学習指導要領の改訂をどう見るか
1 受け止め方
03年12月26日、学習指導要領が一部改訂された。実施されてから2年足らずのことで
ある。異例の事態なのだが、社会的にも、学校関係者の間でも当然のこととして受け止めら
れているようである。
そんな受け止め方が支配的となる理由は、世間では「学力低下論」が圧倒的に語られ、そ
の責任が「ゆとり教育」に帰せられ、その政策の代表として学習指導要領の内容削減が槍玉
に挙げられ続けていたからである。学習指導要領が変わるのは時間の問題だという見方がで
きあがっていたからである。そのために、その批判に応えて文科省も学習指導要領を変えた
のだろうと思い込むことになったのである。
つまり、「ゆとり教育」で教える内容を削減し、通常の教科の時間を削減したので「学力」
が低下したという批判が本当かどうかはともかく、すでに学習指導要領の改訂は常識となっ
ていたのである。これに文科省が応えた結果であって、既におりこみ済みの対応だと思われ
ているわけである。だから、いかなる根拠によるものかを検討することなく、とにかく削減
した教科内容を復活させるのは当然と理解されているわけである。すなわち、円周率の 3.14
や台形の面積の復活は、理由もなく、なぜか当然なのである。復活した内容は、誰でもが学
ぶものだと思っているようだ。少なくとも、自分の子どもは、学ぶ側にいると思っているよ
うにみえる。結局のところ、文科省も「ゆとり教育」という方針を撤回したのだと理解して
いる人が多いのである。
だが、この理解は、完全な間違いである。実際に何が変わって、どんなことが強調されて
いるのかを見るとそのことははっきりする。結論を言えば、文科省は、本来の狙いであった
多様化教育すなわち「ゆとり教育」を一層前へ進めることになったのである。文科省は、一
時「確かな学力」などといったが、こうした揺れを「迷走」と呼ぶ人もいるが、やはり、元
へと戻った点に注目する必要がある。
この点を見ないと、多くの人が当然のことと受け止めていることと、実際にそこで進行す
ることとの間の大きなギャップを理解できない。以下、具体的な学習指導要領の改訂内容と
つき合わせながら、とりわけ「基礎」と「発展」の問題を中心に論述する。
2 学習指導要領のどこが変わったか
まず、何が変わったのかを確認しておこう。
一つは、学習指導要領の基準以上の内容を教えることを認めたことである。「学習指導要
領の基準性を踏まえた指導の一層の充実」と説明される。その改訂点は、「学習指導要領に
示していない内容を加えて指導することができることを明確にした」点にある。
二つには、教科と関連した総合学習にすることが強調された。「総合的な学習の時間の一
層の充実」とは、教科と関連した学習なのである。これに応じて、体験するだけではなく、
目標の明確化を強調することになったのである。
三つには、「個に応じた指導の一層の充実」と呼んで、「学習内容の習熟の程度に応じた
指導、補充的な学習や発展的な学習などの学習活動を取り入れた指導」を強力に推進するこ
ととなった。いわゆる「習熟度別学習」を教育の方法として推進することになったわけであ
る。一つ目が教える内容的変更点となっているのに対して、この三つ目はその方法的 指示
となっており、密接に関連している。
四つには、これに連動しながら、授業時数の確保とその管理をひたすら追求することとな
った。このために、全国的には、二学期制、短縮授業の縮小などを、教師と子どもに無理を
強いる形で進行させることになった。
こうした改訂を文科省は、「[確かな学力]を育成し、[生きる力]をはぐくむという新学
習指導要領の更なる定着を進め、そのねらいの一層の実現を図るため」の改訂だと位置づけ
ている。この位置づけは、当初の狙いどおりだといっているわけだが、それは文科省のメン
ツを保つためのものなどではない。本当にそうなのである。ここは大切な記述である。世間
の受け止め方は旧来の方針を変えたと思っているが、文科省は違うと言っている。さらに学
校現場で進行することは、紆余曲折を伴ったものとなってくるだろう。
3 幻想のつくり方
幻想は、「ゆとり教育」を止めたので、より多くの知識を詰め込む教育へと回帰したとい
うものである。その幻想にはまった人は、保守主義的な思潮と重なりながら、ドリル的学習
にとりつかれていく。そこでドリル的プリントが書店にも数多く並ぶこととなった。
しかし、文科省の実際の力点は、「ゆとり教育」=多元的能力主義の教育であった。そこ
で、習熟度別学習の強制が全国的に進められることとなった。「少人数授業」と呼ばれる授
業を受ける一クラスあたりの人数を減らしてほしいという市民・教師の願いを逆手にとって、
少人数授業=習熟度別学習とすることによって、人の配置と予算を絡めながら推し進めるこ
ととなった。
つまり、学校的な幻想のつくり方はこうだ。
1)行政が少人数加配と呼ばれる教師の配置を予算化する。
2)加配教師を獲得するためには、単に少人数教育ではなく、習熟度別学習を行うので必要
だと学校に要求させる。
3)要求があったことを理由に行政は、習熟度別学習を行うための教師を加配する。
4)行政は、学校をチェックしながら、その教育効果もあったという報告を挙げさせる。
5)学校評価や教師評価に影響するので、少人数化による効果であろうとなかろうと、学校
は「成果があった」という数値と報告書を提出する。
6)習熟度別学習を多くの学校が支持し、効果もあるというマスコミ情報が配信される。
こうして「習熟度別学習は効果を上げている」というデータと世論ができあがっていく。
この構造があることを何人かの管理職を含む教師が筆者に語っている。こうして制度として
の習熟度別学習が定着させられようとしているわけである。
そして、実際にできあがる教育構造は、補充コースと標準コース、そして発展的コースと
いう多様化教育=多元的能力主義教育そのものなのである。
この巧妙さは、人と予算を握り、少人数授業と「習熟度別学習」、「習熟度別学習」と能
力別編成という似た側面を持つものを混同させながら導入してきている点にある。つまり、
クラス編成を変えて習熟度別学習にし、しかもそのクラス編成規模をいくらかでも減少させ
れば、わずかではあっても少人数授業となる。少人数化と習熟度別という二つの要因を重ね
ている。もう一つは、習熟度別という言葉を使うことによって能力主義という抵抗感のある
言葉を避けているわけである。抵抗のある言葉を避けながら、批判を受けても少人数のメリ
ットと「習熟は必要だ」とごまかしのご都合主義的な応答をするのである。
このことを多くの教師は実は知っている。だから、「習熟度別学習は効果的だ」という情
報が怪しいことをいくらかは知っている。にもかかわらず、相当数の教師たちが本気で支持
しているのもまた事実である。その事情は以下のことがあるからだろう。
一つは、ドリル的学習と習熟とが「一部」において親和的な構造を持っていることによる。
つまり、習熟ということは、言葉の本来の意味において反復的性格を持っていることが根底
にある。二つには、習熟度別学習の少なくとも二つのコースにおいては、ドリル的性格の学
習を与えることが常となっているからである。つまり、理解の遅い子どもたちのコースと中
間的コースの子どもたちのコースの場合、基礎の徹底もしくは定着という言葉が頻繁に使用
され、ドリル的学習を中心とした習熟度別学習となると考えられているからである。三つに
は、どの子にもそれなりの習熟は必要だろうし、それを保障する限りでは価値があるという
近代主義的価値観に由来する。
こうして「学力低下対策」として反復訓練が強調され、「ゆとり教育」が方向転換したよ
うに思われているが、実際に進められていることは、「学力」の中下位層には反復訓練が確
かに増えているが、上位層には必ずしもそうではない。学校現場では、一方に、ドリル的学
習、強制的学習が広がりを見せているが、その教育を「享受する」のは中下位層の子どもた
ちである。上位層に期待されていることは違う。そうした複線化した学習コースが小学校の
時からできあがってきているわけである。
コース別教育の姿こそが今回の学習指導要領の最大の眼目であった。よく見てみるとでき
あがった仕組みは、「ゆとり教育」=能力主義的多様化そのものである。能力主義的多様化
が、授業の一コマ一コマにまで徹底できるシステムを構築することになったのだ。基礎の徹
底と発展的内容の導入によって、教える内容の格差付けが可能となったわけである。基準だ
けを学ぶ子どもと、基準を超える内容を学ぶものとが別れることになったのである。さらに、
学習の方法として、ドリル的学習を基本に据え、その基本のままに終わる子どもたちと、そ
れとは違った活動を通して学ぶ子どもたちとに分かれることになった。
まさに、「ゆとり教育」=多元的能力主義の教育ができあがったのである。だから、文科
省にとっては、「新学習指導要領の更なる定着を進め、そのねらいの一層の実現を図るため」
の改訂となったわけである。「ゆとり教育」から「学力低下」対策へなどという理解は、事
実を見ない虚言にすぎない。
4 習熟度別の問題点
教える内容と教え方を子どもによって変えるという方針を示し、その方針に従う世論づくり
がこの間行われたと見るのが正しいのではないか。これは、政財界がこの間人材養成の基本
に据えてきた、労働者の3区分に対応する教育システムの構築だと考えられる。すなわち、
「長期蓄積能力活用型グループ」というエリート、「高度専門能力活用型グループ」という
一時的専門職者、「雇用柔軟型グループ」という不安定雇用層という区分に対応している
(日本経営者団体連盟『新時代の「日本的経営」』1995年)。
ともあれ、どこに問題があるのか手短に指摘しておきたい。一つは、根拠もなく、教育内
容の標準が定められ、他方に、発展的内容が定められてしまっていることである。なぜ台形
の面積の公式は発展的内容なのか。教科書検定において一方的に標準と発展に区分されただ
けである。その混乱ぶりは、この春の小学校用教科書の検定で明らかにされたところである。
教科内容としては標準と発展の基準がはっきりしないのである。
二つには、発展的内容なるものをなぜ一部の子どもは学ばなくてもいいのか。これについ
ての説明は公式には存在しない。暗黙の了解として、「わからないだろうから教えなくても
いい」ということ以外にはないのではないか。
三つには、習熟度別学習といっているが、実態は能力別である。いくつかの賢明な学校は教
育学の用語と知見に沿って、単元の学習過程の結果として「行為の自動化」(これを習熟と
いう)に差がある場合に、その対策として習熟に応じて課題を変える教育活動をおこなって
いる。これは道理のあることといえなくもない。しかし、相当数の学校が、単元の学習を始
める前から、習熟度別というクラス編成を行っている。これは一般に、能力別クラス編成と
呼ぶ以外にはあり得ない。さらに、問題は、そのような能力別クラス編成をすることが子ど
もたちの学習にとってプラスに作用するという根拠がないことである。能力別に学ぶと効率
的で学力も上がるというデータは存在しないが、そのように信じている人は多い。むしろ、
能力別教育を行っている国家の方が、いわゆる学力的に困難を抱えているという報告もある。
(佐藤学『習熟度別指導の何が問題か』岩波書店)
四つには、習熟度別学習という学習構想は、きわめて貧困なドリル的学びとなっているこ
とである。結局、知識を記憶させようとする学習となっているのである。これまでにもその
傾向はあったが、これに拍車をかけることになっている。標準とされた内容と発展的内容を
截然と分けて、それぞれをドリル的学習にしてしまう傾向がある。(詳細な批判と対抗軸に
ついては、山本理絵「教室における能力主義の政治」『学校と教室のポリティクス』フォー
ラム・A参照。)
基本を学ぶということは、具体的な問題の中で学ぶのであり、基本とされた個別の知識だ
けを記憶するために学ぶのではない。それでは、基本だとは理解されない。本当は、学ぶこ
とによって自然や社会が具体的に見えてくることが重要なのである。さらに、単に法則を覚
えることではなく、その 分け がわかるように学ぶことが求められているのである。子ども
に視点を当てて言えば、子どもが何を知りたがっているのか、何を学びたがっているのかと
無関係に授業を行うことはできない。ところが、学習指導要領が基準だと言われるようにな
ってからは、そうしたこととは無関係に授業を組み立てる傾向が広がっている。このことが、
2月7日の民研主催シンポにおける原田報告でも提起された。つまり、子どもが何かができ
ないから、これに対処しようとして個別の知識を教え込むのではなく、子どもの関心に沿っ
て全体として働きかけていくことこそ重要だというわけである。そうした中で子どもは変わ
っていくのだという主張こそ、教育活動の原則である。
5、教科と関連した総合学習は改善か
部分改訂のもう一つの柱が、『総合的な学習の時間』の問題である。今回、学校は計画を
立て、教師は指導するのだと書き加えられた。また、体験主義的な『総合的な学習の時間』
は否定的に評価されることになった。目的のはっきりしない体験活動が確かに一部の学校で
行われていた。たんに学校の近所の掃除、福祉施設へ行くだけの福祉教育があった。それは、
すでにあいち民研をはじめ多くの人々からも指摘されていた問題点の一つであった。それで
は、これが今回改善されたと評価していいのだろうか。
総合的な学習の時間と教科などとの関連を一般的に指摘したにすぎないとすれば、確かに、
改善と評価することができよう。しかし、教科は基準とされた教科内容の徹底の時間、総合
学習はそれを「学習や生活において生かし,それらが総合的に働くようにする」時間とされ、
いわば応用の時間へと分担されたと考えざるをえない。そのように実践化すると、教科の学
習は貧しいままとなる。
また、「総合的な学習の時間」は教科に関わった事柄しか取り上げられなくなってしまう。
物事を全体として追求するのではなく、教科書の範囲に押し込めてしまう危険性が増大して
いるのである。例えば、「イラクへの自衛隊派遣は復興支援であって、米国への軍事的荷担
だという認識は、教科書の範囲を逸脱する」などという事態が生まれるということである。
実際、特に、中学校より上の学年では、受験に関わる内容を教える時間に実質的に改変して
いる学校も出現し始めている。
また、生活に生かすことが性急に求められる危険を持つ規定ともなった。そうなると、生
活に生かしているらしい行動とセリフだけが蔓延し、実際の行動は別のものとなる可能性が
高い。しかし、今必要なことは、教科の学習を総合的性格の学習に変えることこそ求められ
ているのである。テーマを知的・活動的に学ぶ時間にすることが必要なのであって、知の生
活化を性急に求めるべきではない。それは、教育を必ず道徳主義化する。
紙数が尽きた。時間数確保規定は教育の数値化と連なった愚策だが、それは成果主義とい
う非人間的な労務管理の教育への思慮を欠いた適用である。メガバンクの経営者や幹部たち
あるいは企業経営者たちが、成果主義の導入を語るが、彼らこそ銀行を破綻させた張本人た
ちであり、借金を踏み倒したり、税金の投入を受けた本業に失敗した者たちである。直接に
は、銀行系の会社に勤務していた経済アナリストを指すが、他にも日本経団連には、そうし
た傷を持つものが多い。そうした彼らの思いつきで教育が改善するはずがない。これについ
ては別の機会に批判してみたい。(2004.5)