ナショナリズムを越える市民へ (2004.3)
1 私は含まれているか
「日本、日本人」あるいは「国民」という言葉を多用する人には、次の問いに応えてみて
欲しいと思うことがよくあります。「何人の外国人を知っているのか?」「その国民の中に
私と私の意見は含まれているのか?」こんな問いです。
ごく少数の事例やマスコミによる情報操作によって、日本と外国、日本人と外国人という
区分をしていることが多いのではないでしょうか。そのような国家や国民に係わる「思いこ
み」をつくる教育を止めて、ナショナリズムを越えるような市民を育てる教育実践に取り組
んでみたいものです。
国家のことを中心・優先に社会や人間を考える見地をナショナリズム(国家主義)といい
ます。近年は、ナショナリズムを煽る主張がマスコミでもたくさん流されています。これは
、アメリカに従ってイラクに自衛隊を送り込むことを通じて、再び戦争を遂行する国家にし
たいという動きと繋がっています。同時に、グローバル化の中で、国家的一体感が失われる
ことを恐れる人たちや、日本文化というこれまでの「思いこみ」の存在によって利益を受け
ていた人たちの危機感がそこにあると思われます。昨年は、北朝鮮問題に絡めてナショナリ
ズムを煽る報道がたくさん流されました。今年は、アテネ・オリンピックもありますから、
スポーツを通じてナショナリズムを煽る報道が流されることでしょう。
2 愛国心だけがナショナリズムではない
教育は、ナショナリズムの主要な生産地の一つです。教育におけるナショナリズムという
と、日の丸・君が代の強制、日本の伝統文化を強調する「国際理解教育」、歴史教育や「こ
ころのノート」などを通じた愛国心の養成を思い浮かべるでしょう。確かに、それも事柄の
一つです。
しかし、それだけでなく、経団連「グローバル化時代の人材育成について」 2000年が端
的に示しているように、「基礎的能力を身に付けること」も「国民としての義務」とされて
います。実は、こうした考え方は、学校の創設以来続いています。近年では、現在のナショ
ナル・カリキュラムのスローガン=「生きる力」の教育がナショナリズムを特徴づけていま
す。すなわち、「学ぶ意欲や自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よ
りよく問題解決する資質や能力」を持ち、豊かな人間性と健康と体力を持った「たくましい
日本人」それが期待される国民であり、そのための教育はナショナリズムの現れなのです。
そのために、勉強ができないことも非難されるのかもしれません。
個々の教科の位置づけも内容構成も、ナショナリズムに拘束されたものです。そんな現状
から、多様なグループと個人に開かれた教育内容に変えていく必要があります。直接には
「国民」の枠外におかれている外国籍の人たちを排除しない教育に変える必要があります。
また、いろんなアイデンティティを持っている個人を、単一な「国民」に一元化してしまう
教育から解放していく必要があります。ナショナリズムを根底的に批判できる論理を鍛え、
日常的な教育実践を組み替えていくことが求められています。
3 考え方の何が問題
ナショナリズムは、政治、経済、文化などあらゆるものに貫かれています。いろんなもの
にくっついて、事柄をそのままに見ることを妨げたり、人と人の関係の仕方を歪めます。自
分の所属する国家のことを中心に考えたり、自分の所属している国を愛するのは当然だと考
える人もいますが、それは「当然」でも「自然」でもありません。「健全なナショナリズム
」があるという人もいますが、定義からして原理的にそれはあり得ません。
ナショナリズムの基本問題は、一つは日本の国家的利益を優先し、他の国を不当に抑圧す
ることにあります。それを自国中心主義と言います。例えば、二酸化炭素の排出量に関する
国際的規制の合意ができないのも、基本的には米国や日本などが自国の利益を優先させよう
としているからです。その結果、途上国ばかりでなく地球環境そのものを危機にさらすこと
になっています。国と国の関係を力関係で考える危険な思想です。
二つには、国家を個人よりも上位に位置づけることによって、個々の人間の権利を奪った
り抑圧することにあります。自らを癒しながら、他者は抑圧するのです。特定の考え方を国
家の考え方とし、それにあてはまらない人々や個人の考え方を抑圧します。例えば、「職場
や学校のマドンナ」という言い方が今も流通してます。ここには、旧来の国家公認のジェン
ダーがあり、女性を飾りとして眼差しているわけです。さらに、家父長的な家族観や、型に
はまった「男/女らしさ」が本当はあるんだという差別的な考え方に同調する保守派は、ジ
ェンダー・フリーの教育を不当に攻撃しています。こんな風に国家に認知された考え方とは
違った人を差別し、抑圧していくわけです。
関連しますが、三つには、個人や個人のアイデンティティを国家の枠組みの中で理解しよ
うとします。例えば、国家とは無関係にスポーツをしているのに、国籍以上の意味が付与さ
れて「日本の名誉を一身に背負った日本国民たる選手」にされてしまいます。それぞれの人
を個人として理解するのではなく、歪んだまなざしで見ていく問題を抱えています。
4 ナショナリズムの育て方
ナショナリズムや愛国心を育てる仕組みには二つあります。一つは、国籍によって人間を
区分する制度をつくった上で、権力を使って上から無理矢理にでも「日本人」「日本国民」
の「誇り」「自覚」を持たせようとするものです。
例えば、文部科学省や各地の教育委員会による行事・儀式における君が代の強制はその代
表例です。あるいは、教科書に日本の植民地支配を正当化する記述を盛り込ませたり、盛り
込んだ教科書を学校で使わせようとするやり方です。権力によって、制度化し、システム化
して、それを団体・個人に表から強制する中で、愛国心を育てるやり方です。自身の傷や弱
さを癒すような語りを内側に向かって発することもありますが、その場合も外側に向かって
は暴力的です。
権力的に迫られるので仕方なく従っているだけだという人も多いのですが、その力の前に
ナショナリズムを魂にしてしまう人もいます。「形を合わせるだけだから気にしなくても」
と同じやり過ごし方を他人に求める人もいますが、自由の侵害という点では同じです。しか
し、統制を強めると面従腹背になるというジレンマが保守派にあるのも事実です。
もう一つは、既に触れたように、社会や文化の中にナショナリズム・愛国心をそっと埋め
込んでおいたり、それと関連づけて理解するやり方です。日本の「伝統文化」、日本人の精
神や行動様式になんらかの固有性が存在すると主張するやり方です。人の文化活動(知の水
準)、生活習慣、志向を、国家あるいは民族性と関連づけて説明するのです。
特に、次のような語りには危険がいっぱいです。一つは、「日本人は集団主義的で、個が
確立していない」。二つには、「以心伝心」という超論理的コミュニケーション論。三つに
は、「社会が同質的で単一的だ」。四つには、「日本文化はわび・さびのように民族に固有
なものがある」。五つには、稲作文化と関連づけて「日本特有の風土がある」という言説で
す(吉野耕作他『国際化時代の教育』岩波書店)。こうした主張には根拠がありません。
「伝統文化」の起源が日本ではなく、中国や朝鮮であったりします。稲作も一部にすぎず、
山海民も沢山いたわけです。ほんの少し冷静に考えれば、間違っていることは明白です。デ
マにすぎません。それにあてはまらない日本国籍保有者も沢山いるのです。
にもかかわらず、生活習慣、家族愛・郷土愛などあらゆることがナショナリズムに関連づ
けられ、何度も語られるので、同調してしまうわけです。一つひとつは小さな事柄ですが、
それらが「国民」を創りだし、国家的一体感を醸し出していく危険な手法なわけです。
5 ナショナリズム越える問いかけ
ナショナリズムを教育活動の中で越えていくにはどうしたらいいでしょう。現在の市場中
心主義の政策や大国主義的な社会論で満たされ、そうした社会を支える人材養成を使命とし
ていますから、これを全体的に変えるのは大変なことです。しかし、比較的簡単にできるこ
ともたくさんあります。
この時大切な観点は、自国中心主義とは違った世界の方向や動向を示すことこそ、公正な
教育だということです。国家を構成する国民へと子どもを教育するのも公正とは言えないと
いう把握をすることです。「国民」のいない国家がないように、「国民」もナショナリズム
の担い手です。軍国主義の教育のみならず、戦後広まった国民教育もナショナリズムの様相
を強く持っています。国家や国民の側から世界を眺めるのは偏った教育です。「国民」一人
一人に身体化された文化にはナショナリズムが染みついており、こうした点については十分
に捉え返されていません。例えば、歴史教育は日本の側から学ばれることが多く、アジアの
国々・個人の側からほとんど学ばれていません。歴史を学ぶ子どもは日本人であることが自
明の前提とされています。それは、在日コリアンやニューカマーの人たちが無視されている
というだけではありません。個人を国籍や民族それぞれの集団に分類して教育するという発
想が間違っているのです。今配分されている文化を無視して学びをはじめることはできませ
んが、どんな文化を自分の文化として選び造り直していくかは、学習者が選べばいいので
す。むしろ、選べるようにすることが教育です。
ナショナリズムを越える手始めに次のような問いを立ててみませんか。日本人、中国人、
アメリカ人、国民などと集合名詞で人間の属性が語られているときには、固有名詞に置き直
し、本当にみながその属性にあてはまるか考えてみるのです。こうすると、本当はいろんな
考え方をする人がいることが見えてきます。また、なぜ一方を無視した発言をしたのか、そ
の意図も見えてくるかもしれません。もっと時間があれば、前節で述べたように、「伝統文
化」と呼ばれるものの起源や歴史を調べていくのです。文化が単一でも純粋でもないことが
見えてくるでしょう。こんなことなら誰でもできます。「自然」「当然」「当たり前」とい
う主張が全く恣意的であることもわかってくるでしょう。そうした中で、私たち自身に染み
ついているナショナリズムを批判し、国家に回収されない人間としての市民を育てていくこ
とができるのではないでしょうか。この論点は、国民教育を国家の教育と区別する見地も同
時にやがて越えていきたいという趣旨が込められている叙述です。
(『学校と教室のポリティクス』フォーラム・A、2004年参照)