2008年5月14日 (水)
Magazine533:似非科学入門 |
池内了、岩波書店、700円と税金。 占いや超能力といって人をだます手口が入り口。中心は、科学の装いを凝らして人をだます手口をいっぱい並べた本。例えば、マイナスイオン、ゲルマニュウム、磁気効果など、それがどれほど効果があるのか全く説明になっていないのに、効果があるかのように人をだます手口、統計や確率によるウソなど、その手口が解説されている。嵌りやすい人には難しくなくてお手頃だと思う。 ただ、私の観点からすると、二つほどこの本の主張には疑義がある。一つは社会構成主義の評価だ。著者は宇宙物理学が専門と言うことだから仕方ないのかもしれないが、人間の認識や信念もしくは意識の世界のつくられ方における社会構成主義の有用性も否定してしまっている。客観的現実についても言語的に構築されているという一部の論者の指摘への近代主義的反発からだろうけれど、それはやはり短慮かなと思う。 もう一つは、基礎的な学力があって初めてなぜと問う力が積み上がっていく、という主張は一般的には成立しないけど、この分野の人の多くはそう信じている。池内氏は、その主張の直前まで、疑うことを小さい時から大事にしなさいという。そのことと、基礎学力があって初めて問う力が育つというのは、矛盾してしまう。専門家としての力量という特殊形態を一般の人に当てはめてしまうという間違いをおかしているように見えた。こういう一部を全体に拡大することによる間違いというのは、誰にでもあるから致し方ないとは思う。 そうした瑕疵はあるけれど、騙しの手口とその論法の多くは妥当性を持った指摘だと思う。(2008.05.13) |
Magazine532:不可能性の時代 |
大澤真幸、岩波書店、780円と税金。 60年代頃を「理想の時代」、その後の70年代から90年代初頭までを「虚構の時代」、そしてその後を「現実への逃避の時代」という区分をする。冒頭の理想の時代の話しは、よくある話しのつかみ方であまり面白くはないが、虚構の時代以後の断片には読んでいてつかみ方として面白い指摘がいくつもある。 神戸の事件の少年にまつわるつかみ方。「透明な自分」について暴力を通過させる身体としての透明ではなくて、まなざされることを希求する身体としての透明というつかみ方を提出している。 話は飛んで、リスク社会論批判も興味深い。リスク社会論の処方箋自身がリスクとなるというのは、教育学に即して考えるとよくわかる。 ただ、大澤という人は、仮説をつくることに長けているとおもうが、事実との照応という点では危ういかもしれない。意外に常識(アカデミックな議論の周辺で常識とされている言説をさし、世間一般の常識という意味ではない)に乗っかっている所があり、その最新の合意状況としては論証されているにもかかわらず、ちょっと前の言説が採用されている所があって気になった。(2008.05.10) |
Magazine531:悪の知性 |
ジャン・ボードリヤール、NTT出版、2400円と税金。 現実の記号化に関わる議論を続けたボードリヤールの晩年の書。私には、冒頭の文章は何を言っているのか意味不明だった。それは、言葉が現実の何を指し示すのかその手がかりになるような言葉がないから。しかし、中盤から具体的な事柄に関わって、といっても小説だったり象徴だったりするが、いくらか理解可能となった。(誤読の体系もしれないが) 現実の記号化、シミュラークルについて議論していたかつてのつかみ方に対して、本書では、その記号化されたものそれ自体が失われているという話をしているらしい。記号化によって、現実の一面が捨象されて別の記号化された別の実態へと転換されて、それがあたかも現実であるかのように現前している世界だとすると、そこにあるのは記号ということになるわけだ。だが、記号によって失われた現実は、それでも記号に代理されて存在している。ところがその記号そのものが失われていくと現実はどうなるかという話をしているらしい。この議論に分け入ってくるのは、和解不可能な他者。現実であれ、その記号であれ、共訳できることが前提になっているわけだが、それができないとなると、現実も記号も再現実化されるんじゃないかということらしい。そういう議論らしいが、断定はできない。どうもフランス系の言葉の使用法はよくわからない。とりあえず、自足的世界にいるとダメになる話しと俗っぽく受け取っておくことにしておきたい。(2008.05.05) |
Magazine530:反貧困 |
湯浅誠、岩波書店、740円と税金。 「もやい」の事務局長が若者を中心とした貧困問題の声を届けるために書いた本。今日は5月3日で、とりわけ関係のがあるのは憲法25条に関わる話しが本書では登場する。 本書は、何よりも貧困の第一次データにあたる「もやい」の活動でであった声が収められている。そればかりではなく、その声を社会の中に位置づけて、現在の貧困問題がどのような問題であるのかを示している。とりわけ、自己責任論の誤りを徹底的に批判している。その批判の議論にセンの議論をベースに使いながら、数値も含めて展開している。 また、貧困状態に陥る人たちが5つの排除を受けているという指摘は、とりわけ重要なものだと思う。というのは、その5つの排除の先頭に、教育課程からの排除という指摘があるからだ。他の4つを先に記しておけば、企業福祉からの排除、家族福祉からの排除、公的福祉からの排除、自分自身からの排除だ。 教育課程からの排除という場合、本書は事例的・断片的に指摘しているだけだが、それらをつなぎ合わせると以下のようになると思われる。一つは、進学・就学が難しいということだ。端的に言えば、学費が払えないことだ。二つには、貧困の世代間連鎖と関わって家族からの虐待、十分な養育を受けられないことが教育に関わっていることだ。三つには、学校生活が不利な条件を抱えた子どもに対して配慮に欠けていることだ。四つには、貧困な状態に陥った時に必要な知識と行動力を教えていないことだ。私は、本書に登場する何人かの記述からそのように整理できると思った。 これらのいくつかは、すでに教育学研究の中で指摘されてきた事柄だが、対応や処方箋を社会的に提出できていない。課題として、問題意識として引き取っていきたいと思った。 (2008.05.03) |