育再生会議の議論そして教基法案の行方に配慮した結果であることは間違いない。そのために、実質的な改訂内容についての情報が少ない。だが、改訂の方向を示す資料も示されている。その一つが、「教育課程企画特別部会における審議に関する論点」という資料だ。そこでは、「豊かな心の育成は、すべての教育活動を通じて行われる必要があるが、特に、『道徳』、『特別活動』、『総合的な学習の時間』が中心となる。関連の教科を含めて、これら相互の関係を整理することで教育内容や教育方法の充実を図ることが適当ではないか」と改訂の方向が示され、「体験」と「実践」が強調されている。これは愛国心を直接に指したものではないが、「豊かな心」の部分を「愛国心」に置き換えると、道徳と特別活動と総合学習とが連携して、体験や実践的活動として進められていくと読まねばならない。精神訓話としてよりも感情を動員しやすい体験活動として組織されることを示唆するものである。これはたんなる置き換えではない。すでに、品川区の「市民科」では、そうした連携が始まっている。その構成は、しつけに傾斜した低学年の内容から始まって、高学年では「心のノート」的愛国心の涵養をめざした体験的な構成となっている。これが一つトレンドにされようとしている。

 さらに安倍内閣周辺スタッフの影響力が強化されているために、扶桑社の中学歴史のような社会科、その国語版・家庭科版などの登場を容易にする記述が予想される。その具体的現れへの事実に即した批判が求められることになるだろう。

 だが、仮に学習指導要領がそうなったとしても、教育活動は一切が古色蒼然とした内容となるわけではない。学習指導要領は、より上位の位置にある憲法との矛盾を拡大するからである。子どもの思想・信条の自由、個人として尊重されるなどの11条以下の各憲法的権利を擁護する課題が、学校と教師に他方で課せられることになるからである。この実践的地平を切り開いていかなければならない。

3,引き裂かれる学力観と目標設定

 中教審は、「人間力」のなかに「確かな学力」として、「子どもに基礎的・基本的な内容を確実に身に付けさせ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」という二つの性格のことなるものを入れ込んだ。両者は矛盾しないという議論もなされているが、そう簡単な話ではない。

 次期学習指導要領では、目標記述が到達目標を明確にする形で記述することになっている。すると、知識や技能をその形で記述することは、内容の善し悪しはともかく、ある程度はできる。こうした項目を定めて、文科省を頂点に点検管理し、その達成具合によって学校と教師を評価する手段にも使おうというわけだ。その結果は、知識と技能の注入という教育がいっそう出現することになるだろう。

 ところが、これを行えば行うほど、二つめの「主体的判断」「よりよく問題を解決する資質や能力」は形成されにくくなる。主体的に判断すれば、注入される知識の吟味をすることになるからだ。反対に、注入される知識を受容だけしたのでは、判断力が養成されないことも自明だからだ。判断力などは、経済界や世界の教育動向と重なることもあって、保守派もこれを無視することができない。

 この二つをともに満足させる目標記述と教育は、おそらく編み出されない。両者の寄せ集めとなる可能性が高い。つまり、こうして学力観と教育目標は、引き裂かれた形で登場する可能性が高い。

 すると何が起こるかというと、知識や技能として明確化された内容は効率的に注入する教育が評価と連動しながら展開され、それが困難なことがらについては「効果がある」と信じられた体験活動がパッケージとして配布されることになる。いま、文科省サイドの実践研究の一つの動向は、こうしたパッケージづくりに力が注がれている。

 したがって、知識や技能の注入競争にはまるのではなくて、それらが教えるに値するか、いかに「わかる」ものとするのかを、批判的に吟味にかけることが第一に必要ということになる。また、体験のパッケージ化に対抗するには、子どものおかれた状況の個別性・固有性にそくした取り組みを進めることが求められることになるだろう。いっそうの統制に対して、ささやかに見えることであったとしてもいっそうの創造で対抗することが必要なのである。学習指導要領は間もなく変えられる。