格差教育宣言の一次報告を読む

                             

1.学校と教育課程に関する一次報告の特質

 教育再生会議第一次報告は、学校の教育内容に関わること、教員に関わること、教育委員会や地域全体に関わることの4つからなっています。私は、教育内容に関わることを中心に報告いたしました。その報告の中心を簡潔に記しておきます。

 教育再生会議と第一次報告の基本問題は、きちんとした議論を積み重ねていないことにあります。いろんな分野の人を集めましたが、なにぶん教育に関する知見にかける人が大多数です。教育に関わっている人もいますが、視野の狭い人だけを集め、一般データは文科省の事務局に依存して、主観を述べ合って、最後は安倍の意向にそってとりまとめられています。教育は重要と言われながら、いつも政治的に利用されてきましたが、今回もその蹉跌を踏むことになりそうです。

 第一報告の基本的論調は、強制的・権威主義的なものです。これは想定されたとおりですが、特徴の一つです。「我が国が永年培ってきた倫理観や規範意識を子供たちが確実に身に付け、しっかりとした学力と人格を磨き、幅広い人間性と創造性、健やかな心身をもって、21世紀の世界に大きく羽ばたいて欲しいと願っています。」

 倫理観や規範意識が確固と昔から存在していたかのようです。「確実に」「しっかり」「絶対に」などと言葉だけは断固とした表現が好きなようです。これは、言葉だけでなく、復古的色彩の強い「親学」やいじめ対策に見られるように問題のある子と見なされると徹底的に隔離し排除する動向と連動しています。

 もう一つの特質は、格差のある教育を新に構築しようとしていることです。

 「教育は保護者の経済力にかかわらず、機会の平等が保証されるべきであり、絶対に教育格差を生み出してはいけません。全ての子供たちが学校で、特に公立学校できちんと良い教育が受けられること。」

 一見、平等を追求している表現のように見えますが、注意深く読むとまったく違うことがわかります。保護者の経済力に関わらず保証されるのは、「機会の平等」だけです。機会の平等は今でも形式的には存在しています。誰でも義務教育として学校に行くことは保証されています。しかし、いま、形式的な機会の平等だけで、実際に十分な教育を受けられるわけではありません。経済的・文化的に恵まれているかどうかで、大きな格差が生まれることは昔から知られている事実です。実質的な平等は放棄されているわけです。

 にもかかわらず、第一次報告が「機会の平等」を持ち出したのは、国家が教育を支配するのだと宣言したかったことがあります。しかし、それだけでなく、格差のある教育=不平等な教育=能力主義教育の拡大をさらに打ち出したかったからです。今よりも、能力主義の教育を拡大し、その多様化されたコースを選べるようにするということです。その選択の機会だけは、誰にでも保証するようにしたいということです。

 しかし、考えてみてください。多様化されたコースを誰でも自由に選べるかというと、そうではありません。実際にはほとんどの人は選べないのです。選んだようで、実際には、「能力」あるいは「学力」という指標でコースが押しつけられるわけです。ともかく、こうした能力主義教育を拡大しようというのが第一報告の特質なのです。

2.具体策の欠陥

 主な具体策は以下です。「基礎学力強化プログラム」と呼び、授業時数の10%増加、基礎・基本の反復・徹底と応用力の育成、薄すぎる教科書の改善を打ち出しています。

 「ゆとり教育を見直し」ますと言っていますが、実は、これは、全くのでたらめです。「ゆとり教育」というのは教育の能力主義的な多様化のことでした。子どもと保護者に多様化された教育コースを選ばせることでした。これを実現する方策の一つとして教育内容の削減と授業時間数の削減が行われただけです。共通に学ぶ部分を減らさない限り多様な教育コースを公立学校で実現できないからです。時間も減らさない限り、お金のある人が塾などの多様な教育を豊富に受けることができないからでした。

 そうであったにもかかわらず、強制的に学ばせる時間数だけを増やして、それをもって「ゆとり教育の見直し」と言っています。しかし、実際に行おうとしているのは、能力別の教育の拡大です。

 その手始めが、教科書を厚くするという方針です。これも教える内容が増えると理解すると間違いです。「文部科学省は、内容の薄すぎる教科書を改め、発展的学習と補充的学習を充実させるとともに、上記の学習指導要領の改訂に確実に対応した教科書にする。」と書いています。だから、補充コース部分の教科書を利用する子どもと、発展コース部分の教科書も利用する子どもとが生まれるわけです。充実した教科書をどの子も活用できるようにするわけではありません。これは、教科書が能力別に作成されるのと同じことなわけです。これは教科書だけでなく、効果がないとまで言われる習熟度別学習をいっそう拡大するとまで言っていますから、明らかに能力主義教育の拡大というしかありません。「ゆとり教育」の見直しとは、子どもの拘束時間の拡大と勉強の強制であって、本来の意味の多元的能力主義の推進です。

 他方、学習指導要領に到達すべき目標を明示するといっています。これも大問題です。目標の明示は、教える内容の統制につながるでしょうし、子どもの「学力」判定の基準として作用することでしょう。新学力テストのための対策が始まっていると集会で報告されましたが、授業がますます固定化された目標を達成するための暗記を旨としたものになるでしょう。そして、テスト結果によって子どもも教師も評定されることになるわけです。

 国家・地方権力による教育統制ではなくて、教育関係者の参加に開かれた学校と教育が必要です。自らの世界が捉え直される教育活動をつくることが必要なのだと思います。 (2007.4.1) あいち民研通信99号所収