参加と民主主義

                      子安 潤(愛知教育大学)

 

1   問題設定

  この論文においては、子どもたちの授業への参加に関する考え方について検討する。すでに、私は、子どもの授業への参加を教師の指導性との関係から、一定の解明を行ってきた。(1)そこでは、「共同探求的授業」と名づけた授業構想を前提とした参加論を展開した。その時の議論は、子どもを教師に指導されるだけの存在ではなく、授業の内容や方法に関与・参加する存在として位置づけ、世界を共に探求し名づけ直していく構想を展開したものであった。この構想は比較的多くの反響を呼び、いくつかの疑問や批判を受けるという幸運に恵まれた。それらの疑問・批判の中には、未解明なままになっている論点があるために生まれた疑問もあっただろうし、不十分な論述のために疑義を引き起こしている点もあるであろう。それらの内のいくつかに応答するつもりで書いてみたい。さらに、単に批判への回答というのではなく、現在の教育界の状況に応じて解明が必要だと思われる点も生まれているようにも思われる。そこで多くの課題があるが、以下の事情を考慮して、子どもの参加を巡る基本的な考え方に関わって考察を加えてみることにする。

  第一の事情は、提出された疑義が集中した点への応答である。すなわち、子どもの自己決定や共同決定を含む学び、「共同探求的授業」などいわゆる参加型学習などと呼ばれる授業について提出された疑義は、およそ「教師の指導性が阻害されるのではないか?」、「子どもは判断を本当にできるのか?」といった類のものであった。これに一定応えてみたい。

 ところで、上記のような疑義や異見を提出された方の多くは、その異見の前提として、教育に関する特定の観念があるように思われる。その中核的な観念は、「教える内容や方法は学校や教師が専制的に決定するものである」というものである。一種のパターナリズムを内包させたこの観念は、未熟な子どもを大人社会へ参入させる責任が国家あるいは大人・教師にあるという考え方を宿しているように思われる。そうした観念を持っているために、それを否定するかもしれない「子どもの参加」論とその実践に対して否定的見解が表明されているように思われる。だが、そのような観念は、普遍的妥当性を持つものなのかどうか検討してみたい。さらにまた、大人社会や学校の責任を否定することはできないとしても、別の捉え方の可能性はないのかどうかを民主主義の視点から批判的に考察してみたい。

 二つ目の事情は、子どもの参加を教育のあらゆる局面でそれぞれに相応しい仕方で実現していくことがより重要となってきているという事情である。例えば、子どもの関係性の稀薄化を示す実態が様々に指摘されているが、その原因の一つが子どもに権利行使機会を剥奪してきた学校や社会のシステムにあると思われるからである。 (2)例えば、保守的な潮流の中には、子どもの規範や行動をいっそう厳しく統制するシステムによって今日の状況に対応しようとする見解がある。(3)これらは、子どもを特定と思想と行動への僕にするものである。そうではなくて、教育への参加主体として子どもを捉え、それに相応しい権利行使の機会と力を育てていくことこそ重要だと思われるからである。

 第三の事情は、前述のような状況と並んで、授業の局面では「子どもの参加」が実践されているかのような試みが広まってきているからである。すなわち、子どもが学習の計画を立て、自ら学んでいくような授業が全国的に推奨されているという事情である。かつてのドルトン・プランに似た実践のようにも思われるそれであるが、それらは、本当に子どもの参加を含む自己決定となっているのであろうか。

  以上のような観念や動向を視野に、授業における子どもの参加を捉え返してみたい。こうした検討を介さない限り、子どもの参加型学習も子どもを操作する手法に矮小化されていかざるを得ないように思われるからである。

 

2 参加の民主主義について

 参加の問題は民主主義の問題である。参加に意義があるのかないのか、この点から始めよう。

 制度でもあり理念でもある民主主義には、多様な民主主義論があり、長い歴史を有している。論点も多岐にわたる。だが、どのような民主主義論も、その担い手としての参加者の範囲、政治的決定事項の範囲、さらにその決定の正統化のシステムとを問題としてきた(デヴィッド・ヘルド『民主政の諸類型』お茶の水書房、 1998年参照)。参加者の範囲は、ごく少数の者から「すべて」の個人へと基本的には拡大されてきた。実際には現在においても参加者は限定されたままであるが、西洋的近代において建前上すべての平等な個人の存在を前提とするようになった。

 より多くの者が決定に参加する方向を強く主張するのは、「参加民主主義」(C.B.マクファーソン等)と言われる見地である。そこにおける参加の基本的意義は、「決定設定に実効的に参加し得る機会に恵まれていることを知れば、参加に意義を覚え、積極的に参加するのみならず、集団的決定が拘束力をもつべきである」と理解されている(同前書、 340〜341頁)。そして、懸案事項についての十分な理解、投票の平等、実効的な参加の機会の保障といった条件が、決定への参加には不可欠だと言われている(同前書、393頁)。この参加の意義は、教育の世界においても「決定に参加すると積極的に活動し、学ぶものだ」と見なされる傾向がある。

 もっとも、従来の民主主義についてラディカル・デモクラシーの陣営は、一定の契約をもつ共同体内に限定された民主主義であったという批判を展開しており(ディヴィット・トレンド編『ラディカル・デモクラシー』三嶺書房、 1998年参照)、参加論に限界もあるといわれる。また、参加が保障されたとしても、自動的に参加の意義がすべての人に実感されるわけではない。このように参加民主主義にも課題があるが、しかし、その意義自体が否定されているわけではなく、参加の意義を認め一層の実質化を求めているのだと思われる。

  このように参加民主主義の陣営なども参加を実現する諸条件を解明しようとはしているものの、その条件を直ちに満たす制度的展望をつくり出し得てはいない。さらに、前述以外にも国家や大規模共同体においては参加民主主義の実現が困難だという指摘などがあり、民主主義像が確立しているとは言えないのである。しかしながら、参加民主主義の議論においても、住民運動や代表民主主義との結合を主張していたことを考慮すれば(C.B.マクファーソン『自由民主主義は生き残れるか』岩波書店、1978年参照)、それだけで万能というわけでもないし、完成された民主主義モデルが存在しているわけでもないが、参加の意義を認め、共同体主義者のように同化の手段としての参加にしてしまわない限り、すべての者が決定に参加する道を拡大していくように追求されてしかるべきだと考える。教育は、実践的には、小規模集団を単位とする営みであり、参加の実現可能性が高い領域である。

 こうした参加論や人権の拡大を求める世界的な運動の中で、子どもを参加する主体として位置づける「子どもの権利条約」などが生まれてきたものと解される。教育においても、他者と関わりながら自己決定するプロセスにおいて子どもがエンパワーされるのだと、参加の意義を捉えるようになってきた(例えば、田代高章、「子どもの権利とエンパワーメント」『生活指導研究 16号』エイデル研究所、1999年)。

  参加の意義について認知されるようになってきたにもかかわらず、授業への子どもの参加となると依然として疑義のまなざしが向けられるのは、子どもの権利条約の考え方を具体化する取り組みがきわめて不十分な状況のもとにあること、授業において子どもの参加を実質的に保障する仕組みや方法が解明されていないことが直接的な原因だと思われる。

 しかし本質的には、前述の参加の意義を認めるとしても、子どもを共同決定の参加者とすることに深い疑念をもっているからである。あるいは授業を子どもとの共同決定の対象とする点に疑いをもっているからである。参加民主主義を肯定したとしても、それは大人のことであって子どもにはやはり適用されないとする見地なのである。実際、授業の内容や方法に関しては、子どもを共同決定の参加者の範囲から排除する見方の方が支配的と言ってよいであろう。これにかかわる問題を次に検討する。

 

3 大人・教師と子どもの関係

  子どもを共同決定の参加者から排除する観念の一つは、子どもが未熟で判断ができない存在だと見るからである。つまり、参加の条件の一つであった懸案事項の十分な理解ができないというのである。しかし、この点については「子どもの権利条約」において「教育への権利」として保護対象としての子どもから権利行使主体としての子どもへという転換に関わる問題として周知の議論なのでこれ以上言及しない。したがって検討すべき観念は以下のものである。

 子どもを参加の範囲から排除するもう一つの観念は、啓蒙主義の発想である(宮沢康人『大人と子供の関係史序説』柏書房、 1998年参照)。かつて啓蒙主義は、人間の理想モデルを設定し、そのモデルへと子どもを教育しようとした。しかし、子どもの参加を問題にするということは、その考え方と対立する。子どもの参加は、特定のモデルへと同化する(啓蒙される)のとは違った道がある場合にのみ、有意義だからである。

 二つには、大人対子どもの関係、あるいは教師対子どもの関係を本質的に権力的な関係であると見なしたり、権力的関係を背景とした非対称的関係と見なすものである。この場合にも、子どもの参加は問題とならない。参加の余地はないからである。

 自律した個人の関係を土台とする近代における不平等な関係の一つが、大人と子どもの関係である。しかし、大人対子どもの関係は、永遠に不平等な関係としての労働者対資本家のような関係ではなく、やがては大人になる子どもとの関係という意味で特殊性をもっている。だから、この意味で両者の間の基準は越えることができない絶対的区分ではない。また、宮沢が言うように(同前書、 22頁以下参照)、「子ども」が発見されたものであり、「大人」と「子ども」に区分することによってそれぞれが誕生したとすれば、子どもの参加権を剥奪する本質的な理由はないと言えよう。子どもの権利を制限することによって子どもの人権を守るという趣旨から労働権、選挙権、結婚の自由などが制限されているが、それらと教育への参加権は区別される。

 問題は、存在としての「子ども」という問題よりも、大人の子どもに対する機能とそこから生まれる関係の観念にあると思われる。つまり、大人世代が子ども世代に文化を伝えるという機能と、そこから派生している権力的関係の観念である。詳細な研究に待つ必要もあるが、概ね次のように捉えられるように思われる。

 それは、伝える側がその内容や方法を決定するのは当然であり、その関係は上下関係を当然とする観念である。こうした観念が生まれるのは、伝達の際に両者の間には圧倒的な力の差が存在しているためである。そこで、機能における非対称性が権力関係と同一視されることになってきたのではないか。

 しかし、大人世代が子ども世代に文化を分かち伝える機能を果たし続けるとしても、力の差がそこに存在したとしても、子どもの参加権を剥奪する理由とはならない。機能の違いをもって直ちに権力的関係を是認することにはならないからである。逆に、力の差があるからこそ、参加を保障していくシステムが必要という見地をとることもまたできるのである。(喜多明人他『子どもの参加の権利』三省堂、 1996年参照)

  あるいは国家の教育責任・義務と子どもという関係としてみた場合にも、権力的関係の樹立として捉えるのではなく、教育自治を前提にそこに子どもを参加させる責任を国家と市民がそれぞれに担うと捉え、子どもの参加を通じて社会に参入するという構想も可能である。これは、いつでも国民国家に保護される主権者としての子どもと捉えるのではなく、国家を制約する権利としての人権という把握に基づく主権者としての子どもという見方を前提にしている(浦田一郎、「総論民主主義法学と人権論の構想」『法の科学29号』日本評論社、2000年参照)。

 教師と子ども関係においても、基本的には上述の関係において捉えられるべきである。教師の専門性(指導性)は、一方的に「最良」の教科内容を選択し、「最良」の学習活動を指示することにあるわけではない。本来的には、社会的合意の中で学校教育の目標や内容の基本線に沿いつつ(このレベルにおいて子どもが意見を表明することはある)、具体的問題や学習活動の方法について子どもたちに提起し、共同決定の場を設定し、共同決定する力を育てるところにこそある。

 また、教育の成立が、本質的に子どもの自主性に依拠せざるを得ないとすれば、授業への子どもの参加も、教育への権利の一つとして積極的に位置づけて行くべきであろう。子どもの参加を保障し、子どもの声に耳を傾けることは、子どもに市民社会に生きる自由と権利の場を提供することなのである。「教育とは全体主義の反対物である。教育するとは、相手の言葉が常軌を逸したもの、思いがけないもの、型にはまらないものとなるような事態を甘受し、しかも相手に人間的に語りかけつづけることである。ここにこそ、教育が自由を生み出すものとなるための可能な道の一つがあり、また、二度と再び獣の腹が多産とならないように、教育が警戒心をもって記憶を保持することを可能にするための手段の一つがある。」ジャン =F=フォルジュ『21世紀の子どもたちにアウシュヴィッツをいかに教えるか?』作品社2000年、235頁。今、同化や統制ではなく、権利行使としての参加を励ますことこそ必要なのである。

 

4 自己決定と共同決定の教育について

  以上のように見てくると、共同決定の仕組みや場をいかにつくり出すか、すなわち教育における公共性を構築し続ける現場をいかにつくり出すかが重要な課題ということになる。これに関わって、以下では、教育実践動向における若干の参加問題を指摘しておきたい。

  すでに見てきたように参加とは、共同決定に加わることであり、現実と関係を変える諸活動に加わることである。だから、参加は、個人の自己決定を基礎とした社会的・集団的活動である。この規定に従えば、学校教育を国家や大人によって決定されきったものと見るならば、子どもの参加はあり得ない。子どもの同化と服従があるだけである。また同時に、個人が自己の思いのままに活動するときにも、基本的に参加は問題とならないことも指摘しておきたい。子どもが他者と共に活動を遂行する場合にのみ参加は、問題となるのである。

 以上の見方から、冒頭の授業動向を検討してみたい。

  中央教育審議会第一次答申(1996)が「自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」を「生きる力」と呼称するようになって以後、子どもに課題の設定からその解決までを委ねる実践が広がった。これを受けた教育課程審議会答申(1998)で「総合的な学習の時間」において、「児童生徒の興味・関心に基づく課題」の設定が一つの行き方として認知されて一層その動向は広がっている。

 文部省の作成した『特色ある教育活動の展開のための実践事例集ー「総合的な学習の時間」の学習活動の展開ー(小学校編)』を見ると、事実上何の制約もないテーマ設定・学習過程を基本とするものと、一定の枠を設けているものとがある。しかし、それらの実践に共通するのは、子どもに自己選択を絶えず求める構造がそこにあることである。具体的には、子どもがテーマや学習方法、さらには評価をもを自己選択する構造が確かに組み込まれている。

 しかし、それらは、未だ参加ではないように思われる。確かに、実践において子ども相互のコミュニケーションなどが織り込まれている。だが、それらの位置づけは、「すべて個人の自由を認めていくもの」であって、「自分らしい学び方を身につけていくこと」(同前書、 76〜77頁)に焦点づけられているために、本質的に共同決定のないプライベートな活動であり、学習対象の共有や、対象と子ども相互の関係という視点がきわめて弱くなっている。そうした構想は、孤立した学習活動となって、子ども相互の関係性を豊かなものにすることができないのである。

  ここに自己選択論の限界があるのではないか。自己選択は、共同決定を含む社会的・集団的活動と接合されて学びにおける参加となるのではないだろうか。

 また、自己選択だけで終わる実践の場合には、参加を欠くことによって子どもと教師の関係は従来と何ら変わることがない。ここに、「自己選択論」と「子どもの参加論」の違いがあると思われる。このように言いうるとすれば、自己選択自己責任型の授業から、自己選択共同決定型の授業へと転換することが、本当は「学びの転換」ということではないだろうか。

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