| 反「学力」の教育へ |
|
1 教基法改定と学力 4月13日に、教育基本法改訂に向けた与党合意案ができたと一斉に報じられた。まだまだ紆余曲折がある事柄だが、これは「学力」問題とも連動している。 話題の中心は、「愛国心」の表現を「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とした部分に集中している。愛国心問題自体も「伝統と文化を学べ」と強制されることになるので「学力」とも連動しているが、そればかりではない。 国家と地方行政機関による教育内容選択が合法化され、教育内容そのものの一方的で恣意的な強制があらゆる教科と教科外活動で始まることになる問題も抱えている。教基法改定の要綱によれば、教育行政の項において「国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」と記し、続いて「地方公共団体は、当該地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない」とあり、さらに教育振興基本計画の項目において「教育の振興に関する施策についての基本的な方針および講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め」るとしている。この基本的な計画の中に、教育の内容が織り込まれるものと想定される。既に、自治体の首長が教育内容や教育方法について思いつき的強制を始めているが、その合法化となる。 そもそも法律の中に教育の目標を記述することには問題があるのだが、教育の要とも言うべき内容を、政治家や行政が決定することは、教育活動を歪めるものである。自身の政治的意図に都合よく教える内容を選択されたのでは、子どもや保護者そして教師はかなわない。これは、「学力」の内容的支配を意味し、思想信条の自由の浸食である「愛国心」問題以上の重大な事柄である。政治によって教える内容の真偽が変わってしまう可能性さえ宿している。行政的決定とは異なる仕組みが別に必要なのである。 2 学力っていうな 昨年6月に食育基本法が成立した。同法の付則によれば、「『食』に関する知識と『食』を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進すること」が基本的目的とされる。一般的に言えば異論はない。しかし、中教審に百マス計算信者が「早寝早起き朝ご飯が学力アップ」というおそろしく単純な趣旨の発言をしたり、根拠たり得ない「朝食を食べる子が成績がよい」といった報道などのなかで、食育も学力アップの手段とされるようになっている。愛知県内各市町村で学力アップのための食育が始まろうとしている。ご飯を食べれば「学力」がアップするわけではない。学校的成績の高さも朝食を摂ることも社会階層の格差の結果であって、原因ではない。その確率の高い問題が、階層問題を放置したまま学力アップをスローガンに恣意的に推し進められる。食にとっても迷惑な話だ。学力のための食という貧困が今生まれようとしている。このように、今日の学校の学びの貧困は、「学力」を持ち出すことによって広まっている。そこで、某新書のタイトルを真似て「学力っていうな」といいたい。もう少し、「学力」と言わないことの積極的な意味を挙げておきたい。 3 学力調査 全国的な学力調査をどのように行うのかについて、その調査協力者会議の中間まとめが3月末にまとまった。それによれば、全国的な学力調査の意義・目的について「国の責務として果たすべき義務教育の機会均等や一定以上の教育水準が確保されているかを把握し、教育の成果と課題などの結果を検証する」と書いてある。 そして、「全国的な学力調査の結果をその有用な情報の一つとして提供することにより、各教育委員会が教育施策の成果と課題を評価・検証することや、各学校が、学校評価において特色ある教育活動を適切に評価する際に、一つの具体的な指標に基づいて適切な学校評価を行うことができることとなる」とある。 だから、ここでも、学力を叫んで毎年高い税金(今年度は予備調査であるが42億円以上)を注ぎ込んでテストを行い、その結果に応じて学校評価を行う(これには約10億円が投入される)というのである。この学校評価は、当然、教師評価と連動している。 中間まとめには、この調査で分かることは学力の一部だと言ってみたりするなど配慮事項が並ぶ。しかし、学校評価や教師評価と連動させられ、下々で過激に作動するのが教育の権力という特質であることを考慮すれば、学校が「学力」という点数アップに汲々とすることは誰の目にも明らかである。「学力」というから「学力テスト」、学校評価に教師評価へと、「学力」を持ち出してなんでもやることになっていく。 だから、ここでも、「学力っていうな」といいたい。既に、子どもの成績を高く見せるための粉飾が行われていると聞く。学びの貧困化という暴風に立ち向かう教育政策と教育実践が求められている。 4 疑問を広げ深める ある子どもは、中国語を話す人が世界では一番多いのになぜ英語を学ぶのか、と疑問を教室に問いかけていた。世界に多様な言語があることを知る中で生まれた疑問だ。疑問が生まれることを励ますならば、教育活動は豊かで興味深いものとなる。学力アップの世界には疑問を生み出そうという発想がない。ここに対極の教育思想を見ることができる。 あるいは今、ジェンダー・バッシングの中で性教育を行わせない動向がある(『ジェンダー/セクシュアリティの教育を創る』明石書店を刊行したので見て欲しい)。もともとさほど広く行われていたわけではない教育領域である。しかし、その必要性は、現実を見ると明らかだ。木原雅子の『10代の性行動と日本社会』ミネルヴァ書房によれば、性経験率は30%台へと上昇し、妊娠中絶率が10年前の2倍に達し、性感染症も10代が各世代の全国平均の2倍へと増えていることを示している。こうした事実を冷静に見つめるならば、何をこそ教えなければならないかが見えてこようというものである。 学びを豊かにするのは難しくはない。事実に注目し、疑問を解き明かすように学ぶことなのである。そのチャンスを受けとめる教師と学校が必要なのである。学力っていうな。 (あいち民研通信:原稿:2006.04.15) |