2004年5月の文書の一部


Magazine20:怒りの方法の紹介
すこしだけ怒りの方法を例示しておきます。「人間関係を築き、つなぐためにするもの」が怒りで、こ
れを断ち切るためのものが「きれる 」だといいます。
そして、効果的に怒る方法がまず10個。感情を簡単な言葉にする。同じ言葉を繰り返す。話のポイン
トは具体的な指摘。目標を決める(怒りをどこで収めるのかということ)。などが挙げられています。
逆に、怒りをぶつけられてきたときのことも書いています。
危機的なときは逃げる。大きい声で一言(やめて、など)。連続して言う。などいくつも書いてありま
す。すぐに読み終わりました。3時間。(2004.5.27)

Magazine19:怒りと快楽と泣き
2冊対照的な本を買った。1冊は、堀内圭子『<快楽消費>する社会』中公新書(これは15%引きだ
った。ラッキー)、辛淑玉『怒りの方法』です。対照的となったのは偶然。まだごく一部を読んだだけで
す。(27日には終わりました。)
どっちが面白いかといえば、もうはっきりしてます。『怒りの方法』に決まってます。ストレスのたま
っている人は、読むだけでストレス解消になります(それでも、現代社会の一断面の研究には快楽研究も
必要ということで堀内本も買いました。)。怒りをうちに持っていて、それをどう表現していいかわから
ない時には、参考になりそうな本です。
他方、怒るとすっきりする人もいれば、「泣く」とすっきりする人もいるそうです。それで、『世界の
中心で愛を・・・」のような本や映画がそれなりに流行るのかもしれません。そういう道もあるでしょう。
しかし、怒り・泣く対象についての吟味もしないと、周りに伝わらない。怒る価値があるかないか、泣
く価値があるかないか検討することも大切そうです。泣いても怒ってもエネルギーを使いそうですから、
有意義であってほしい(少なくとも主観的には)。(2004.5.26)


Magazine18:興味
小学校4年生、丸と円の学習。単元の1時間目の指導案に、コマをつくって回してみて、どれが一番よ
く回るかを授業で行うというのがあります。丸や円について興味を持ってもらうことが一番のねらいだ。
つくるコマは、円のものが二つに、楕円が一つ。円の一つは中心に軸をおいたもので、もう一つは軸を
中心からずらしたもの。それで、円で中心に軸があるものがよく回るんじゃないかと推測し、試してみよ
うというわけです。そういう授業構想があります。

わたしは、基本は、円と丸の違いを追求することから初めていいように思うのです。コマの回り方とい
う点では現象的な違いが出るでしょう。しかし、その原因を説明するのは難しい。コマをつくることやコ
マを回すことだけに興味が集中する可能性が高い。円とは何か、丸とは何かという概念形成からははずれ
そうです。
興味を呼び起こすことは重要ですが、なんだか遠回りすぎるように思われるのです。
今日学生に聞いてみたところ、円と丸を言葉として同じに考えている人もいて、「数学的にいうと」と
強調して初めて自覚的に区別していました。だから、丸という日常的概念と、数学的概念としての円とを
区別できるようにすることがまず大切ではないかと思う。その意味では、円ではない丸を集めるとか(厳
密な意味で円を教室空間から集めることはほとんど不可能だと思いますが)行う方がいいように思われま
す。
試しに、いくつか本を探してみましたが、一つは折り紙で多角形を次第に増やしていく。すると、限り
なく円に近づくというものを授業にしているもの。もう一つは、丸と球を比較考察しているものがありま
した。前者は、当面は円周率に連なり、やがて微分や積分の考え方へと連なるもので、ちと高度。後者は、
見え方の転換を伴う実践のようでした。

どちらであれ、子どもに育てる興味という点で、プラグマチックな興味(つまり何かができるとか、つ
くらないといけないといったもの)を基本に据えるのか、発見的興味(そうだったのか!というような興
味)をもう少し中心にした方がいいのではないかと思われます。どうでしょうか。
(2004.5.25)

Magazine15:すおぺいSuopei
通信が昨日届いた。中国人戦争被害者の要求を支える会の通信である。新潟地裁で強制連行・強制労働
の国と企業の責任を認定した判決に関する記事がその主要な内容であった。
国と企業は安全配慮義務違反があり、強制連行について国に責任があり、時効は成立しないという判決
であった。これまでにない判決である。
この通信の短いコラム欄に「空気を読む」という記事があった。イラク人質事件に関わって国家と個人
との関係を考えるきっかけとなった、とある。そして、国家は国民を守るためにあると言ってきたが、守
らないこともあることがはっきりした、と書いてある。
まあそうなのだが、これは以前からわかっていたことのように思われる。戦争中の時だけでなく、公害
問題でも、薬害問題でもずっとそうだった。国家を鍛え直すと国民を守るようになるのだろうか。
(2004.5.21)

Magazine14:全学集会と大学祭
昨日は、全学集会であった。これは、本学の全構成員が参加して、本学のあり方、課題を議論する場と
して今年から設置された。今までは、教授会で、発言機会があったのは教官だけだった。これを、事務職
員、付属学校教師、大学院生、学部生に拡大したのである。大学の学校協議会的性格の集会みたいなもの
である。
昨日は、学長ほか、大学教官はその構成員の4割、職員も4割ぐらい、付属学校教師はほぼ皆無、大学
院・学部生は0.6パーセントぐらいが参加していた。大学院生は事前にアンケートをとってその結果を
報告するなどわずかにいい発言もあった。しかし、どうしても議論に至らない。
異なる立場、職種のものが集まって議論する場は、必要だ。しかし、現在の仕組みではうまくいかない
ことも明瞭。なにより、極端に少ない学生の参加がどうなるか、また、事務職員は誰も発言しなかったが、
この立場によっては発言しにくいという問題をどうするのか、さらにまた、議論の結果を学長が勝手に今
後に活かしたいなどと言うしかない仕組みを変えないといけないだろうと思う。
あいにく雨っぽいようですが、他方で大学祭が始まりました。4年生もスポーツ大会には参加するよう
です。最近は、4年生も参加するのかとびっくりしてます。このところずっと、これに参加するのは、1
/2年生だとばかり思っていたのです。バスの中の会話でも4年生がクレープを売る話をしてました。
さらに、最近は、4年生もクラブやサークルを引退しない学生がかなりいることがわかってきました。
この変化はなんなんだろう。(2004.5.20)

Magazine13:挑発する知だったか
カンサンジュンと宮台の「挑発する知」を読んだ。本の装丁は趣味でなかった。中身は、そこそこ楽し
めた。カン氏の論文はかなり読んでいるので、新味はさほどなかったが、それほど読んでない分、宮台氏
の議論を面白く読んだ。
もちろん、全体としては宮台氏の主張に賛同しない。国家を操縦しようという主張には国民国家を超え
ない、あるいはそれを前提にした議論としか映らないのでその先の社会論との関係を示してもらえないと
賛同できない。
ただ、ネオコンの少数者の自由と保護を主張するカルチュラル・プルーラリスト(文化的多様主義者)
は、多様な表層を侵害するものは徹底的に排除するというつかみ方は興味深いもの。つまり、デズニーラ
ンドにはいろんなアトラクションがあってどこにいてもいいが、それを裏で支える仕組みはあって、その
表の仕組みを壊すものは許さないということだといってます。194ページあたりです。
裏で支える仕組み。これがくせ者ですね。表もデズニーのような世界でいいかどうか。
(2004.5.18)

Magazine11:同意と自己否定
この2号で「同意するということは自己の見解を否定すること」と述べた。これは、説明がいるようだ。
同意なんだから自己否定ということはないだろうという声が聞こえてくる。しかし、そうではない。
あり得べき自己の意見を捨て去って、他者の主張に賛同することが同意なのである。だから、否定する
のは、他者ではなく、自己なのである。だから、同意しておいて、自己の側から他者を位置づけるという
ことは原則的にはあり得ない。
(2004.5.17)

Magazine9:市場の道徳の続き
新自由主義も一定の道徳観を持っていることを前回示した。自分で目標を立て、自分で計画し、自分の
力を向上させるように生きなさいという道徳観なわけである。これは、現在の学習指導要領に示された人
間像と一致する。自らを律し、いつも前向きに頑張る志向は、高く評価される。
それとは違う志向は、市場から排除される。だから、「青少年が凶悪化した」と語られ、凶悪な青少年
には人権もないことにされ、「写真を公開するぞ」と脅す。やる気を見せない青少年ほど新自由主義者を
嘆かせる存在はない。さらに困ったことに、やる気を見せない青少年の間からファッションと歌の流行が
始まる点だ。それでも、これは、すぐに一方で市場に取り込む力を備えているので、決定的な危機とまで
は見ていないのかもしれない。だが、そこに生まれた気分と思想、生き方はやはり新自由主義や新保守主
義を脅かす。
ついでにいうと、教師バッシングも同じだろう。問題教師という報道を流し、厳しい統制に置く。昔な
らそこまで。管理教育でおしまいだった。だが、今は、さらに奮闘する教師へと駆り立てる。それが、
「生きる力」の教育だ。しかし、管理教育にならされた教育システムを自主性競争の教育に変えることは
そう簡単ではない。何たって、市場の動きに疎い世界でもあるからだ。自主性競争の教育、それがいいわ
けでもない。
いつかまたこの話題は続く。(2004.5.15)

Magazine8:市場の道徳
新自由主義は、市場万能主義であって、古くさい道徳を振り回さないものとおおむね理解されている。
何でもありこそ新自由主義だと理解されている。道徳を持ち出すのは、新保守主義の役割だと見なされて
いる。しかし、そうであるならば、もっと新自由主義と新保守主義は対立してもよさそうなものなのに、
それほどは対立しない。国家主義的な観点を確かに新保守主義は強調するが、新自由主義者の道徳とも一
致する点を持っているからではないかと思われる。
それは、新自由主義が成立するために必要な道徳の側面である。市場主義は、全員が何らかの競争に参
加することによって成立する。それに乗らない者がいると崩壊する。だから、みんなが競争に乗ってくる
という道徳を背景にもっている。もう少し具体的には、自己評価、自主性、意欲が強調される。その反対
の傾向はこき下ろされる。
上述の傾向を国家に向かって発揮してもらえれば新保守主義と両立する。企業活動に向ければ新自由主
義となる。この道徳は息苦しい。競争を背景に持っているからだ。(2004.5.14)

Magazine6:名付けについて
名前のないそらをみあげて・・・という歌が朝の連ドラの時に流れる。
今回のシリーズは私にとってはおもしろいというわけでない。ただ、この詩の見方は面白いなあとおもう。
世界中名前の付いてないものはないようにも思える。けれども、本当は名前の付いてないものの方が多いに
決まっている。名前が付いているのは、人間の知っている範囲のことに限られるから当然だ。
そう考えると、すでに名前が付いているものを変えていくという話をフレイレに引っかけて何度かするこ
とがあったが、そもそも名前のないものに名前を付けるということもあるし、名前のないままにしておこう
という選択もある。それもいい。
今日は、小室等の「人生を肯定するものそれが音楽」岩波新書を衝動買い。
(2004.5.12)

Magazine2:癒し系とは
癒し系は癒されたい系だと誰かが書いていた。だいたい、Magazinだって雑誌や倉庫という意味だ
けでなく、弾薬庫というような意味を持っている。雑誌を楽しもうとしたらそこは危険地帯だったわけであ
る。
癒しの言説は、そこにまやかしや策略が見えることも多い。すべて認めた発言をしているようで、いっさ
いが理解されてないこともしばしばだ。本質的には、いつも同意していないのである。
同意するということは自己の見解を否定することなのだが、癒し系の人の場合は、同意して他者を否定す
る。例えば、なんだかよくわからない枠組みに他者の意見を位置づけてしまうのである。こうして、「他者
の言ってることは私の言っていることと同じだ」などと世界を再配分してしまう。こうして配分する側に自
己を位置づけ続ける。これを暴力と呼ぶ。
したがって、癒し系は暴力系。(2004.5.7)

Magazine1:注解HPの趣旨
ホームページのタイトルが決まらない。暫定的な名づけである。英語のBe動詞であるamをここに使っ
ちゃまずいぞ、という人がいるかもしれない。しかし、amは、an demが元の形で、「〜の側」とか
「〜の上」という意味である。ネットの世界の中での子安であって、別の場所にいる時の私とは必ずしも同
じでないという意味を込めたつもりなわけである。
フランクフルトに初めて行ったとき、Frankfurt am Mainと付いていて、マイン河畔以
外にもフランクフルトがあることを初めて知ったわけである。それで、複数的なニュアンスを出せないかと
思った次第である。

プロフィールになぜHPを開設することにしたのか三つの理由を書いた。くだいて言うと、頼まれもしな
いのに言いたいことを言いたいということが一つ目。聞く声と届ける人を少し広げたいというのが二つ目。
三つ目の理由に続く文中に出てくる可能性への信頼とは、私にもできるだろうということである。

内容的な問題意識もある。ドグマを疑わない思考と志向にいくらか抗ってみたいのである。教育・社会・
文化に、何より人にそれは染みついている。私の中にも数多くの捉え返さねばならない「思いこみ」が詰め
込まれている。これを時に応じて読みかえ書き換えていく作業をして行きたいわけである。取り上げる話題
は、傾向を持ちながらも広がりのあるものにしたいものである。(2004.5.7)

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